平賀源内と田沼意次の関係、その生涯と功績⚡べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(16)さらば源内、見立は蓬莱(ほうらい)
平賀源内の最後
こんにちは
猫好き父さんです
源内さん
悲しい最後でしたね
画像は公式からの引用です
おらすじ
家基(奥智哉)の急逝した事件は確固たる証拠を得ぬまま幕引きとなる。意次(渡辺謙)は源内(安田顕)に、これ以上詮索を控えることを告げると、源内は激怒する。一方、蔦重(横浜流星)は源内の住む“不吉の家”と呼ばれる屋敷を訪ねる。そこで、正月に出す戯作の新作を依頼するも、時折、奇妙な言動を繰り返す様子が気になっていた。そんな矢先、蔦重や意次のもとに、“源内が人を斬った”という知らせが入る…。
出演
【出演】横浜流星,安田顕,宮沢氷魚,古川雄大,尾美としのり,冨永愛,生田斗真,石坂浩二,里見浩太朗,渡辺謙,原田泰造,高梨臨,寛一郎,木村了,安達祐実,橋本淳,映美くらら,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
徳川家基(とくがわいえもと)の死因
徳川家基(とくがわいえもと)は、江戸幕府10代将軍・徳川家治の嫡男であり、将来を嘱望された人物でしたが、わずか18歳(数え年)で急逝しました。その死因については、公式には急病とされていますが、不審な点が多く、様々な憶測や陰謀説が囁かれています。
公式な死因
- 公式記録である『徳川実紀』などでは、安永8年(1779年)2月21日に鷹狩りの帰りに体調を崩し、数日後の2月24日に急病により亡くなったとされています。
- 具体的な病名についての記述はありません。一部では、食あたりや急性の腹痛(盲腸など)ではないかという声もありましたが、詳しい検死が行われなかったため、真相は不明です。
囁かれる主な死因
公式な病死説に対し、家基の健康状態が良好であったことや、急な発病と死亡までの早さから、以下のような説が根強く存在します。
- 田沼意次による毒殺説: 当時、老中として幕府の実権を握っていた田沼意次と、次期将軍となるはずの家基は政治思想が対立していました。家基が将軍になれば、田沼の権力が失われると考えたため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が、大奥の女中たちの間で広まりました。大河ドラマ『べらぼう』でも、毒を仕込んだ手袋が重要な小道具として登場するなど、この説は広く知られています。
- 一橋治済による暗殺説: 徳川御三卿の一つである一橋家の当主・一橋治済は、自分の息子である豊千代(後の11代将軍・徳川家斉)を将軍にしたいと考えていました。家基の死によって、結果的に家斉が将軍家の養子となり、将軍の座を射止めたため、一橋家による陰謀説も存在します。
- 落馬事故説: ドイツの博物学者シーボルトの著書『日本交通貿易史』には、家基が献上されたペルシャ馬に乗っていた際に落馬し、その怪我が原因で亡くなったという記述があります。
- その他: 単なる食中毒や感染症など、偶発的な病死とする見方もありますが、急な経過から不自然とする意見も根強いです。
真相
家基の死因については、公式記録が曖昧であること、そして様々な憶測や政治的な背景が絡み合っているため、現在に至るまで真相は明らかになっていません。
2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも、家基の死を巡る謎が重要なストーリーの一つとして描かれるなど、その突然の死は歴史のミステリーとして人々の関心を集め続けています。
平賀源内と田沼意次の関係
平賀源内と田沼意次は、江戸時代中期という変革の時代において、それぞれ異才を放った人物であり、その関係は日本の学術、産業、そして政治の動向を考える上で非常に興味深いものです。
二人の出会いと交流
- 田沼意次の才能への注目: 老中として幕府の実権を握り、商業重視の経済政策や殖産興業を推進した田沼意次は、平賀源内の持つ特別な才能、特に蘭学の知識や発明の才に早くから注目していました。
- 物産会での出会い: 源内が開催した日本初の物産博覧会「薬品会」などを通じて、二人は接点を持ったと考えられています。意次は、源内のアイデアや発想が、幕府の進める経済政策に繋がる可能性を感じていたのでしょう。
- 意次による支援: 田沼意次は、源内の才能を高く評価し、その活動を様々な形で支援しました。
- 長崎遊学の支援: 源内が二度目に長崎へ遊学する際、意次の意向が働いたと言われています。これは、源内に海外の知識や技術をさらに吸収させようという意図があったと考えられます。
- 鉱山開発への協力: 源内が秩父などで鉱山開発に取り組む際、幕府の許可や協力を得やすい状況を作った可能性があります。
- 新技術への理解: エレキテルの復元や寒暖計の試作など、源内の先進的な試みに対し、意次は理解を示し、時には資金援助なども行ったと考えられています。
二人の共通点と相乗効果
- 進取の気性: 鎖国体制下の江戸時代において、二人とも既成概念にとらわれず、新しい知識や技術を積極的に取り入れようとする進取の気性を持っていました。
- 実学の重視: 儒学などの精神論だけでなく、実用的な学問や技術を重視する姿勢が共通していました。源内の本草学や発明、意次の殖産興業政策は、その表れと言えるでしょう。
- 経済発展への意識: 二人とも、当時の日本の経済の停滞を打破し、発展させようという強い意識を持っていたと考えられます。源内の産業振興への関与や、意次の商業重視政策は、その方向性を示しています。
晩年の関係と影響
- 源内の投獄と死: 源内が人を傷つける事件を起こし投獄された際、意次が直接的な救済に動いたという明確な記録はありません。しかし、意次が源内の才能を惜しんでいたことは想像に難くありません。
- 田沼政権の失脚: その後、田沼意次自身も失脚し、その政策は否定されることになります。源内の業績も、一時的に評価が下がる時期がありました。
- 後世への影響: しかし、二人が志した新しい学問や産業への取り組みは、後世の日本の近代化に大きな影響を与えました。
まとめ
平賀源内と田沼意次の関係は、才能ある学者・技術者と、その才能を理解し支援しようとした開明的な政治家という側面で見ることができます。二人の交流は、江戸時代中期の学術・産業の発展を促進する上で重要な役割を果たしました。意次の庇護のもと、源内は自身の才能を多方面に開花させることができ、その功績は今日でも高く評価されています。二人の関係は、当時の日本が新しい時代へと向かう胎動を示すものだったと言えるでしょう。
平賀源内(ひらが げんない)の生涯
- 誕生 - 青年期: 享保13年(1728年)、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で、高松藩の御蔵番の家に生まれました。幼名は四万吉(よもきち)、後に伝次郎、嘉次郎と名乗りました。非常にいたずら好きで、「天狗小僧」と呼ばれていた逸話が残っています。藩医から本草学を、儒学者から儒学を学び、21歳で父の跡を継ぎ蔵番となります。藩主・松平頼恭に見出され、長崎へ遊学し本草学を学びました。
- 江戸での活動: 宝暦4年(1754年)、家督を妹婿に譲り江戸へ出て、本草学者の田村藍水に師事。儒学や医学も学びました。
- 宝暦7年(1757年)、師と共に日本初の物産博覧会「薬品会(やくひんえ)」を湯島で開催しました。
- 明和元年(1764年)には、燃えない布「火浣布(かかんぷ)」を制作し、その製法を解説した書物を著しました。
- 多岐にわたる才能の発揮: 源内は本草学にとどまらず、様々な分野で才能を発揮しました。
- 文芸: 戯作者として『風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)』『根南志具佐(ねなしぐさ)』などの滑稽本や、人形浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』などを執筆し、大きな人気を得ました。風来山人、福内鬼外など多くの号を使い分けました。
- 産業・技術: 鉱山開発や新技術の導入にも熱心で、秩父での石綿発見、炭焼きや荒川の通船工事の指導などを行いました。秋田藩では鉱山技術や洋画の指導も行っています。
- 芸術: 西洋画の技法を学び「西洋婦人図」などを描いたり、独自の陶器「源内焼」を創始したりしました。
- 晩年と死: 多彩な才能を発揮する一方で、奇抜な言動が多く、周囲との摩擦も多かったようです。安永8年(1779年)、些細なことから人を傷つける事件を起こし投獄され、同年12月18日に獄中で破傷風により亡くなりました。享年52歳。親友の杉田玄白が彼の墓碑銘を記しています。
平賀源内の主な功績
平賀源内は、鎖国下の江戸時代において、西洋の知識や技術を積極的に取り入れ、様々な分野で先駆的な業績を残しました。主な功績としては以下の点が挙げられます。
- エレキテルの復元: オランダから伝わった静電気発生装置エレキテルを修理・復元し、日本の科学技術史に大きな足跡を残しました。病気の治療などにも用いられました。
- 日本初の物産博覧会の開催: 本草学者としての知識を活かし、各地の産物を集めた薬品会を開催し、人々に知識を広め、産業の発展を促しました。著書『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』は、その出品物を解説したものです。
- 火浣布の開発: 石綿を発見し、燃えない布である火浣布の製作に成功しました。
- 寒暖計の試作: オランダの書物を参考に、日本で初めてとなるアルコール温度計(タルモメイトル)を試作しました。
- 量程器(万歩計の原型)の考案: 距離を測るための装置を考案しました。
- 磁針器(羅針盤)の製作: 方位を知るための装置を製作しました。
- 戯作文学の開拓: 従来の文学の枠にとらわれない、斬新でユーモアあふれる戯作を創作し、江戸の文学に新たな潮流を生み出しました。
- 「土用の丑の日」の鰻の宣伝: 売れ残りに悩む鰻屋に「本日丑の日」と書いて宣伝することを勧めたのが、土用の丑の日に鰻を食べる習慣の始まりという説があります。
- 源内焼の創始: 独自の釉薬と意匠を用いた陶器「源内焼」を創り出しました。
- 西洋画法の導入: 長崎で学んだ西洋画の技法を日本に伝えました。
平賀源内は、まさに多才な才能を持ち、既存の枠にとらわれずに様々な分野で活躍した、江戸時代の異才というべき人物です。彼の功績は、日本の文化、科学、産業の発展に大きな影響を与えました。
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