徳川の始まりと終わり🏯ブラタモリ 京都・二条城▼世界遺産&国宝二の丸御殿へ!徳川三代の思惑とは
徳川の始まりと終わり
こんにちは
猫好き父さんです
二条城かあ
もう、40年以上も前にいったかなあ
いろんな
物語があったんですね
ブラ二条城
今回の舞台は京都・二条城▼世界遺産・二条城に隠された徳川三代の思惑を探る。大政奉還の舞台となった国宝・二の丸御殿へ。京都における将軍家の拠点、城の造りと立地に込めた初代・家康の緻密な戦略とは?美しい庭園に幻の御殿の痕跡を発見!2代・秀忠&3代・家光による大改築、その裏に隠された壮大な計画が明らかに。天皇を魅了した!?天守から眺める京都の絶景&江戸時代の始まりと終わりを見届けた城の運命にタモリ感嘆
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
二条城(にじょうじょう)は、京都府京都市中京区にある日本の城郭で、江戸幕府を開いた徳川家康が、京都御所の守護と上洛時の宿泊所として築造した城です。
世界遺産にも登録されており、豪華絢爛な桃山文化を今に伝える貴重な歴史的建造物です。
🏯 二条城の歴史と特徴
1. 築城と増築
築城(1603年): 徳川家康によって築城され、慶長8年(1603年)にはここで家康が征夷大将軍の宣下を受けました。
増築(1626年): 3代将軍の徳川家光が、後水尾(ごみずのお)天皇を迎えるために大規模な改修・増築を行い、現在の壮麗な姿となりました。この時の増築で、豪華な障壁画や彫刻が施されました。
2. 絢爛な桃山文化の粋
二条城は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて栄えた桃山文化を象徴する建築様式が特徴です。
二の丸御殿: 特に有名なのが、国宝に指定されている二の丸御殿です。武家風の書院造りを基本としながらも、随所に華麗な装飾が施されています。
鶯(うぐいす)張り廊下: 侵入者を知らせる仕掛けとして、人が歩くとキュッキュッと音が鳴る床(鶯張り)が有名です。
大広間: 幕末に**大政奉還(たいせいほうかん)**が発表された歴史的な舞台です。
3. 大政奉還の舞台
二条城は、江戸幕府の「始まり」だけでなく、「終わり」の舞台ともなりました。
1867年(慶応3年): 15代将軍の徳川慶喜が、二の丸御殿の大広間で諸藩の重臣を集め、政権を朝廷に返上する大政奉還を表明しました。これにより、260年以上にわたる江戸時代が幕を閉じました。
4. 世界遺産登録
二条城は、正式には「古都京都の文化財」の一部として、1994年にユネスコの世界遺産に登録されています。
現在、城内は二の丸御殿、二の丸庭園、本丸御殿(重要文化財)、清流園などがあり、国内外から多くの観光客が訪れる京都の主要な観光地の一つです。
二条城が徳川家康から秀忠、家光までの親子三代にわたって増改築された主な理由は、時代の変化と政治的な必要性に応じた徳川の権威を誇示するためです。
特に二条城は、京都という朝廷の所在地において、徳川政権の権力と正統性を示す象徴としての役割を担っていました。
🏛️ 世代ごとの増改築の主な目的
二条城は、単に居住するための城ではなく、各将軍が当時の政治的状況に応じて、朝廷や大名に対する**「見せしめ」や「儀式の場」**としてその機能を変えていきました。
1. 徳川家康(初代): 築城と「始まり」の宣言
築城理由: 慶長6年(1601年)頃に築城を開始しました。主な目的は、京都における政治活動の拠点とすること、および有事に備えた京都御所の守護(監視)でした。
権威の確立: 慶長8年(1603年)、家康は二条城で征夷大将軍の宣下を受けました。これは、徳川家が天下を治めるという宣言の場であり、初代の城は**「幕府の創始」**の象徴として機能しました。
2. 徳川秀忠(二代): 機能の維持と儀礼
役割: 秀忠は家康の築いた基盤を維持し、城を上洛時の宿泊所や政治的な儀礼の場として利用しました。
小規模な改修: 大規模な増築記録は少ないものの、父の残した城の維持・管理に努め、必要に応じて改修を行いました。
3. 徳川家光(三代): 権威の頂点と「天皇行幸」
家光による大規模な増改築が、二条城を絢爛豪華な姿に決定づけました。
最大の理由:後水尾天皇の行幸(1626年)
家光は、朝廷と徳川家の関係を強固にし、徳川家の権威が朝廷の上にあることを国内外に誇示するため、後水尾天皇を二条城に迎える**「行幸(ぎょうこう)」**を計画しました。
大規模な増築: 天皇を迎えるにふさわしい迎賓館としての機能を持たせるため、本丸の増改築や、二の丸御殿の障壁画、彫刻、装飾を豪華絢爛な桃山文化の粋を凝らしたものへと一新しました。現在の二の丸御殿の主要な装飾はこの時のものです。
つまり、二条城の増改築は、代々の将軍が**「京都における徳川のプレゼンス」**をその時代の最高潮の権力と財力をもって示すための政治的なプロジェクトだったと言えます。
二条城にかつて存在した天守閣は、現在のような平城には珍しい、徳川の権威を象徴する重要な建造物でした。しかし、その現存期間は短く、現在は石垣のみが残されています。
🏰 天守閣の概要と変遷
1. 築造(徳川家光の時代)
現在二条城に残る天守台は、もともと別の城の天守を移築したものでした。
移築元の城: 5代将軍豊臣秀頼が築いた伏見城(ふしみじょう)の天守を移築しました。
時期: 3代将軍徳川家光が、後水尾天皇の行幸(ぎょうこう)を迎えるための大規模な改修・増築を行った、**寛永元年(1624年)**頃です。
2. 構造と役割
場所: 二条城の本丸の南西隅(現在の本丸御殿の裏手)に位置していました。
規模: 記録によると、五重(五階建て)の構造を持つ、壮麗なものであったとされています。二条城の象徴として、京都にいる天皇や公家、さらには西国大名に対して、徳川の武威と権力を誇示する役割を担っていました。
3. 焼失とその後
残念ながら、この天守閣は長く存続しませんでした。
焼失の経緯: 寛延3年(1750年)に、落雷が原因で出火し、天守閣は焼失してしまいました。
再建されず: 幕府は天守を再建することなく、そのままとなり、現在も石垣である**天守台(てんしゅだい)**のみが残されています。
現在、二条城の本丸の石垣の上に立って京都市内を一望できる場所が、この旧天守台のあった場所です。
二条城にまつわる徳川家と朝廷(皇室)の婚姻関係で最も重要かつ有名なのは、二条城の大改修の直接的な理由ともなった、**徳川秀忠の娘・和子(まさこ)の後水尾天皇への入内(じゅだい)**です。
これは、徳川家が武力だけでなく、血縁を通じて皇室との結びつきを強化し、その権威を確立しようとした最大の政治戦略でした。
👸 和子(まさこ)入内と二条城
1. 婚姻の概要
| 項目 | 詳細 |
| 娘 | 徳川和子(とくがわ まさこ) (2代将軍 徳川秀忠と、妻・お江与の娘) |
| 相手 | 後水尾天皇(ごみずのおてんのう) (第108代天皇) |
| 入内時期 | 元和6年(1620年) |
| 結果 | 和子は中宮(皇后)となり、明正(めいしょう)天皇を産む。 |
2. 徳川の政治的な意図
この婚姻は、単なる縁組みではなく、徳川家による朝廷支配を確実にするための重要な一手でした。
権威の強化: 皇室に将軍の娘を入れることで、徳川家は**「天皇家との親戚」**という比類ない地位を獲得しました。これにより、全国の大名に対して徳川家の権威をより強固に示しました。
朝廷の監視: 婚姻を通じて皇室内部に影響力を及ぼし、朝廷の政治的な動きを抑制する意図がありました。
🏰 婚姻が二条城に与えた影響
和子入内の成功から6年後の寛永3年(1626年)、3代将軍の徳川家光は、二条城に後水尾天皇と中宮和子を迎える**「行幸(ぎょうこう)」**を敢行しました。
大規模改修の理由: この行幸を迎えるにあたり、二条城の格式を天皇を迎え入れるにふさわしい豪華絢爛な宮殿へと改める必要がありました。
結果: 家光は二条城を大規模に増改築し、現在の二の丸御殿に見られるような豪華な桃山文化の粋を集めた装飾や壮麗な建築が施されました。これは、徳川の財力と権力を天皇に見せつける意味合いも持っていました。
この和子の入内とそれに続く天皇の行幸は、徳川幕府の権力確立のピークを示す出来事であり、二条城はその政治的権威の象徴としてその役割を果たしました。
**大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸幕府の最後の将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)**が、政権を朝廷(天皇)に返上することを表明した、日本の歴史における極めて重要な出来事です。
天皇行幸(てんのうぎょうこう)
天皇行幸(てんのうぎょうこう)とは、天皇が御所(皇居)から外出することを指します。特に江戸時代初期に行われた**後水尾天皇の二条城行幸(1626年)**は、単なる移動ではなく、当時の京都全体に大きな影響を与えた空前の大イベントでした。
この行幸は、徳川幕府がその権威を最大限に誇示するために、莫大な資金と労力を投入して実施されました。
💰 経済的な影響:巨大な特需と景気刺激
行幸は、京都の町に一時的ではありますが、非常に大きな経済効果をもたらしました。
1. 建設・装飾ブーム
二条城の大改修: 天皇を迎えるにふさわしい城にするため、二条城は大規模に増改築され、豪華な障壁画や彫刻が施されました。これに伴い、京都中の大工、左官、彫刻師、絵師など、あらゆる職人に大量の仕事が発注されました。
御所・公家屋敷の修繕: 行幸のルート沿いにある御所や公家(くげ)の屋敷も、体裁を整えるために修繕・新築が行われました。
2. 物資と人的サービスの需要増
消費の活発化: 徳川幕府や諸大名が京に集結したため、彼らの滞在期間中の食料、衣類、調度品などの需要が爆発的に増加しました。
雇用創出: 警備、接待、雑用などに大量の臨時労働者が雇用されました。これにより、京都の商工業やサービス業は一時的に大きく潤いました。
👥 社会的・文化的影響:権威の誇示と再評価
経済的な側面だけでなく、人々の意識や文化にも影響を与えました。
1. 徳川の権威の浸透
権力の視覚化: 絢爛豪華に装飾された二条城と、整然と行われる厳粛な儀式は、徳川家の圧倒的な財力と支配力を、京都の住民や全国の大名たちに視覚的に強く印象づけました。
祭り的な熱狂: 厳重な警備は敷かれましたが、普段見ることのできない将軍や天皇の行列を一目見ようと、沿道には多くの見物人が集まり、町は一種の祭り的な熱狂に包まれました。
2. 伝統文化の再評価
芸能の披露: 行幸の際、天皇を慰めるために、二条城内で**能楽や狂言、蹴鞠(けまり)**など、朝廷ゆかりの伝統的な芸能や行事が盛大に披露されました。
文化的な復興: この豪華な行事が、一時衰退していた公家文化や伝統芸能の技術継承や再評価を促すきっかけとなり、京都の文化的な地位を再認識させる効果もありました。
大政奉還により、260年以上にわたる江戸時代と徳川幕府の支配が終焉を迎え、明治時代への大きな転換点となりました。
🇯🇵 大政奉還の概要
1. 内容と時期
| 項目 | 詳細 |
| 内容 | 徳川家が260年以上にわたって担ってきた政治上の支配権を、日本の本来の統治者である**天皇(朝廷)**に返上すること。 |
| 時期 | 慶応3年10月14日(1867年11月9日) |
| 実施者 | 第15代将軍 徳川慶喜 |
| 背景 | 欧米列強の圧力が高まり、国内では倒幕の機運(薩摩藩・長州藩など)が高まっていた時期。慶喜は、武力討伐される前に自発的に政権を返すことで、徳川家が新政府においても影響力を残そうという狙いがあったとされる。 |
2. その後の展開
大政奉還の表明後、徳川家は依然として強大な勢力と財力を持っていたため、新政府側の不満は解消されませんでした。これにより、王政復古の大号令(幕府や摂関政治の廃止)が発せられ、最終的に翌年の鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)へと発展しました。
🏯 二条城の役割
大政奉還において、二条城は歴史的な宣言の場として極めて重要な役割を果たしました。
1. 宣言の場所
大政奉還の意思は、将軍・徳川慶喜によって京都の二条城で正式に表明されました。
場所: 二の丸御殿の大広間(おおひろま)
経緯: 慶喜は、大広間に老中(ろうじゅう)や諸藩の重臣を集め、彼らを前にして政権奉還の意見書を読み上げました。これにより、徳川幕府の終わりが公的に宣言されました。
2. 象徴的な意義
二条城は、徳川家にとって非常に象徴的な城です。
始まりの城: 1603年に初代将軍の徳川家康が二条城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府が公式に始まった場所です。
終わりの城: そして、260年以上後の1867年に、最後の将軍である徳川慶喜が政権返上を表明し、江戸幕府が幕を閉じた場所となりました。
二条城は、まさに**「徳川幕府の栄枯盛衰の始まりと終わりを見届けた場所」**として、歴史にその名を刻んでいます。
『ブラタモリ』タモリが江戸時代の始まりと終えんを見届けた“歴史の証人”二条城へ
— TVLIFE(テレビライフ公式) (@tv_life) November 21, 2025
「徳川の大変なたくらみがありました」
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