なるほど神楽坂!🌸ブラタモリ 東京・神楽坂▼大人の隠れがの街はどうできた?花街誕生のヒミツ
なるほど神楽坂!
こんにちは
猫好き父さんです
神楽坂の近くには
あるので猫好き父さんも
あまり知りませんでした
今回もいろいろ学びました
ブラ神楽坂
今回の舞台は東京・神楽坂▼路地裏にオシャレなレストランやバーなどの飲食店が立ち並ぶ都内屈指の人気エリア!まさに“大人の隠れが”といった雰囲気の街がどう生まれたか?そのヒミツを街の歴史と地形から探る。坂のルーツは将軍が江戸城から隠れがへ通うための道だった?3代・家光が通った大名屋敷の痕跡を発見!迷路のような路地と謎の崖に隠された花街誕生の秘密とは?黄金期の面影を残すかつての料亭へ。神楽坂芸者と出会う
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
神楽坂(かぐらざか)は、東京都新宿区にある坂道とその周辺一帯の地名であり、「粋な江戸の風情」と「モダンなパリの雰囲気」が融合した街として知られています。
⛩️ 神楽坂の概要と特徴
神楽坂は、江戸時代に毘沙門天 善國寺が移転してきたことで門前町として栄え、明治時代以降は**山の手随一の繁華街「山の手銀座」**として発展しました。
1. 花街としての歴史
「東京六花街」の一つ: 新橋、赤坂などと並ぶ東京を代表する花街(花柳界)の一つとして隆盛を極めました。最盛期には700人以上の芸妓(芸者)が在籍したとされます。
石畳の路地: 飯田橋側から坂を上った右手に広がるエリアには、黒塀や石畳の細い路地が今も残り、「かくれんぼ横丁」や芸者新道など、花街特有の情緒ある景観を保っています。
料亭と芸妓: 現在も料亭や置屋が存在し、芸妓衆による「神楽坂をどり」などの伝統文化が受け継がれています。
2. 地名の由来とシンボル
地名の由来: 坂の上にあった若宮八幡神社など、付近の神社が祭礼で神楽の音を奏でたことに由来するという説が有力です。
毘沙門天 善國寺: 神楽坂通りのちょうど中ほどに位置する朱色の門が目印の寺院です。徳川家康ゆかりの寺で、「神楽坂の毘沙門さま」として古くから人々の信仰を集めてきました。江戸時代には、芝・浅草と並ぶ「江戸三毘沙門」の一つに数えられました。
狛虎: 善國寺の本堂前には、毘沙門天の使いとされる**虎の石像(狛虎)**が鎮座しているのが特徴です。
3. 「和」と「仏」の融合
パリとの類似: 石畳の路地や急な坂道が多いことから、「パリのモンマルトルの丘に雰囲気が似ている」と言われることもあり、特にフランス人が多く住むエリアでもあります。
文士の街: 明治時代には夏目漱石などの多くの文豪や文化人がこの地を愛し、作品の舞台や執筆の場としました。
神楽坂は、歴史的な風情と新しい文化が共存し、高級な料亭からお洒落なカフェやレストランが軒を連ねる、東京の中でも「粋」な魅力を放つ街です。
神楽坂が東京に残る数少ない花街の一つであることを、芸妓さんへのインタビューや稽古場の様子と共に紹介している動画です。
神楽坂まち舞台・大江戸めぐり2020 ②花街・神楽坂と“流しの芸能” 編
毘沙門天 善國寺(ぜんこくじ)
毘沙門天 善國寺(ぜんこくじ)は、東京都新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院で、「神楽坂の毘沙門さま」として古くから広く親しまれています。神楽坂のシンボル的な存在です。
1. 歴史とご本尊
創建と移転: 文禄4年(1595年)に徳川家康の開基によって馬喰町に創建され、度重なる火災を経て寛政5年(1793年)に現在の神楽坂に移転しました。
毘沙門天信仰: ご本尊は毘沙門天で、江戸時代には芝の正伝寺、浅草の正法寺とともに「江戸三毘沙門」と呼ばれ、多くの参詣客を集めました。
2. 特徴的な見どころとご利益
狛虎(こまトラ)
善國寺の最大の特徴は、一般的な寺社にある狛犬ではなく、本堂の前に鎮座する一対の石造りの狛虎です。
虎が眷属の理由: 毘沙門天は「寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻」にこの世に現れたという古事から、虎が毘沙門天の使い(眷属)とされています。
貴重な文化財: この狛虎は1848年(嘉永元年)に奉納されたもので、東京大空襲で一部損傷したものの修復され、現在に至ります。新宿区内では唯一の作例とされ、台石には明治初年のイギリス式測量の几号水準点という珍しい刻印も残っています。
ご利益
毘沙門天は七福神の一員でもあることから、以下のようなご利益があるとされています。
富と豊かさ
勝運・金運招福(戦国武将が多く信仰したことから)
商売繁盛
開運厄除け
3. 参拝と年中行事
縁日とご開帳
縁日(寅の日): 毘沙門天の縁日は「寅の日」です。特に1月、5月、9月の寅の日には、ご本尊の毘沙門天像が御簾(みす)を上げてご開帳されます。(日程は毎年変動するため、公式情報で確認が必要です。)
神楽坂まつり: 毎年7月に開催される「神楽坂まつり」では、善國寺の境内でほおずき市や子供縁日が催され、夏の風物詩として賑わいます。また、伝統的なほうろく灸の法要も行われます。
アクセス
神楽坂通りの中央、賑やかな場所に位置し、アクセスも便利です。
JR・東京メトロ飯田橋駅、東京メトロ神楽坂駅、都営大江戸線牛込神楽坂駅からそれぞれ徒歩数分です。
見番横丁(けんばんよこちょう)
**見番横丁(けんばんよこちょう)**は、東京の花街(花柳界)の伝統が色濃く残る神楽坂にある、情緒ある路地の一つです。
この横丁の名前は、神楽坂の花街で芸者衆のスケジュール管理や稽古を行う事務所である「見番(けんばん)」が沿道にあることに由来しています。
🎭 見番横丁の特徴と役割
1. 花街文化の中心地
見番横丁は、神楽坂下から坂を上り、毘沙門天善國寺を少し過ぎた辺りから西側に入ったところに位置します。全長は約100mです。
見番(東京神楽坂組合): 芸妓さんの手配や、舞踊や三味線などの伝統芸能の稽古場を兼ねた施設です。現在も神楽坂の花街文化を支える重要な拠点であり、タイミングが良ければ、稽古場から三味線や鳴り物の音がかすかに聞こえてくることがあります。
伝統の継承: 新宿区が街路名を制定した際も、この横丁が神楽坂花柳界の伝統芸能を継承する地であることから、「見番横丁」と名付けられました(2011年12月)。
2. 周辺の横丁との繋がり
見番横丁は、神楽坂の他の特徴的な横丁や小道と繋がっています。
芸者小道(熱海湯階段): 見番横丁の突き当りから、近くの銭湯「熱海湯」へ降りていく細く曲がりくねった階段の小道は、かつて芸者さんがお座敷に向かう際に通ったことから「芸者小道」と呼ばれています。映画やドラマのロケ地としても人気です。
飲食店: 周辺には、老舗の料亭はもちろん、和の趣を残しつつ現代的な感性を取り入れた隠れ家的なレストランやバーなどが点在しており、神楽坂ならではの**「粋」なグルメスポット**としても知られています。
見番横丁は、神楽坂のメインストリートから一歩入るだけで、かつての賑わいと現代の洗練された雰囲気が混在する、独特の風情を感じられるスポットです。
東京神楽坂組合稽古場(とうきょうかぐらざかくみあいけいこば)
**東京神楽坂組合稽古場(とうきょうかぐらざかくみあいけいこば)**は、神楽坂の花街文化を継承・発展させるための中心的な施設です。一般的には「見番(けんばん)」と呼ばれ、芸者衆の活動を支える重要な役割を担っています。
1. 「見番」の役割と所在地
見番(検番)とは: 芸者衆の活動に関する事務を行う事務所のことです。具体的には、料亭からの**芸者衆の手配(玉代の勘定)**や、伝統芸能の稽古を行う場として機能しています。かつては、花街の治安維持や日常の雑事にも対応する、地域にとって重要な拠点でした。
所在地: 神楽坂通りの裏手にある「見番横丁」沿いにあります。横丁の名前もこの見番に由来しています。運が良ければ、稽古場から聞こえてくる三味線や鳴り物の音色が、神楽坂の情緒ある雰囲気を高めてくれます。
2. 伝統芸能の継承
稽古内容: 神楽坂の芸妓衆は、この稽古場で日本舞踊(神楽坂は主に花柳流)、三味線、清元、長唄、常磐津、鳴物(お囃子)などの伝統芸能の稽古を積んでいます。
神楽坂をどり: 組合の主要な活動の一つに、毎年開催される「神楽坂をどり」があります。これは、芸者衆が日頃の稽古の成果を一般の観客に披露する発表の場であり、神楽坂の伝統文化の発信源となっています。(この「神楽坂をどり」は、新宿区の地域文化財にも指定されています。)
3. 組織の概要
「東京神楽坂組合」は、神楽坂の花街を構成する芸妓組合と料亭組合によって組織されています。
歴史: 明治初期より花柳界として栄えてきた神楽坂の花街文化を継承するため、1973年(昭和48年)に現在の組織に改組されました。
現況: 現在も少人数ながら芸妓衆が在籍し、神楽坂の料亭などで「お座敷」を彩り、伝統文化を守り続けています。
見番横丁にある稽古場は、外から一般的に見学できる施設ではありませんが、神楽坂の「粋」の根幹を成す、非常に重要な場所です。
神楽坂を愛した文豪たち
神楽坂は、江戸の情緒とモダンな雰囲気が混在する独特の魅力から、明治・大正期にかけて多くの文豪たちに愛され、作品の舞台や執筆の場となりました。
特にゆかりが深い文豪は、以下の2人です。
1. 尾崎 紅葉(おざき こうよう)
神楽坂を代表する文豪の一人です。
ゆかりの地: 神楽坂に隣接する**牛込横寺町(現在の新宿区横寺町)**に、明治24年(1891年)から亡くなる明治36年(1903年)まで住んでいました。この旧居跡は現在、新宿区指定史跡となっています。
硯友社(けんゆうしゃ): 山田美妙らと共に結成した文学結社「硯友社」を通じて、明治の文壇を牽引しました。
「紅葉山脈」: 尾崎紅葉の門下からは、泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉といった優秀な弟子たちが輩出され、彼らは「紅葉門下四天王」や「紅葉山脈」と呼ばれました。泉鏡花も後に神楽坂界隈に住み、師弟ともにこの地で活動しました。
2. 夏目 漱石(なつめ そうせき)
神楽坂界隈が生活圏であり、作品にもたびたび登場しています。
ゆかりの地: 漱石が晩年を過ごした「漱石山房」があった早稲田(現在の漱石山房記念館)は、神楽坂から散歩圏内でした。漱石はよく神楽坂まで足を延ばしていたといわれます。
作品への登場:
代表作の一つ『坊っちゃん』の主人公は、赴任先の四国の街並みを「東京の神楽坂あたりを小さくしたようなもの」と例えています。
随筆『硝子戸の中』や小説『それから』など、多くの作品に神楽坂周辺の描写や地名が登場しており、漱石にとって馴染み深く重要な街であったことが分かります。
その他、神楽坂にゆかりのある文人
泉 鏡花(いずみ きょうか):尾崎紅葉の弟子。師の影響もあり神楽坂界隈に住み、静かで情緒ある路地を好んだとされます。
北原 白秋(きたはら はくしゅう):詩人。明治時代後半から神楽坂に住居を構えていました。
坪内 逍遥(つぼうち しょうよう):小説家・劇作家。彼が教授を務めた早稲田大学に近かったこともあり、活動拠点の一つでした。
神楽坂の石畳の路地や料亭といった独特の空間は、これらの文豪たちにとって、創作意欲を刺激する「粋な街」であったと言えます。
見附(みつけ)
「見附(みつけ)」は、主に城郭や街道において、見張り番が置かれた重要な地点を指す言葉です。特に江戸城の防御システムにおいて非常に重要な役割を果たしました。
1. 見附の基本的な意味と語源
語源: もともとは「見張り番」や「番兵」を置いた軍事施設である**番所(見張り所)**そのものを指す言葉です。
役割の変遷: 時間が経つにつれて、番所が設置された城門全体(特に枡形門)や、街道の出入口や分岐点など、交通・防衛上の要衝を指すようになりました。
現代の地名: 東京の赤坂見附、四谷見附、市ヶ谷見附、牛込見附などの地名は、かつて江戸城の門があった場所として、その名残を今に伝えています。
2. 江戸城における「見附」の役割と構造
江戸城の見附は、将軍の居城を守るための厳重な防御施設であり、城下町(江戸)の出入口を監視する役割も兼ねていました。
構造:枡形門(ますがたもん)
江戸城の多くの見附は、非常に防御力の高い「枡形門」という構造をしていました。
高麗門(二の門): まず、城外(濠側)にある比較的簡易な門をくぐります。
枡形: 門をくぐると、四方を石垣と門に囲まれた四角い空間(枡形)に入ります。敵が侵入した場合、この狭い空間で身動きが取れなくなり、四方から弓矢や鉄砲で攻撃されることになります。
渡櫓門(一の門): 枡形内で進行方向を右か左に直角に曲がり、最後に**櫓(やぐら)**が載った大きな門(渡櫓門)を抜けて初めて城内に入ることができます。
この複雑な構造により、敵の勢いのある突撃を防ぐと同時に、通行人を細かく監視することが可能でした。
「三十六見附」
江戸城の主要な見附(城門)は、俗に**「江戸城三十六見附」**と呼ばれていました。
これは語呂合わせから有名になったもので、実際には内堀と外堀に合わせて約36か所(外曲輪に26門、内曲輪に10門以上など諸説あり)の主要な門や見張り番所が設けられていました。
これらの見附は、大名や町人の出入りを制限・監視する関所のような役割も担っていました。
唯一の例外:喰違見附(くいちがいみつけ)
四谷見附と赤坂見附の間にある喰違見附は、枡形構造ではなく、虎口(城の出入口)をクランク状に屈曲させる「喰い違い」構造をしていました。ここは門を設置せず、土塁と堀を食い違わせて敵の侵入を防ぐ、より古い様式の防御線でした。
現代に残る「見附」の地名は、江戸の防御と都市計画の歴史を今に伝える貴重な遺産です。
神楽坂が現在の形に整備され、街として発展していく基礎が築かれたのは、主に**江戸時代初期(17世紀前半)**です。
これは、江戸城の外堀建設と、武家地としての利用が深く関わっています。
📅 神楽坂が整備された時期
1. 江戸時代初期:武家町の成立と坂道の整備
神楽坂通りの原型が整備されたのは、寛永年間(1624年~1644年)、特に寛永5年(1633年)頃とされています。
登城道路としての整備: 江戸城の外堀が整備されるに伴い、大老の酒井忠清(さかいただきよ)が拝領した屋敷地(現在の矢来町方面)と、江戸城の牛込御門を結ぶ登城道路として、坂道(現在の神楽坂通り)が整備されました。これが、神楽坂のメインストリートの起源とされています。
外堀と城門: 寛永13年(1636年)には、牛込門が外堀の門として完成し、坂道は江戸城の防御ラインと外部を結ぶ重要な道となりました。周辺には武家屋敷や寺社が配置され、武家地・寺町として発展しました。
2. 江戸時代中期以降:賑わいと門前町の形成
毘沙門天善國寺の移転: 寛政5年(1793年)に、麹町から毘沙門天善國寺(神楽坂のランドマーク的存在)が坂上に移転してきたことで、その門前には参詣客を相手にする店が集まり、門前町として賑わい始めます。
「神楽坂」の名の定着: 坂で神社の神楽を奏したことなどが由来とされ、この時期にはすでに地名として定着していました。
3. 明治・大正時代:花街と繁華街としての隆盛
江戸時代の地割(区画)を活かしつつ、明治時代になると、神楽坂は「花街(花柳界)」として大きく発展します。
花街の形成: 明治の末期から大正時代にかけて、料亭や芸者衆が集まり、神楽坂は都内随一の「山の手銀座」と呼ばれる高級で粋な繁華街へと変貌を遂げました。現在に残る石畳の路地や見番横丁の風情は、この花街時代の面影を色濃く残しています。
神楽坂は、江戸初期の軍事・交通の要所として整備された基礎の上に、江戸中期以降の商業的発展と、明治以降の花街文化が重なり合って形成された街と言えます。
下屋敷(しもやしき)は、江戸時代に大名や旗本が江戸に複数所有していた屋敷の一つで、「上屋敷(かみやしき)」「中屋敷(なかやしき)」と並んで重要な役割を果たしました。
上屋敷が「公邸」、中屋敷が「控えの屋敷」だとすると、下屋敷は**「郊外の別邸」や「後方支援拠点」**といった性格を持っていました。
下屋敷の主な役割と特徴
下屋敷は、江戸城に近い都心部に置かれた上屋敷とは異なり、主に江戸郊外(現在の東京23区内の周辺部)に広大な敷地を確保して建てられました。
特徴 | 詳細 |
1. 別荘・保養所 | 藩主や家族が日常の公務から離れ、静養するための別邸として使われました。そのため、広大な大名庭園が設けられることが多く、賓客との交流や遊興の場としても利用されました。 |
2. 罹災時の避難先 | 江戸は火事が多発したため、江戸城に近い上屋敷が火災などで使用不能になった際、一時的に藩主や家族が避難する控えの屋敷(バックアップ)としての機能がありました。 |
3. 物資の貯蔵・生産 | 藩の財政を支える蔵屋敷(物資の倉庫)の機能や、食料や建築資材などの生産・貯蔵を担う場所でもありました。特に水運の便が良い水辺に設けられることも多かったです。 |
4. 隠居・世子の住居 | 中屋敷と同様に、隠居した元藩主や、世継ぎ(次の藩主)が居住する場所として使われることもありました。 |
大名屋敷の「上・中・下」の分類
大名屋敷は、江戸幕府が参勤交代の義務を課す中で、大名の江戸での居住・活動のために与えた土地に建てられました。
屋敷名 | 立地 | 主な機能・居住者 |
上屋敷(かみやしき) | 江戸城の近く(都心) | 藩主と正室・嫡男が住む公邸。藩の江戸における政治・軍事の中心地(役所)でした。 |
中屋敷(なかやしき) | 上屋敷よりやや郊外 | 世継ぎや隠居した藩主の住居。上屋敷が使用不能になった際の予備の居所。 |
下屋敷(しもやしき) | 江戸郊外 | 別荘、保養所、物資の貯蔵庫。広大な庭園を持つことが多い。 |
このように、下屋敷は「別邸」としての側面が強く、現代の東京の多くの公園や大学のキャンパス(例:六義園、旧芝離宮恩賜庭園など)のルーツは、かつての大名の下屋敷であった場所が少なくありません。
酒井忠清(さかい ただきよ)は、江戸時代前期の譜代大名で、特に徳川家綱(4代将軍)の時代に幕政を主導した大物として知られています。
彼は、神楽坂(牛込)の発展にも深く関わった人物としても有名です。
1. 酒井忠清の概要と経歴
出自と家格: 徳川将軍家と同祖とされる譜代大名の中でも名門中の名門である雅楽助(うたのすけ)酒井氏の出身です。祖父の酒井忠世も老中を務めた重臣であり、忠清自身も幼少より将軍に仕え、家格に基づき出世を重ねました。
藩主: 上野(こうずけ、現在の群馬県)前橋藩主(後に15万石)を務めました。
老中・大老: 4代将軍徳川家綱の治世下で、老中首座(筆頭老中)として幕政を総覧し、特に重要案件においては大老の待遇を受けました。彼の在任期間は、将軍の権威よりも譜代大名の門閥(家柄)が力を持っていた時代でした。
2. 幕政における功績と評価
功績と政治姿勢
忠清は、幕府の権威が揺らぎ始めたこの時期に、支配体制の維持に努めました。
権力集中策: 諸大名や朝廷を含む全社会層を対象とした**大規模な倹約令(1668年)**を発令するなど、幕府主導による支配強化に尽力しました。
安定志向: 忠清の政治は、大きな改革よりも、伝統的な幕府の制度を維持し、内政の安定を図る保守的な側面が強かったとされます。
評価
従来の歴史観では、忠清は門閥の権威を背景に専横的に振る舞い、政治を停滞させたという批判的な評価が主流でした。
しかし近年では、武家社会が変質し、農民一揆などが頻発する困難な時代において、体制を維持しようと努力した手堅い政治家であった、という再評価もされています。
3. 神楽坂との深いつながり
忠清の家柄が所有していた屋敷地が、現在の神楽坂エリアの発展に決定的な影響を与えました。
矢来(やらい)屋敷: 忠清の父、酒井忠行(または祖父忠世、資料によって忠勝とする記述もあり)が寛永5年(1628年/1633年頃)に、現在の神楽坂(矢来町)一帯の広大な土地(下屋敷)を拝領しました。
神楽坂通りの原型: この下屋敷と江戸城の牛込御門を結ぶ道が、忠清の登城道路として整備された結果、現在の神楽坂通りの原型が形成されました。
「矢来町」の由来: この屋敷の警護のために、敷地の周囲に竹を編んだ柵(矢来)を巡らせたことが、現在の矢来町という地名の由来になったと伝えられています。
このように酒井忠清は、江戸幕府の重臣として権勢を振るう一方で、東京の神楽坂という街の成り立ちにも深く関わった人物です。
酒井忠清と徳川将軍家との関わりは、主に第4代将軍・徳川家綱の治世における補佐役として、また第5代将軍・徳川綱吉への政権移行期における失脚という形で、非常に密接かつ劇的なものでした。
1. 徳川家光との関わり
忠清の祖父・酒井忠世は2代秀忠・3代家光の老中として、父・酒井忠行も幕府の要職に就くなど、酒井家は代々、徳川将軍家に最も信頼される譜代の名門でした。
忠清自身は、幼少期から3代将軍・徳川家光に仕え、その遺訓に従って家光の死後も幕府の要職に就きました。
神楽坂の項で触れた**矢来屋敷(下屋敷)**も、忠清の父祖の代に家光から拝領したもので、家光自身が「御成(おなり)」(将軍が家臣の屋敷を訪問すること)のためにこの屋敷を頻繁に訪れています。
2. 徳川家綱(4代将軍)との関わり:権勢の絶頂期
忠清の人生の絶頂期は、4代将軍・徳川家綱の治世でした。
補佐と権力の掌握
家綱は幼くして将軍職に就いたうえ、病弱で温厚な人柄だったため、政務を大老や老中に任せる傾向がありました。
忠清は、将軍の叔父である保科正之や老中筆頭の松平信綱といった実力者が亡くなった後、大老となって幕政の実権を掌握しました。
家綱は裁決の際「左様せい(そうせい)」(そのようにせよ)と答えることが多かったとされ、忠清の専断が目立ったため、家綱時代は「左様せい様」と俗称され、忠清の権勢を裏付けました。
「下馬将軍」の異名
忠清の上屋敷が江戸城大手門の「下馬札(げばふだ)」のすぐ前という、幕府の権威を示す最も重要な場所に与えられていました。
この立地の良さと、大老としての絶大な権勢とを重ね合わせ、彼は俗に「下馬将軍(げばしょうぐん)」と呼ばれました。これは、将軍に匹敵する権力を持つ、という意味合いで使われた通称です。
3. 徳川綱吉(5代将軍)との関わり:失脚
4代将軍・家綱が子を残さずに亡くなり、弟の徳川綱吉が5代将軍に就任すると、忠清の運命は一転します。
皇族将軍擁立の画策
家綱の死後、忠清は将軍後継者として、家綱の異母弟である綱吉ではなく、**皇族(有栖川宮幸仁親王)**を推す動きがあったとされます(ただし、この説には異論もあります)。
結果的に綱吉が将軍に就任しましたが、これは忠清と綱吉の対立を深める一因となりました。
罷免と死去
綱吉は、病弱な家綱の下で権勢を振るった忠清を疎ましく思い、将軍就任後まもなく忠清に**大老職の解任(罷免)**と病気療養を命じました(1680年末)。
綱吉は、譜代門閥層(酒井家など)の権威を打破し、自らの手で幕政の実権を握ることを目指していたため、忠清の排除は新将軍による政権刷新の第一歩でした。
忠清は罷免の翌年(1681年)に隠居した後、間もなく死去しました。
明治時代に政府が出した花街や遊郭に関する主な禁令は、人身売買を禁止し、形式的に芸娼妓を解放することを目的とした**「芸娼妓解放令」**とその関連規則です。
これは、遊郭(貸座敷)の営業そのものを禁止するものではありませんでしたが、その後の花街のあり方を大きく変えました。
芸娼妓解放令とその影響(明治5年)
明治時代初期の1872年(明治5年)に、政府は以下の太政官達(法令)を交付しました。
1. 芸娼妓解放令(太政官達第295号)
内容: 人身売買の禁止を定め、芸妓と娼妓を解放するという主旨の法令です。これにより、遊女は「娼妓」、遊女屋は「貸座敷」と名称を変えて営業を続けましたが、建前上は自由な職業であるとされました。
背景: 同年に発生した「マリア・ルーズ号事件」において、日本国内の遊女の存在が国際的に「人身売買、奴隷制の公認」と批判されたことが、大きなきっかけとなりました。
2. 前借金(ぜんしゃくきん)の無効
内容: 芸娼妓が親などから借金したとして業者に売られる際に生じた前借金を無効とする司法省達が同時に出されました。
影響:**「公娼制度」**の確立
これらの法令により、芸娼妓は理論上は自由に廃業できることになりました。しかし実際には、多くの遊女には帰る場所がなく、貸座敷側は「前借金」を「営業上の借り」や「立替金」などの名目に変えることで、実質的な拘束を戦後まで続けることになりました。
これにより、政府の管理・監督の下で遊郭・貸座敷を公的に認める近代公娼制度が確立することとなります。
その後の規制の強化
「芸娼妓解放令」は遊郭自体を禁止しませんでしたが、その後、取締規則が整備・強化されていきました。
1. 貸座敷渡世規則・娼妓渡世規則(明治6年以降)
内容: 貸座敷(遊郭)の営業地を限定(集娼)し、娼妓の登録制や**定期的な性病検診(検梅制度)**を義務付けるなど、公娼制度の枠組みを詳細に定めました。
目的: 遊郭の営業を許可地に集めることで、税金の徴収と衛生管理(特に性病対策)を容易にし、私娼(岡場所)の取締りを強化することでした。
2. 年齢制限の引き上げ
内容: 娼妓として働くことのできる年齢制限が、当初の13歳以上から、後に16歳未満禁止(明治22年)、最終的に18歳未満禁止(明治33年)へと引き上げられました。
これらの規制によって、花街(芸妓の街)と遊郭・貸座敷(娼妓の街)の区別がより明確になっていきました。神楽坂のような従来の岡場所や門前町は、娼妓を抱えずに芸妓(踊りや音曲で客をもてなす)を中心とする花街へと移行することで、明治以降も発展を続けることができました。
神楽坂の登録有形文化財となっている建築物で、以前は料亭(正確には待合)として使われ、現在は個人宅となっているのは、**旧常盤家本館(石合家住宅主屋)**です。
旧常盤家本館(石合家住宅主屋)
この建物は、神楽坂の花街文化を伝える貴重な建築物として評価されています。
🏠 建築物の概要
項目 | 詳細 |
文化財名称 | 旧常盤家本館(石合家住宅主屋) |
種別 | 国の登録有形文化財(建造物) |
所在地 | 東京都新宿区神楽坂3丁目付近 |
建築時期 | 昭和中期/**1950年(昭和25年)**建築(1954年増築) |
旧用途 | 待合(貸席) |
現用途 | 個人住宅(石合家住宅主屋として登録) |
✨ 特徴と評価
この建物は、昭和初期から戦後にかけて隆盛を誇った神楽坂の花街建築の特徴をよく伝えています。
豪華な意匠: 待合として使用されていたため、内部は客をもてなすための豪華な意匠が凝らされています。
銘木が多用されており、客室には美しい障壁画や、浴室にはモダンなステンドグラスなどが施されています。
玄関と構造: 玄関には**唐破風(からはふ)**を載せた庇が付いており、格式の高さを感じさせます。建物は坪庭をコの字型に囲む複雑な配置で、近代の待合の趣を今に伝えています。
近代花街の趣: 待合とは、料亭から料理を、お茶屋から芸者を呼んで、客が遊興するための貸席でした。旧常盤家本館は、神楽坂の豪奢な花街文化の歴史的景観に寄与するものとして、登録有形文化財となっています。
注記: 現在は個人宅として利用されているため、内部は一般には非公開となっています。外観のみ見学可能です。
神楽坂のBar英です。
— 神楽坂芸者 英子 (@tokyogeishaA) September 26, 2025
明日9月27日(土)19:30~20:00にNHK総合で放送される『ブラタモリ』の舞台は神楽坂です。
神楽坂組合も撮影協力しています。ぜひご覧くださいね!
11月14日(金)と15日(土)には2年ぶりに若手芸者が中心となって日頃のお稽古の成果をご披露する『水穂会』が四谷区民ホールで開催され pic.twitter.com/0HnuJIcxlz