いろいろ調べてみた!興味深い伊勢路😎ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第四夜▼江戸を席巻した松阪商人!松阪牛に舌鼓
伊勢神宮への旅・第四夜
こんにちは
猫好き父さんです
今回の伊勢路シリーズ
面白いですね
一つのテーマで複数回にわたり
放送するのは
ブラタモリとしては珍しい感じがします
まるで
シリーズ人体みたい
この伊勢路というか
近畿の南の方って猫好き父さんには
未知の部分が多いので
とても興味深いです
思わず気になるキーワードをメモを取りながら観ました
津市
津城
藤堂高虎
御屋敷ロード
津観音
国府阿弥陀如来
天照大御神は阿弥陀如来の仮の姿。
松阪大橋
小津家、小津安二郎
三井家発祥の地
豪商の町
旧長谷川治郎兵衛
反物
松阪縞
日本橋
紀州藩
柄杓、施し
松阪牛、明治11年
メモに基づいて少し調べてみましたよ
ブラタモリ
「憧れのお伊勢参り~行けばわかるさ伊勢路の魅力~」を旅のお題に、伊勢神宮を目指す旅。第四夜は、三重県の県庁所在地“津”からスタート。津は伊勢路の宿場町であり、築城の名手・藤堂高虎が築いた城下町だった!津城の荘厳な姿を堪能します。伊勢路を城下町に引き込んだ高虎のねらいとは?松阪では、江戸の日本橋を席巻した豪商・松阪商人が驚異の財を成した秘密や、日本屈指のブランド牛・松阪牛が生まれた理由に迫ります!
出演
【出演】タモリ,佐藤茉那,【語り】あいみょん
津市
津市(つし)は、日本のほぼ中央、三重県の中部に位置する、三重県の県庁所在地です。伊勢湾に面した地域で、海沿いの市街地から西部の山間部まで、多様な顔を持っています。
津市の特徴:
- 三重県の県都: 三重県庁をはじめとする行政機関が集まる、県の中心的な都市です。
- 広大な市域: 平成の大合併により周辺の市町村と合併し、県内最大の面積を持つ市となりました。都市部と豊かな自然環境が共存しています。
- 交通の要衝: 中部地方と近畿地方を結ぶ結節点として、鉄道(JR、近鉄)や道路網が発達しており、名古屋や大阪へのアクセスが良いです。また、中部国際空港との間に高速船が運航する「津なぎさまち」があり、空路でのアクセスも比較的便利です。
- 多様な自然: 東部は伊勢湾に面した海岸線が続き、海水浴や潮干狩りが楽しめます。西部には山間部が広がり、森林セラピー基地に認定された地域など、豊かな自然を満喫できます。
- 歴史と文化: 江戸時代には城下町として栄え、またお伊勢参りの宿場町としての側面も持っていました。国宝建造物である専修寺の御影堂や如来堂、日本三名泉の一つである榊原温泉など、歴史や文化を感じられるスポットがあります。
- 食文化: ウナギ料理や、B-1グランプリでグランプリを獲得した「津ぎょうざ」など、ご当地グルメも豊富です。
- 文教地区: 国立の三重大学をはじめ、教育機関も集まっています。
県庁所在地としての都市機能と、海、山、川といった豊かな自然が調和しており、利便性と自然環境を兼ね備えた住みやすい街として知られています。
津城
津城(つじょう)は、現在の三重県津市にあったお城です。現在は城跡が公園として整備され、「お城公園」として市民に親しまれています。
津城の歴史:
- 築城: 津城の始まりは戦国時代、織田信長の弟である織田信包(おだ のぶかね)が1580年(天正8年)に「安濃津城(あのつじょう)」として築いたことにさかのぼります。安濃川と岩田川に挟まれた低湿地に、川を外堀として取り込んだ堅固な城でした。
- 城主の変遷: 織田氏の後、富田氏が城主となり、関ヶ原の戦いを経て藤堂高虎(とうどう たかとら)が入城します。
- 藤堂高虎による改修: 築城の名手として知られる藤堂高虎は、慶長年間(1596年〜1615年)に津城を近世城郭として大規模に改修しました。石垣を高く積み、堀を広げるなど、防御を強化しました。また、城下町の整備も行い、現在の津市の基礎を築いたと言われています。以降、明治時代まで藤堂氏が城主を務めました。
- 廃城: 明治時代になり廃城令によって建物は取り壊されました。
現在の津城跡(お城公園):
- 遺構: 現在は天守などの建物は残っていませんが、藤堂高虎によって改修された本丸と西の丸の石垣が良好な状態で残っており、往時の威容を偲ばせます。石垣の積み方(算木積みなど)に見どころがあります。内堀の一部も残っています。
- 公園としての整備: 城跡は「お城公園」として整備されており、四季折々の花が楽しめる日本庭園や、藤堂高虎の騎馬像などがあります。市民の憩いの場となっています。
- その他: 城跡内には藤堂高虎を祀る高山神社もあります。また、かつての藩校である有造館の正門である入徳門が移築されています。
- 続日本100名城: 2017年には「続日本100名城」に選定されています。
津城は、戦国時代から江戸時代にかけて津のまちの発展の中心となったお城であり、現在はその歴史を感じさせる石垣などが残る貴重な史跡となっています。
藤堂高虎(とうどう たかとら)
藤堂高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・大名です。複数の主君に仕えたことで知られる一方、築城の名手としても非常に有名です。
生涯と人物像:
- 出自と出世: 1556年に近江国(現在の滋賀県)の土豪の家に生まれました。当初は低い身分でしたが、武功を重ね、また時勢を読む確かな目を持っていました。
- 「渡り奉公人」: 浅井長政を最初の主君とし、その後、織田信長、豊臣秀吉とその弟である羽柴秀長、豊臣秀保、そして最終的に徳川家康と、生涯でいくつかの主君に仕えました。このため、「七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という言葉を残したとも言われ、「渡り奉公人」の代表的な人物として語られることがあります。
- 忠義: 主君を頻繁に変えたという見方がある一方で、それぞれの主君に仕えている間は忠実に任務を果たし、特に最後の主君である徳川家康からは非常に厚い信頼を得ていました。家康は高虎を「将軍家の先陣」に指名するほどでした。
- 文武両道: 武将としての武勇だけでなく、築城術に優れ、また茶道や文化にも造詣が深い文武両道の人物でした。
築城の名手としての功績:
- 「築城三名人」の一人: 加藤清正、黒田官兵衛(孝高)と並び、「築城三名人」の一人に数えられます。
- 多くの城郭に関与: 生涯で20以上もの城の築城や改修に関わったと言われています。自身の居城だけでなく、豊臣家や徳川幕府の命による「天下普請」においても重要な役割を果たしました。
- 革新的な築城技術: 高く直線的に積み上げる石垣の技術(特に算木積み)に長け、また層塔型天守の考案や、多聞櫓の配置など、近世城郭の発展に寄与する革新的な築城術を用いました。
- 代表的な関わった城: 津城(三重県)、今治城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、伊賀上野城(三重県)、膳所城(滋賀県)、篠山城(兵庫県)、そして江戸城の改築などがあります。
津藩の礎を築く:
関ヶ原の戦いの後、徳川家康の家臣として伊勢国の一部と伊賀国一円を与えられ、津藩の初代藩主となりました。津城を大規模に改修し、城下町を整備するなど、現在の津市の発展の礎を築きました。
藤堂高虎は、激動の戦国時代を生き抜き、卓越した能力と時勢への適応力をもって大名にまで上り詰めた、異能の武将と言えるでしょう。その築城術は日本の城郭史において非常に重要な位置を占めています。
津観音(つかんのん)
津観音(つかんのん)は、三重県津市大門にある、大変歴史のあるお寺です。正式名称は**恵日山 観音寺大宝院(えにちざん かんのんじ だいほういん)**といい、宗派は真言宗醍醐派の別格本山です。
「日本三観音」の一つ:
津観音は、東京の浅草観音、名古屋の大須観音と並んで日本三観音の一つに数えられています。これは、古くから観音信仰の中心地として栄え、多くの人々の信仰を集めてきたことを示しています。
歴史:
伝承によれば、創建は和銅2年(709年)とされています。伊勢湾の阿漕ヶ浦(あこぎがうら)で漁師の網にかかった聖観音菩薩像を祀ったのが始まりと伝えられています。室町時代には足利将軍家、江戸時代には津藩主の藤堂家など、時の権力者からも保護を受けました。また、江戸時代には伊勢神宮への参拝者にとって重要な立ち寄り地とされ、「阿弥陀(国府阿弥陀如来)に参らねば片参宮(かたさんぐう)」と言われるほど信仰を集めました。
しかし、昭和20年(1945年)の津の空襲により、多くの伽藍や寺宝を焼失しました。戦後に復興が進められ、現在の姿に至ります。
見どころ・特徴:
- ご本尊: 聖観音菩薩です。また、伊勢神宮の本地仏ともされる「国府阿弥陀如来」も祀られており、特に信仰を集めています(秘仏ですが、特定の日に開帳されます)。
- 木造五重塔: 2001年に再建された、三重県では初の木造五重塔があります。
- 津観音資料館: 戦火を免れた貴重な寺宝の一部を公開しています。
- 年中行事: 2月の鬼押さえ節分会や、津まつりの会場となるなど、年間を通じて様々な行事が行われ、多くの人で賑わいます。
津観音は、度重なる苦難を乗り越え、地域の信仰の中心として、また津市のシンボルとして親しまれ続けているお寺です。
国府阿弥陀如来(こうのあみだにょらい)
国府阿弥陀如来(こうのあみだにょらい)は、三重県津市にある津観音(正式名称:恵日山 観音寺大宝院)に祀られている阿弥陀如来像です。津観音のご本尊である聖観音菩薩とは別に、古くから特に信仰を集めてきた仏様です。
** significance and Connection to Ise Jingu:**
- 本地仏: 国府阿弥陀如来は、伊勢神宮の最高神である天照大神(アマテラスオオカミ)の本地仏(ほんじぶつ)とされています。神仏習合の考え方に基づき、日本の神様は、人々を救うために仏様が仮の姿(権現)として現れたものである、とされていました。この考え方において、天照大神の本当の姿(本地)が阿弥陀如来であるとされたのです。
- 「阿弥陀に参らねば片参宮」: 江戸時代にお伊勢参りが盛んになると、伊勢神宮に参拝する人々が道中にある津観音にも立ち寄る習慣が生まれました。特にこの国府阿弥陀如来は天照大神の本地仏とされたため、「伊勢神宮にお参りしても、国府阿弥陀如来に参拝しなければ片参り(ご利益が半分になってしまう不完全な参拝)になる」と言われるほど信仰を集めました。
由来と特徴:
- 津観音の由緒によれば、この国府阿弥陀如来像は、鎌倉時代中期に伊勢神宮に参拝した僧侶が、天照大神に祈願した際に現れた姿を刻んだものと伝えられています。
- 元々は伊勢国の国府が置かれていた地域にあったお寺の本尊でしたが、後に津観音に移されたとされています。
- 通常は秘仏とされており、普段は拝見することができません。しかし、毎月18日の縁日や正月三が日などに御開帳され、そのお姿を拝むことができます。
- 江戸時代には、伊勢まで来られない人々のために、江戸や大阪で「出開帳」(本尊を運び、各地で拝観できるようにすること)も行われ、全国的に知られるようになりました。
残念ながら、この国府阿弥陀如来像は1945年の津の空襲で焼失してしまったという情報もありますが、近年200年ぶりに御朱印が復刻されるなど、現在も津観音において重要な存在として信仰されています。
国府阿弥陀如来は、神仏習合の歴史や、江戸時代のお伊勢参りの文化、そして津観音がかつて広く信仰を集めていた様子を伝える、歴史的にも文化的にも興味深い仏様です。
小津家
津市に関連する小津家としては、いくつかの系譜が考えられますが、特に有名なのは以下の二つです。
-
伊勢商人「小津清左衛門家」:
こちらは津市ではなく、隣接する松阪市の豪商です。江戸時代に紙問屋として成功し、江戸に「江戸店(えどだな)」を持つなど、日本を代表する伊勢商人として知られていました。松阪市には、当時の本宅が「旧小津清左衛門家」として保存・公開されており、「松阪商人の館」とも呼ばれています。津市との直接的な関連は薄いですが、同じ伊勢国(現在の三重県)の有力な商人の一族として言及されることがあります。
-
映画監督・小津安二郎ゆかりの小津家:
世界的な映画監督である小津安二郎(おづ やすじろう)は東京生まれですが、その父方の祖先は松阪の小津一統であり、母方の実家が津市にありました。
- 小津監督の母方の祖母は、津市(現在の美杉町地域出身)の名家から、津の宿屋町(現在の東丸之内あたり)にあった「中條家」(伊勢商人御三家の一つとされた茶業を営む家)に再婚しました。
- 小津監督は、9歳から約10年間を父の故郷である松阪で過ごしましたが、この間、母方の実家がある津市をたびたび訪れており、祖母宅に泊まったり、津の映画館に行ったりしたことが日記などに記されています。
- 特に、監督の代表作の一つである「彼岸花」という作品のタイトルは、久居(現在の津市久居地域)へ向かう汽車の窓から見た彼岸花の印象がもとになっていると言われています。
このように、直接的に「津市の小津家」として津に根付いた大名家や武家があったというよりは、松阪の豪商小津家があり、また世界的な映画監督・小津安二郎の母方の実家が津市にあった、という関連が知られています。
津市大門にある津観音の境内には、小津安二郎の津市とのゆかりを示す記念碑が建立されています。
三井家発祥の地
三井家は、現在の三重県松阪市が発祥の地です。
日本の三大財閥の一つに数えられ、現代の三井グループの源流をなす三井家は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した三井高利(みつい たかとし)によって礎が築かれました。
- 武士から商人へ: 三井家の祖先は元々近江国(現在の滋賀県)の武士でしたが、戦乱を避けて伊勢国(現在の三重県)の松阪に移り住んだとされています。高利の父である三井高俊は松阪で商いを始めました。
- 三井高利の誕生と活躍: 三井高利は1622年に松阪で生まれ、若い頃から商才を発揮しました。14歳で江戸に上り、呉服店「越後屋」を開業。掛値なしの現金取引や店前売(たなさきうり)など、当時の常識を覆す新しい商法で成功を収め、巨万の富を築きました。
- 「江戸店持ち伊勢商人」: 松阪からは、三井家の他にも長谷川家や小津家など、江戸や大阪に進出して成功した商人が多く輩出され、「江戸店持ち伊勢商人」と呼ばれました。三井家はその中でも特に規模を拡大し、両替商も兼営するなど事業を多角化していきました。
- 発祥の地・松阪: 三井高利が生まれ育った松阪の地は、「三井家発祥地」として現在も大切にされています。松阪市本町には、高利が産湯につかったと伝わる井戸や、記念碑などが残されており、市の史跡に指定されています(内部は非公開です)。また、近隣には松阪商人の当時の暮らしぶりを知ることができる「旧小津清左衛門家(松阪商人の館)」などもあります。
このように、三井家は松阪の地で商いの基礎を築き、三井高利の革新的な経営手腕によって江戸で大きく発展し、後の巨大な三井グループへと繋がっていくことになります。松阪は、三井家の歴史を語る上で非常に重要な場所です。
松阪縞(まつさかじま)
松阪縞(まつさかじま)は、「松阪もめん」とも呼ばれる、三重県松阪市を中心に生産されてきた伝統的な木綿織物で、特に江戸時代に粋な普段着として人気を博しました。
特徴:
- 藍染めの縞柄: 最大の特徴は、藍で糸を先に染めてから織り上げる「先染め」という技法と、それによって生まれる多様な藍色の縞模様です。濃淡さまざまな藍色の糸の組み合わせによって、細かいものから太いものまで、無数と言われるほどの縞柄が生み出されました。「松坂縞」という名前で特に親しまれました。
- シンプルで粋: 江戸時代、倹約令によって華美な着物が制限される中で、遠目には無地に見えつつも、近くで見ると精緻な縞模様が現れる松阪縞は、「粋(いき)」でおしゃれなものとして江戸っ子たちの間で大流行しました。歌舞伎の世界でも、縞柄の着物を着ることを「マツサカを着る」と言うほどの流行ぶりでした。
- 風合いと実用性: 木綿ならではの通気性、吸水性に優れており、肌触りが良いことも人気の理由でした。藍染めには虫よけや殺菌効果もあるとされ、実用的な普段着として庶民に広く愛用されました。
歴史:
- 松阪地域には古くから紡織の技術がありましたが、木綿栽培と藍染めが盛んになる中で、江戸時代に松阪縞が発展しました。
- 三井家をはじめとする松阪商人たちが、この松阪縞を江戸に持ち込み、「越後屋」などの呉服店で販売したことで一大ブームを巻き起こしました。
- 明治以降、洋装化などの影響で一時は衰退しましたが、地元の努力によって技術が継承され、現在も伝統工芸品として生産されています。
現在、松阪市には松阪木綿を扱うお店や、機織り体験ができる施設などがあり、その歴史と魅力を伝えています。使い込むほどに藍の色合いが変化し、生地が肌に馴染んでいく風合いも松阪もめんの魅力の一つとされています。
お伊勢参りに柄杓を持っていると施しを受けられる
お伊勢参りにおいて、江戸時代には柄杓(ひしゃく)を持っていると道中で人々から施し(せぎょう、食べ物やお金、宿の提供など)を受けられるという習慣がありました。これは特に「おかげ参り」や「抜け参り」と呼ばれる現象が盛んだった時期に見られました。
柄杓が目印になった理由:
- 伊勢参りの巡礼者であることの証明: 当時、庶民が長旅をすることは容易ではなく、特に奉公人や子どもなどが主人や親に内緒で出かける「抜け参り」も多く行われました。彼らは十分な旅費を持っていませんでしたが、伊勢神宮への強い信仰心から旅に出ました。柄杓は、そのような「お伊勢参りを目指す巡礼者である」ということを示す目印となりました。
- 施しを受けるための道具: 手水に使う柄杓は、道中で出会った人々に対して、食べ物や水などを恵んでもらう際に差し出す器としても使われました。
- 「おかげ」の精神: 伊勢神宮への参拝は、現世でのご利益だけでなく、過去の罪穢れを清め、新しい自分に生まれ変わるという意味合いも持っていました。そのため、お伊勢参りをする人々を助けることは、施しをする側にとっても「おかげ」(神様からのご加護や功徳)を得られる善行と考えられていました。この「おかげ」の精神が、旅人への施しを社会全体で支える要因となりました。
「おかげ参り」と「抜け参り」:
「おかげ参り」は、江戸時代に周期的に起こった、数百万人規模の人々による熱狂的な集団参拝です。社会情勢の不安や疫病の流行などを背景に、伊勢神宮のご神徳による救済を求める動きとして起こりました。
「抜け参り」は、文字通り、奉公先や家を「抜け出して」お伊勢参りに行くことですが、「おかげ参り」の時期には、こうした無許可の旅も半ば公認のような形で行われました。
柄杓は、こうした身一つでお伊勢参りに出た人々が、道中の人々の温かい「施行」によって無事に参拝を遂げるための、いわば「旅の通行手形」や「助け合いのシンボル」のような役割を果たしていたと言えます。歌川広重の浮世絵などにも、柄杓を持ってお伊勢参りをする人々の姿が描かれています。
この習慣は江戸時代に特に顕著に見られたものであり、現代のお伊勢参りでは見られない光景です。
松阪牛の発祥
松阪牛の発祥は、江戸時代にさかのぼります。当初は食肉用としてではなく、農耕用の役牛(えきぎゅう)として兵庫県の但馬地方から導入された雌牛が、松阪地方で飼育されていました。
- 農耕牛から肉牛へ: 明治時代に入り、日本に肉食文化が広まるにつれて、農耕に使われなくなった牛を食用として出荷するようになりました。特に、長年大切に農耕牛として飼育された牛は、独特の旨みを持つとして評判になりました。
- 東京への出荷と評価: 明治時代には、松阪地方の牛が「牛追い道中」として歩いて東京まで出荷されるようになり、その肉質が高く評価されるようになります。鉄道網の発達により、その後は貨車で東京の高級料亭などに出荷され、松阪の牛の優秀性が広く知られるようになりました。
- ブランド化の確立: 昭和に入ると、肉牛としての改良や肥育技術の向上、そして品評会の開催などを通じて、松阪の牛はさらに質を高めていきます。特に1935年(昭和10年)に東京で開催された全国肉用畜産博覧会での受賞が、「松阪牛」の名前を全国に広める大きなきっかけとなりました。
- 「特産松阪牛」への系譜: 松阪地方では、古くから役牛として優れた資質を持つ但馬牛が珍重されており、この但馬産の雌牛を元牛として長期にわたり丹念に肥育する独自の技術が培われてきました。現在の「特産松阪牛」は、この伝統的な肥育方法を受け継ぎ、選び抜かれた兵庫県産の子牛を900日以上という長期にわたって肥育した、まさに松阪牛の伝統と技術の結晶と言えます。
このように、松阪牛は、元々は農耕用として導入された牛が、日本の食文化の変化と地域の熱心な肥育努力によって肉用として発展し、長い歴史の中で独自の飼育方法と厳しい品質管理体制を確立することで、日本を代表する高級和牛としての地位を確立しました。松阪市飯南町深野には「松阪牛発祥地」の石碑も建てられています。
松阪牛(まつさかうし、まつさかぎゅう)
松阪牛(まつさかうし、まつさかぎゅう)は、三重県松阪市を中心とした地域で肥育される、日本を代表する高級和牛の一つです。「肉の芸術品」とも称され、国内外で高い評価を得ています。
特徴:
- 優れた肉質と霜降り: 松阪牛の最大の特徴は、きめ細かく美しいサシ(霜降り)が入った優れた肉質です。赤身の中に脂肪が網目のように入り込み、見た目にも美しいですが、これがとろけるような舌触りと深い旨みを生み出します。
- 低い脂肪融点: 松阪牛の脂肪は、一般的な和牛に比べて融点(溶け出す温度)が低いという特徴があります。このため、口に入れた瞬間にすっと溶け出し、まろやかでとろけるような食感を楽しむことができます。手のひらに乗せただけでも脂が溶け出すほどだと言われます。
- 甘く上品な「和牛香」: 加熱した際に感じられる、甘く上品な独特の香りは「和牛香」と呼ばれ、松阪牛の美味しさを一層引き立てます。すき焼きやしゃぶしゃぶなど、加熱して味わう料理で特にこの香りを堪能できます。
- 良質な脂肪: 松阪牛の脂肪には、悪玉コレステロールを減らす効果があるとされる不飽和脂肪酸が豊富に含まれていることも、美味しさだけでなく健康面からも注目されています。
定義と肥育:
- 松阪牛として認められるためには、いくつかの厳格な定義があります。主な条件として、「黒毛和種、未経産の雌牛」であること、松阪牛生産区域(松阪市および周辺の旧市町村)での肥育期間が最も長く最終であること、そして「松阪牛個体識別管理システム」に登録されていることなどが挙げられます。
- 「特産松阪牛」と呼ばれるものは、松阪牛の中でも特に兵庫県産の子牛を導入し、900日以上の長期にわたり手厚く肥育された、より希少価値の高いものです。
- 松阪牛の肥育には、熟練した農家による並々ならぬ手間暇がかけられています。牛一頭一頭の体調や食欲に合わせた餌の配合、清潔な牛舎環境の維持、そして牛とのスキンシップ(ブラッシングなど)によるストレス軽減など、細やかな管理が行われています。中には、食欲増進のためにビールを与えたり、肉質を柔らかくするために焼酎でマッサージをしたりする農家もいると言われています。
松阪牛は、これらの厳しい基準と丹精込めた肥育によって生み出される、まさに日本の誇るべき食文化の一つです。
【スタートは、津】
— NHK PR (@NHK_PR) April 25, 2025
伊勢神宮への旅・第四夜の #ブラタモリ でございます。
伊勢路への宿場町であり城下町、津城の姿を堪能。そして松阪へ。商人&松阪牛です。日本屈指のブランド牛が生まれた理由にも迫ります。
26(土)夜7:30[総合]https://t.co/pmVLkNvT2W pic.twitter.com/yhcvRl1hGB