なんと大山街道で番組的にも繋がっていた!😎ブラタモリ 東京・青山通り▼江戸の街道がルーツ?皇居から赤坂へ!大名屋敷
ブラ青山通り
こんにちは
猫好き父さんです
今回は青山通り
一見、前回との関係はなさそうにして
大山街道で繋がっていました
今回も学びが多かったです
次回は二階建てバスツアー
楽しそう!
ブラ青山通り
今回の舞台は東京・青山通り。赤坂・青山・表参道と東京の一等地をつなぐ「青山通り」はなぜステキなのか?その秘密を江戸時代の痕跡から探る!皇居のすぐそばにある三宅坂をスタートすると、いきなり江戸時代の石垣を発見!赤坂御門を起点とした江戸時代の道「大山街道」が、青山通りのルーツだった!?牛も鳴くといわれた江戸の急坂。上がると突如現れる巨大な大名屋敷門にタモリ大興奮!広くてまっすぐな道は路面電車の痕跡!?
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
青山通り
青山通り(あおやまどおり)は、東京都心部を走る主要な幹線道路の一つで、都内でも特に洗練された雰囲気を持つエリアとして知られています。
青山通りの概要
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正式名称:
- 大部分が国道246号線(通称:ニイヨンロク)の一部です。
- 東京都港区の赤坂見附交差点から、渋谷区の青山学院前交差点を経て、渋谷駅方面へと続く区間が一般的に「青山通り」と呼ばれます。広義には、そこからさらに西へ向かう区間を含む場合もありますが、一般的にイメージされる「青山」の雰囲気を持つのはこの区間です。
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地理的特徴と周辺エリア:
- 港区の赤坂から青山、そして渋谷区の表参道・渋谷へと連なるエリアを横断しています。
- 周辺には、高級住宅街、ハイブランドのブティック、デザイン事務所、ギャラリー、カフェ、レストランなどが集積しており、ファッション、デザイン、アート、グルメのトレンド発信地としての顔を持っています。
- 南側には青山霊園、秩父宮ラグビー場、明治神宮外苑、北側には青山学院大学や国際連合大学などがあります。
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主な特徴と魅力:
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ハイセンスな街並み:
- 国内外の有名ブランドショップや、個性的なセレクトショップが立ち並び、ウィンドウショッピングをするだけでも楽しめます。
- 近代的なビルと、緑豊かな並木道が調和した美しい景観が広がっています。
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文化・アートの発信地:
- デザインや建築に関するギャラリー、美術館などが点在し、アートイベントも多く開催されます。国際連合大学前では、定期的に「ファーマーズマーケット」が開催され、賑わいを見せます。
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グルメスポットの宝庫:
- 高級レストランから隠れ家的なカフェ、カジュアルなダイニングまで、多種多様な飲食店が集まっています。特に、お洒落で洗練された雰囲気の店が多いのが特徴です。
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交通の要衝:
- 国道246号線として、都心と横浜方面を結ぶ重要な道路です。
- 地下には東京メトロ銀座線、半蔵門線、千代田線が走り、表参道駅、外苑前駅、青山一丁目駅、赤坂見附駅といった主要駅が点在し、アクセスが非常に良いです。
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ビジネス街の側面:
- 多くの企業の本社やオフィスビルも立ち並び、ビジネス街としての機能も持ち合わせています。
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青山通りは、常に新しいトレンドが生まれ、洗練された都市生活を象徴するエリアとして、地元の人々はもちろん、国内外からの観光客にも人気の高い場所です。
牛鳴坂
「牛鳴坂(うしなきざか)」は、日本各地に存在する坂道の名前で、多くの場合、その名前には**「牛が苦しんで鳴くほど急な坂道」**という意味合いが込められています。その地域の人々にとって、交通の難所であったことを示す地名として残っています。
いくつか有名な「牛鳴坂」についてご紹介します。
1. 東京都港区の牛鳴坂
最もよく知られている牛鳴坂の一つが、東京都港区高輪にある坂です。
- 場所: 港区高輪2丁目と3丁目の境、国道1号線(桜田通り)から東へ上る坂道です。泉岳寺の近くに位置します。
- 特徴: 勾配がきつく、古くから馬や牛車が荷物を引いて上るのに苦労し、牛が鳴き声をあげるほどであったことからこの名がついたとされています。
- 歴史的背景: 江戸時代には「牛啼坂」とも表記され、この付近には徳川家康が江戸入府の際に腰掛けたとされる「腰掛石」の伝説もあります。現在の坂道は整備され、比較的緩やかになっていますが、かつての険しさを偲ばせる名前です。
2. 福岡県福岡市の牛鳴坂
福岡市早良区にも「牛鳴坂」と呼ばれる坂があります。
- 場所: 福岡市早良区の西部に位置し、かつては脊振山地を越える交通路の一部でした。
- 特徴: こちらも急な坂道で、江戸時代には福岡藩と佐賀藩を結ぶ重要な街道の一部であり、牛馬が難儀する様子から名付けられたと言われています。
3. その他各地の牛鳴坂
上記以外にも、日本各地に「牛鳴坂」「牛泣坂」「牛鳴き坂」といった名前の坂道が点在しています。例えば、秋田県や新潟県、富山県などにも見られます。共通しているのは、いずれも荷物を運ぶ牛馬が困難を極めるほどの急峻な坂道であったという背景です。
ご質問の意図が特定の地域の牛鳴坂であれば、もう少し具体的な場所を教えていただけると、より詳細な情報を提供できます。
赤坂の牛鳴坂
東京都港区赤坂にも「牛鳴坂(うしなきざか)」という坂が存在します。以前にご紹介した高輪の牛鳴坂とは別の坂です。
赤坂の牛鳴坂の概要
- 場所: 東京都港区赤坂4丁目1番と4丁目8番の間(山脇学園中学高校の裏手あたり)に位置します。青山通り(国道246号線)から山脇学園方面へ向かう坂道です。
- 由来:
- この坂も、名前の由来は高輪の牛鳴坂と同様に、**「赤坂から青山へ抜ける『厚木道』の一部で、路面が悪く、荷物を引く牛が苦しんで鳴き声をあげたため」**とされています。
- 別名として**「皀角坂(さいかちざか)」**とも呼ばれます。これは、この坂の近くにマメ科の落葉高木である「サイカチ」の木があったことに由来すると言われています。
- 特徴:
- 現在の坂は舗装され、そこまで急勾配ではありませんが、港区が設置した標識には当時の由来が記されており、かつての険しさを偲ばせます。
- 長さは約65メートル、平均斜度は2.6度と、非常に急というわけではありませんが、当時の道が悪かったことを考えると、牛にとっては困難だったことが想像できます。
- 周囲はマンションやオフィスビルが立ち並ぶ住宅・商業地域となっています。
このように、港区内には複数「牛鳴坂」と呼ばれる場所があり、それぞれにその土地の歴史や、坂道の様子を伝える由来が残されています。
青山通り(現在の国道246号線の一部)沿いのエリアは、江戸時代には広大な大名屋敷が立ち並ぶ地域でした。特に、江戸城に比較的近いこの一帯は、重要度の高い大名や、徳川御三家などの分家の上屋敷・下屋敷が多く存在していました。
代表的な大名屋敷としては、以下のようなものがありました。
青山通り沿いの主な大名屋敷
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紀州徳川家の下屋敷(現:赤坂御用地、迎賓館赤坂離宮など)
- 青山通りから北側に広がる現在の広大な赤坂御用地(赤坂御所、迎賓館赤坂離宮を含む)の敷地は、もともと徳川御三家の一つ、紀州徳川家の上屋敷があった場所です。非常に広大な敷地で、その規模の大きさが伺えます。ここは青山通りに直接面しているわけではありませんが、青山通りからアクセスする非常に大きな大名屋敷跡です。
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伊予西条藩松平家の上屋敷(現:青山学院大学)
- 現在の青山学院大学の広大な敷地は、江戸時代には伊予西条藩(愛媛県)松平家の上屋敷でした。約4万坪もの広さがあったとされています。青山通りに面する形で存在していました。
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淀藩稲葉家の下屋敷(現:国連大学、都営団地など)
- 青山学院大学の向かい側、現在の国際連合大学やその周辺の敷地(かつて都営団地などがあった広大なエリア)は、京都山城淀藩(京都府)稲葉家の下屋敷でした。約5万坪もの広大な敷地で、敷地内には池もあったと記録されています。ここも青山通りに面していました。
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広島藩浅野家の下屋敷
- 渋谷区神宮前3丁目と4丁目にまたがる広大な敷地(現在の都営団地辺りも含む)は、安芸広島藩(広島県)浅野家の下屋敷でした。42万6千石の大藩の広大な敷地であり、その一部は分家の浅野家の上屋敷でもありました。これは青山通りから少し入った場所に広がっていました。
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丹南藩高木家の下屋敷(現:根津美術館周辺など)
- 南青山5丁目から7丁目あたり、現在の根津美術館の敷地を含む広大なエリアは、河内丹南藩(大阪府)高木家の下屋敷でした。こちらも約4万5千坪の広さがありました。
これらの広大な大名屋敷が、現在の青山通りの両側に広がり、江戸時代の都市景観を形成していました。明治維新後、これらの大名屋敷は政府に接収されたり、払い下げられたりして、教育機関、公園、政府施設、あるいは新しい住宅地や商業地へと姿を変えていきました。
現代の青山通り周辺の洗練された街並みの下には、江戸時代の大名たちの暮らしと権威を示す広大な屋敷の歴史が眠っているのです。
赤坂御門(あかさかごもん)
赤坂御門(あかさかごもん)は、江戸城の外堀に設けられた城門の一つで、現在の東京都千代田区紀尾井町と港区元赤坂・永田町にまたがるエリアに位置していました。現在の「赤坂見附(あかさかみつけ)」という地名や駅名にその名残をとどめています。
赤坂御門の歴史と特徴
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築造と役割:
- 築造時期: 寛永13年(1636年)に、江戸城外郭の拡張・整備の一環として築かれ始め、寛永16年(1639年)に完成しました。この普請には、外様大名である筑前福岡藩主・黒田忠之が担当しました。これは、外様大名に大規模な土木工事を課すことで、財力を消耗させるとともに、幕府への忠誠心を確認する意味合いもありました。
- 構造: 他の江戸城外堀の門と同様に、「枡形門(ますがたもん)」と呼ばれる形式がとられていました。これは、二つの門(高麗門と渡櫓門)が直角に配置され、その間に四角い空間(枡形)を設けることで、敵が侵入してもすぐに直進できないようにする防御性の高い構造です。
- 機能: 江戸城への主要な入り口の一つであり、人や物資の出入りを監視・管理する重要な役割を担っていました。また、見附(みつけ)とは、敵の侵入を発見するための番所や施設を意味し、常時見張番が置かれていました。
- 街道の起点: 赤坂御門は、江戸から神奈川県の大山方面へと向かう重要な街道である「大山道(矢倉沢往還)」の起点でもありました。
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地理的特徴:
- 弁慶濠と、かつての赤坂溜池(現在の溜池山王周辺)の間に位置し、堀と土塁に囲まれた非常に防御性の高い場所でした。
- 地盤が軟弱な低地を避けて高台に築かれていたため、当時の工事は難工事であったと伝えられています。
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明治以降の変遷と現状:
- 門の撤去: 明治時代に入り、江戸城の城門としての役割を終えた赤坂御門の櫓などの建築部分は、1871年(明治4年)に撤去されました。
- 石垣の撤去: 石垣も、明治30年代(1897年~1906年頃)には大部分が撤去されました。
- 遺構と史跡: 現在、当時の門は残っていませんが、一部の石垣が「江戸城外堀跡 赤坂御門」として現存しており、当時の面影を偲ばせています。この石垣は、現在の国道246号線(青山通り)沿い、東京メトロ赤坂見附駅や永田町駅の近くで見ることができます。
- 国指定史跡: 赤坂見附から牛込橋にいたる堀や土手の遺構は、1956年(昭和31年)に「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。
赤坂御門は、江戸の歴史を語る上で欠かせない重要な城門の一つであり、その跡地は現代の東京の交通の要衝として、また歴史の痕跡を感じさせる場所として残っています。
岡崎藩主・本多忠民(ほんだ ただもと)の江戸上屋敷門
岡崎藩主・本多忠民(ほんだ ただもと)の江戸上屋敷の表門は、現在も東京に現存しており、国の重要文化財に指定されています。
この門は、複雑な移築の歴史を経て、現在は東京都港区赤坂にある山脇学園中学校・高等学校の敷地内に保存されています。山脇学園ではこの門を「志の門」と呼んでいます。
本多忠民の旧大名屋敷門の概要
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本来の所在地:
- 元々は、江戸の丸の内、現在の東京駅南口やKITTE(東京中央郵便局)の付近にあった岡崎藩本多家の上屋敷の表門でした。
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築造時期:
- 1862年(文久2年)に、火災で焼失した前代の門の後に再建されたものです。
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特徴と格式:
- 長屋門(ながやもん)形式: 門の両側に、家臣が住むための長屋としての機能を持つ部屋(番所)が備わった形式の門です。
- 格式の高さ: この形式の門は、5万石以上の大名に許される格式の高い門とされています。特に、本多忠民は幕末期に老中を務めた人物であり、その権威を示すものでした。
- 規模: 当時の門は、なんと桁行(間口)約120メートルにも及ぶ、非常に長大な規模のものでしたが、現在は門とその左右の番所部分のみが残されており、約21.8メートルに切り縮められています。
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移築の歴史:
- 明治維新後: 新政府に屋敷が接収されます。
- 1892年(明治25年): 東京・芝高輪台町(現在の港区高輪、高輪皇族邸などがある場所)にあった高輪皇族邸(のちの東宮御所を経て高松宮邸)の表門として移築されました。ここで長く使われていたため、「高輪の門」として記憶されている方もいます。
- 1951年(昭和26年): 国の重要文化財に指定されます。
- 1954年(昭和29年): 高輪から、山脇学園の臨海施設があった千葉県九十九里町に移築されます。
- 2016年(平成28年): 山脇学園の本校舎建て替え工事に合わせて、元の江戸の地に近い現在の**赤坂(山脇学園の校舎敷地内)**に再移築されました。
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現在の状況:
- 門は山脇学園の敷地内にあり、公道に面しているため、外観はいつでも見学可能です。ただし、通常は門をくぐったり、門のすぐ近くまで入ることはできません。
- 山脇学園では、入学式や卒業式など、学校の節目の日にこの門を開門し、生徒たちが「志の門」としてくぐる機会を設けているそうです。
岡崎藩主・本多忠民の屋敷門は、江戸時代末期の貴重な武家屋敷の遺構であり、東京に残る数少ない大名屋敷の門の一つとして、歴史的価値の高い存在です。
岡崎藩主・本多忠民の大名屋敷門が山脇学園の所有となった経緯
岡崎藩主・本多忠民の大名屋敷門が山脇学園の所有となった経緯は、複雑な移築の歴史の中で、山脇学園がその歴史的価値を認識し、保存のために取得・移築したという流れです。
具体的な所有の経緯は以下の通りです。
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明治維新後、高輪皇族邸の門となる:
- 門は元々、江戸の丸の内(現在の東京中央郵便局付近)にあった岡崎藩本多家の上屋敷の表門でした。
- 明治維新後、この屋敷は新政府に接収されます。
- 1892年(明治25年)に、この門は当時新築された高輪皇族邸(のちの東宮御所を経て高松宮邸)の表門として移築され、長く使われました。この時点で、個人や法人の所有物ではなく、皇室関連の施設の門となっていました。
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山脇学園への寄贈・移築(1974年):
- その後、高輪皇族邸の改修などの計画の中で、この門をどうするかという検討がなされたと思われます。
- 門が国の重要文化財に指定された後、1974年(昭和49年)に、山脇学園に寄贈される形で所有が移りました。
- この時、門は山脇学園の所有となり、同年に千葉県九十九里町にあった山脇学園の臨海学校「松籟荘(しょうらいそう)」の構内に移築・保存されました。山脇学園は、この歴史的建造物の保存に寄与する形で引き受けたと考えられます。
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赤坂への再移築(2016年):
- 九十九里で約40年間保存された後、山脇学園が赤坂の本校舎の建て替えプロジェクト「山脇ルネサンス」を進める中で、この重要文化財である門をより多くの生徒や地域の人々に見てほしい、また学園の「志」を象徴する門として活用したいという意向がありました。
- そこで、2016年(平成28年)に、かつて江戸の上屋敷があった丸の内にも近い、現在の港区赤坂の山脇学園の敷地内に再移築され、「志の門」として学園のシンボルとなりました。
このように、山脇学園が岡崎藩主・本多忠民の大名屋敷門を所有することになったのは、重要文化財である歴史的建造物を保存し、次世代に伝えるという目的と、学園の教育理念やシンボルとして活用したいという意図が合致した結果と言えます。
薬研坂(やげんざか)
「薬研坂(やげんざか)」は、東京都港区南青山にある坂道です。
青山の薬研坂の概要
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場所:
- 港区南青山5丁目と6丁目の境あたりに位置します。
- 青山通り(国道246号線)から、現在の骨董通り方面へ向かって下る坂道です。
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名前の由来:
- 坂道の形状が、漢方薬をすり潰す道具である「薬研(やげん)」に似ていたことからこの名が付きました。薬研はV字型をしており、この坂道も両側が少し高くなっていて中央がくぼんだような地形だったため、「薬研」に見立てられたとされています。
- 古い時代には、坂の途中に薬研を商う店があったという説や、薬種屋が多かったためという説もありますが、有力なのは坂の形状に由来するという説です。
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特徴:
- 現在の薬研坂は、舗装され、周囲にはおしゃれなショップやレストラン、オフィスビルが立ち並ぶ、洗練されたエリアの一部となっています。
- かつての面影は薄れていますが、坂の標識にはその由来が記されており、歴史を感じさせます。
- 坂を下りきったあたりから「骨董通り」と呼ばれる通りが始まり、アンティークショップやギャラリーなどが並ぶ特徴的なエリアへと繋がっています。
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周辺エリア:
- 表参道駅や根津美術館からも比較的近い場所にあり、散策やショッピングの途中に通ることがあります。
青山には「骨董通り」や「みゆき通り」など、それぞれ特徴的な名前を持つ通りが多いですが、この「薬研坂」もまた、その名の由来に東京の古い歴史が感じられる坂の一つです。
東京の路面電車
東京の路面電車は、かつて都内交通の主要な手段として、広大な路線網を誇っていました。しかし、自動車交通の増加や地下鉄の発展に伴い、そのほとんどが姿を消しました。
東京の路面電車の歴史と主な路線網
東京の路面電車の歴史は、大きく分けて東京市電(後に都電となる)と、いくつかの私鉄系路面電車の時代に分けられます。
1. 東京市電(後の都電)の時代
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黎明期(明治後期):
- 1903年(明治36年)に東京電車鉄道(後の東京市電)が開業したのが始まりです。その後、市内の他の私営電車会社が買収・統合され、東京市が運営する「東京市電」が形成されました。
- 当初は新橋~品川、上野~日本橋といった中心部を結ぶ路線から始まりました。
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黄金期(大正~昭和初期):
- 大正時代から昭和初期にかけて、東京市電の路線網は急速に拡大し、東京の交通の主役となりました。
- 1940年(昭和15年)頃には、最盛期には約41系統、総営業キロメートルは213kmにも及び、都内全域を網羅する巨大なネットワークを形成していました。
- 主な路線網が広がっていたエリア:
- 都心部: 銀座、日本橋、丸の内、上野、神田、新橋、霞ヶ関など
- 副都心方面: 新宿、渋谷、池袋、品川など
- 郊外方面: 浅草、錦糸町、千住、早稲田、大塚、目黒、五反田、大崎、三田など、都内の主要な幹線道路のほとんどに軌道が敷かれていました。
- 特徴: ほとんどの路線が併用軌道(道路上に敷設)で、都民の足として活発に利用されました。
2. 私鉄系路面電車(戦後の廃止まで)
東京には、東京市電以外にも、戦後まで存続した私鉄系の路面電車もいくつかありました。
- 玉川電気鉄道(玉電):
- 渋谷から二子玉川方面へ向かう路面電車で、「玉電」の愛称で親しまれました。
- 一部区間は地下化されて現在の東急田園都市線や世田谷線として残っていますが、ほとんどの路面区間は1969年(昭和44年)までに廃止されました。
- 西武軌道:
- 新宿駅周辺などに路線を持っていましたが、戦時中に都電に吸収されたり、戦後廃止されたりしました。
- 京王電気軌道:
- 新宿から笹塚方面に路面区間を持っていましたが、これも早い段階で廃止されました。
3. 衰退と廃止の経緯(昭和30年代~40年代)
- 自動車交通の増加: 高度経済成長期に入り、自動車の普及が急速に進むと、道路を走行する路面電車は交通渋滞の原因と見なされるようになりました。
- 地下鉄の整備: オリンピック開催(1964年)を控え、都心部を中心に地下鉄網の整備が優先されました。路面電車よりも高速で大量輸送が可能な地下鉄が、都市交通の主役へと移行していきました。
- 公害問題: 路面電車の騒音や振動、架線の景観問題なども指摘されるようになりました。
- 集中廃止:
- 特に1967年(昭和42年)から1972年(昭和47年)にかけて、都電の路線は急速に廃止されていきました。
- 多くの路線が地下鉄やバス路線へと転換され、都電の時代は終わりを告げました。
4. 現存する路線
現在、東京に残る路面電車は以下の2路線のみです。
- 都電荒川線(さくらトラム): 荒川区の三ノ輪橋から新宿区の早稲田までを結び、全線が専用軌道(道路とは分離された軌道)であることが多いのが特徴です。地域の足として、また観光路線としても人気があります。
- 東急世田谷線: 世田谷区の三軒茶屋から下高井戸までを結びます。こちらも専用軌道区間が多いです。
かつては東京の街のいたるところでチンチン電車が走っていましたが、今ではそのほとんどが歴史の中に消え、一部の路線が貴重な存在として残り、当時の面影を伝えています。
青山通りと路面電車の関係
青山通りは、江戸時代に**大山道(矢倉沢往還)**という重要な街道の一部として存在していました。これは江戸城から神奈川県の大山方面へと向かう道で、徳川家康の江戸入府後にも整備された歴史ある道筋です。当時は、主に人や馬の往来のための道路でした。
路面電車との関係
路面電車が青山通りを走るようになったのは、明治時代後期になってからです。
- 1904年(明治37年)に、東京市街鉄道(後の東京市電)による路面電車が三宅坂から青山四丁目(現在の外苑前あたり)の区間で開通しました。
- その後、路線は徐々に拡大し、明治の終わりには渋谷から内堀通りまで路面電車が走るようになりました。
- この路面電車(後の都電)は、昭和43年(1968年)に青山一丁目~渋谷区間が廃止されるまで、約70年もの間、青山通りの主要な交通手段として機能しました。
つまり、青山通りは、もともとあった街道を近代化する過程で、路面電車の敷設が可能になるように拡幅・整備されたという側面はあります。特に、昭和30年代後半の東京オリンピックに向けた大改修では、それまでの幅員22メートルから現在の40メートルへと大幅に拡張され、この時に自動車交通の増加に対応するため、路面電車は姿を消していきました。
結論として、青山通りは古くからの街道を基盤としつつ、時代ごとの交通需要(まずは路面電車、そして自動車)に応じて拡幅や整備が重ねられてきた道路であり、「路面電車のためだけに作られた」というよりは、「路面電車が通る主要な道路として発展した」という方が正確です。
赤坂・外苑前・青山・表参道・渋谷…
— NHK@首都圏 (@nhk_shutoken) June 13, 2025
あす14日と21日の「ブラタモリ」は、東京の一等地を通る「青山通り」を2本連続で特集します!
町歩き+バスツアーで解き明かす、道のルーツ☺
放送は、夜7時30分~です👇 https://t.co/y50wMybY1K pic.twitter.com/4ZiVFeHNAE