江戸の町民は浅間山の大噴火にどのように対応したのか?🌋べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(25)灰の雨降る日本橋
江戸の町民は浅間山の大噴火にどのように対応したのか?
こんにちは
猫好き父さんです
火山国
日本としては
切実な話ですよね
しかし
日本橋進出早々に
大変なことに
蔦重がんばれ!
あらすじ
柏原屋から丸屋を買い取った蔦重(横浜流星)は、須原屋(里見浩太朗)の持つ「抜荷の絵図」と交換条件で意知(宮沢氷魚)から日本橋出店への協力を取り付ける。そんな中、浅間山の大噴火で江戸にも灰が降り注ぐ。蔦重は通油町の灰除去のため懸命に働く。その姿に、門前払いしていたてい(橋本愛)の心が揺れる。一方、意知は誰袖(福原遥)に心惹かれ始める。松前廣年(ひょうろく)は抜荷の件で大文字屋(伊藤淳史)を訪ねる…。
出演
【出演】横浜流星,染谷将太,橋本愛,福原遥,宮沢氷魚,井之脇海,小野花梨,風間俊介,里見浩太朗,渡辺謙,高橋克実,眞島秀和,木村了,柳俊太郎,中川翼,伊藤かずえ,中村蒼,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
江戸時代の浅間山噴火について
江戸時代における浅間山の噴火で最も甚大な被害をもたらしたのは、天明三年(1783年)の大噴火です。これは日本の火山噴火史においても非常に大きな出来事であり、広範囲に壊滅的な影響を与えました。
天明三年(1783年)の浅間山大噴火
この噴火は、約3ヶ月にわたって活発な火山活動が続き、特に8月4日(旧暦7月8日)の噴火は規模が大きく、大規模な災害を引き起こしました。
噴火の経過と特徴:
長期にわたる活動: 噴火活動は5月頃から始まり、火山灰や軽石の噴出が断続的に続きました。
大噴火と吾妻火砕流: 8月4日(旧暦7月8日)の最大の噴火では、大量の火山灰や軽石、火山弾が噴出。特に、山体崩壊を伴って発生した「吾妻火砕流(あがつまかさいりゅう)」が特徴的です。これは熱い岩石や火山ガス、火山灰が混じり合った流れで、時速100kmを超える速さで山を駆け下り、周辺地域を瞬時に焼き尽くしました。
泥流の発生: 火砕流が河川(特に吾妻川や利根川)に流入し、大量の土砂や岩石、樹木などを巻き込みながら「泥流(土石流)」となって下流へと押し寄せました。この泥流は利根川を伝って関東平野にまで達し、遠くは江戸まで火山灰が降灰しました。
被害の状況:
人命被害: 最も大きな被害を受けたのは、現在の群馬県嬬恋村や長野原町などの浅間山麓の村々です。吾妻火砕流や泥流によって多くの集落が壊滅し、死者は数千人から2万人以上とも推定されています。
農作物への影響: 火山灰が広範囲に降り積もり、農地が壊滅的な被害を受けました。これにより、農作物の収穫量が激減し、特に東北地方を中心に「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」と呼ばれる深刻な飢饉が発生しました。この飢饉は、その後の社会情勢にも大きな影響を与えました。
自然環境の変化: 泥流によって河川の流路が変わり、地形が大きく変化しました。大量の火山灰や岩石が堆積し、土地の回復には長い年月を要しました。
社会への影響: 飢饉は米価の急騰を招き、各地で打ちこわしなどの百姓一揆が頻発しました。幕府の財政も悪化し、社会不安が高まる一因となりました。
その他の噴火
天明の大噴火以外にも、江戸時代には浅間山の噴火が記録されています。
寛文6年(1666年):大規模な噴火があり、大量の降灰がありました。
宝永元年(1704年):小規模な噴火活動がありました。
しかし、これらの噴火は天明三年の大噴火ほどの広範囲かつ壊滅的な被害には至りませんでした。
天明三年の浅間山大噴火は、その後の江戸時代の社会、経済、人々の生活に大きな爪痕を残した、忘れられない自然災害の一つです。この噴火の記録は、現代の火山防災にも活かされています。
江戸の町民の対応
天明三年(1783年)の浅間山大噴火は、江戸から遠く離れた場所で発生したものの、江戸の町にも大きな影響を与えました。当時の江戸の町民の対応は、主に以下のようなものでした。
江戸への影響
降灰と空の異変:
噴火の最大期である8月4日(旧暦7月8日)には、江戸でも大量の火山灰が降りました。記録によると、約3cmもの灰が積もり、昼間でも灯りが必要なほど空が暗くなったとされています。
噴火が始まる数日前(旧暦7月6日の夕暮れ頃)から、戸や障子、建具などがビリビリと震えるような地鳴りが感じられ、人々は異変を感じていました。
翌日(旧暦7月7日)の午前中には空が霞がかかったように曇り、昼頃から灰が降り始め、次第に大粒になっていったと記録されています。
情報不足と風評:
現代のような情報伝達手段がない時代であったため、浅間山の状況は断片的な書状や口伝えでしか伝わりませんでした。
「川が毒に染まった」「灰に火がついて落ちてきた」といった不正確な情報や風評が広がり、江戸の庶民の間には不安が募りました。
飢饉の悪化と社会不安:
噴火以前から、日本全体、特に東北地方では冷害などによる不作が続き、食料不足が深刻化していました(天明の大飢饉)。
浅間山の噴火による降灰は、関東地方の農作物にも大きな打撃を与え、日照不足や気温低下を引き起こし、飢饉をさらに悪化させました。
これにより、米価が高騰し、江戸を含む全国各地で**打ちこわし(米屋などを襲撃する暴動)**が頻発しました。天明7年(1787年)には、江戸や大坂で大規模な打ちこわしが発生し、江戸では1,000軒の米屋と8,000軒の商家が襲われるなど、社会不安が極限に達しました。
農村を捨てて都市部に流入する農民も増え、都市の治安も悪化しました。
江戸の町民の対応
直接的な噴火の被害は浅間山周辺に集中しましたが、江戸の町民は主に以下の形で影響を受け、対応を迫られました。
生活への影響と対応:
降灰への対応: 降灰による視界不良や、家屋や庭に積もる灰の処理に追われました。呼吸器系の健康被害も懸念された可能性があります。
食料品価格の高騰: 飢饉の悪化と相まって、米をはじめとする食料品の価格が急騰し、庶民の生活は困窮しました。
情報の混乱と不安: 不確かな情報やデマが飛び交う中で、人々は不安を抱えながら生活を送りました。
社会的な行動:
打ちこわしへの参加: 食料不足と物価高騰に耐えかねた貧しい町民や農民たちは、米屋や富裕な商家を襲撃する「打ちこわし」に参加し、不満を爆発させました。これは、幕府の統治能力への不信感の表れでもありました。
都市への流入: 地方の農村で生活が成り立たなくなった人々が、食を求めて江戸などの大都市に流入しました。これにより、都市部の人口が増加し、治安の悪化や貧困問題が深刻化しました。
幕府の対応と町民への影響
幕府は、飢饉と社会不安の拡大に対して、当初は有効な対策を打ち出せなかったと批判されました。しかし、天明の大飢饉の経験は、その後の政治に大きな影響を与えました。
「御救小屋(おすくいごや)」の設置: 飢饉の反省から、幕府は江戸市中に貧民を収容し、炊き出しなどを行う「御救小屋」を設置しました。これにより、江戸だけでも延べ70万人もの人々が救われたとされています。
寛政の改革: 飢饉と社会不安の責任を問われる形で田沼意次が失脚し、松平定信による「寛政の改革」が始まります。この改革では、飢饉対策として各地での穀物備蓄の奨励などが盛り込まれました。
このように、江戸の町民は浅間山の大噴火による直接的な被害は少なかったものの、その後の広範囲な降灰と、それに伴う飢饉の深刻化、物価高騰、社会不安の増大といった間接的な影響に直面し、様々な形で対応を迫られました。
日本橋(にほんばし)
日本橋(にほんばし)は、東京都中央区にある地名であり、またその地名を冠する橋の名前でもあります。江戸時代から日本の経済・文化の中心として栄え、現在もその歴史と伝統を受け継ぎながら発展を続けている地域です。
歴史的な役割と重要性(江戸時代~近代)
五街道の起点:
徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8年)に、日本橋が架けられました。そして1604年(慶長9年)には、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道という五街道の起点として定められました。これにより、日本橋は文字通り日本の道路網の中心となり、全国から人や物資が集まる一大拠点となりました。現在も橋の中央には「日本国道路元標」が設置されており、日本の道路の原点としての役割を担っています。
水運の要衝と商業の中心:
日本橋川をはじめとする多くの河川が流れ、水運が発達しました。全国各地から米、魚介類、材木など多種多様な物資が水路で集まり、活気ある「河岸(かし)」が設けられました。特に、現在の築地市場ができる以前は、日本橋川沿いに魚河岸がいくつもあり、江戸の食を支えました。この活況が、日本橋を商業・金融の中心地へと発展させました。
「三井越後屋呉服店(後の三越百貨店)」や「白木屋(後の東急百貨店)」など、現在にも続く大手百貨店の前身が日本橋で創業し、日本経済の発展に大きな役割を果たしました。
町人文化の発信地:
多くの商人が集まり、住居と職が一体となった町人街として発展しました。江戸時代には、庶民の生活文化が花開いた場所でもあり、歌舞伎や浮世絵など様々な文化が育まれました。
現在の日本橋
現在の日本橋は、その歴史と伝統を大切にしつつ、再開発によって新しい魅力も創出しています。
歴史的建造物と老舗:
現在の日本橋: 明治44年(1911年)に完成した石造りの美しい二連アーチ橋が、現在も利用されています。橋の中央には「日本国道路元標」があり、東京オリンピック(1964年)の際に建設された首都高速道路に覆われていますが、その地下化事業が進められており、将来的には空が広がる姿を取り戻す予定です。
老舗百貨店: 日本橋三越本店(日本初の百貨店)や日本橋髙島屋S.C.(百貨店建築として初の重要文化財指定)など、歴史と格式のある百貨店が今も地域の顔として存在感を放っています。
伝統的な専門店: 鰹節の「にんべん」、海苔の「山本海苔店」など、江戸時代から続く老舗の専門店も多数残っており、日本の伝統的な品々を手に入れることができます。
商業・オフィス街としての発展:
複合商業施設: 「COREDO日本橋」「COREDO室町」などの複合商業施設が開発され、最新のファッション、雑貨、レストランなどが揃い、若者から大人まで楽しめるエリアとなっています。
オフィス街: 日本銀行本店を始め、多くの金融機関や企業の本社が集積するオフィス街でもあり、日本経済の中枢としての役割も担っています。
文化と観光:
麒麟像と獅子像: 日本橋の中央には、翼を持つ麒麟の像が設置されています。これは「五街道の起点である日本橋から、日本中へ飛び立っていく」という意味が込められていると言われています。また、橋のたもとには東京の守護を意味する獅子像もあります。これらは、東野圭吾の小説『麒麟の翼』とその映画化作品の舞台にもなり、観光スポットとしても注目されています。
日本橋クルーズ: 日本橋川を巡るクルーズもあり、川から見た日本橋の景色や歴史を楽しむことができます。
日本橋は、江戸時代からの歴史と伝統を受け継ぎながら、現代の都市機能と文化が融合した、魅力あふれる街として、現在も進化を続けています。
熈代勝覧(きだいしょうらん)
「熈代勝覧(きだいしょうらん)」は、江戸時代後期、文化2年(1805年)頃の江戸・日本橋の賑わいを克明に描いた、非常に貴重な絵巻です。
概要と特徴
描かれた時代と場所:
時代: 文化2年(1805年)頃。これは、化政文化(化政期)と呼ばれる、江戸の町人文化が最も爛熟した時代の直前の記録であり、当時の生活や風俗を知る上で大変貴重な史料です。
場所: 日本橋川に架かる日本橋から、竜閑川に架かる神田今川橋(現在の神田駅前付近)までの約7町(約764m)の通り(現在の中央通りに相当する「通町」)を、東側から俯瞰して描かれています。当時のこの通りは、問屋が軒を連ねる江戸一の商店街でした。
内容の緻密さ:
人物の描写: 絵巻には、1,671人もの人々が生き生きと行き交う様子が描かれており、商人、武士、町娘、虚無僧、六十六部など、様々な身分の人々が詳細に表現されています。
店舗と生活: 沿道に並ぶ88軒の問屋や店の様子が克明に描かれており、それぞれの店の屋号や商標が書かれた暖簾、看板、旗なども読み取れます。当時の商売の様子や、人々の暮らしぶり、風俗が手に取るようにわかります。
動物の描写: 犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿1匹、鷹2羽なども描かれており、当時の動物たちの存在も示しています。
細部のこだわり: 建築物の構造、道路の舗装、荷物の運搬方法、人々の服装や髪形など、細部に至るまで詳細に描かれており、当時の江戸の町の「日常」が凝縮されています。
発見と現状:
発見: 1999年にドイツで偶然発見され、その文化的・歴史的価値が注目されました。それ以前の経歴は不明です。
所蔵: 現在、原画はベルリン国立アジア美術館に所蔵されています。
日本での公開: 2003年には江戸東京博物館で「里帰り初公開」され、大きな話題を呼びました。
複製絵巻: 2009年からは、原画を約1.4倍に拡大した複製絵巻が、東京メトロ「三越前」駅の地下コンコース(日本橋三越本店本館 地下中央口付近)に常設展示されており、誰でも無料で見学することができます。
タイトルの意味:
「熈代勝覧」というタイトルは、「熈(かがや)ける御代(みよ)の勝(すぐ)れたる大江戸の景観を一覧する」という意味が込められているとされています。絵巻には「熈代勝覧 天」と記載されており、天地人の全三巻の可能性があるものの、他の巻は現在所在不明です。題字は当時の著名な書家である佐野東洲によるものです。
『熈代勝覧』は、絵画としても優れた芸術作品でありながら、江戸時代の経済、社会、文化、人々の生活様式を伝える第一級の歴史資料です。この絵巻を見ることで、約200年前の日本橋の活気と繁栄を肌で感じることができます。
キャストもスタッフも灰まみれになりながら臨んだロケ。SNSに載せきれないメイキング写真、たっぷりあります!👇https://t.co/QdkR2HvGnp
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