行ってみたいな大須演芸場😎ブラタモリ 名古屋・大須▼徳川の町づくり・なぜ“元気すぎる商店街”に?
行ってみたいな大須演芸場
こんにちは
猫好き父さんです
大須って面白そうな
ところですねえ
ブラ名古屋・大須
旅の舞台は名古屋・大須。8つの商店街を中心に1200もの店が集まる名古屋屈指の人気エリアへ!徳川家康の町づくりの秘密を探る。町のシンボル、大須観音に残る国宝・現存最古の古事記。その年代はどうやって特定された?タモリ初めての大須演芸場。若き日のたけし・さんまも上がった舞台で伝説のネタを披露!江戸時代、町に賑わいをもたらした仕掛け人、尾張藩主・徳川宗春の人物像に迫るべく、タモリがド派手な衣装を着用!?
出演者
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
【芸人・タモリを見る夜】
— NHK PR (@NHK_PR) July 17, 2026
今回の #ブラタモリ 名古屋・大須です。
8つの商店街を中心に、1200もの店が集まる名古屋屈指の人気エリアへ。
そして大須といえば、演芸場。
タモリさん、舞台に立ちます。
18(土)夜7:30[総合]https://t.co/ETsL2kAgxd
▼伝説のネタ 披露します▼ pic.twitter.com/D89FNxthpJ
名古屋・大須
名古屋市中区にあるは、歴史ある門前町としての顔、日本屈指の電気街・サブカルチャーの聖地としての顔、そして多国籍なグルメが集まる「ごった煮」の街として、老若男女や国内外の観光客を惹きつける名古屋屈指の活気あるエリアです。
大須観音(寶生院)や万松寺などの古刹を中心に広大な商店街が形成されており、独自の進化を遂げてきたこの街の魅力と特徴をご紹介します。
大須の4つの大きな特徴
何でもありの「ごった煮」カルチャー
伝統的な和菓子店や古着屋のすぐ隣に、メイドカフェやパソコンショップ、海外のストリートフード店が並ぶなど、異なる文化が不思議と調和しています。東京で例えるなら「浅草、秋葉原、原宿、新大久保をギュッと凝縮して一つにまとめたような街」と評されます。
日本一元気な「大須商店街」
大須通、若宮大通、伏見通、南大津通に囲まれたエリアの中に、多くのアーケード商店街(大須観音通、万松寺通、東仁王門通など)が格子状に広がっています。約1,200もの店舗や施設がひしめき合っており、雨の日でも快適に散策や買い物を楽しめます。
名古屋を代表する「食べ歩き天国」
全国的にも有名な食べ歩きカルチャーの発信地です。名古屋名物のういろうや、昔ながらの「みたらし団子」はもちろん、大きな台湾唐揚げ、韓国スイーツ、本格的なナポリピッツァなど、世界各国の最先端のグルメを手軽につまみ食いしながら巡ることができます。
オタク文化・サブカルチャーの聖地
1970〜80年代に電気街として発展した歴史から、現在もアメ横ビルを中心に電子部品やパソコンショップが充実しています。さらに、アニメグッズ、フィギュア、カードショップ、メイドカフェなども集積しており、世界コスプレサミット(WCS)の発祥の地・メイン会場としても世界的に有名です。
主要な観光スポット
大須観音(寶生院)
大須の街のシンボルであり、西側の玄関口です。徳川家康の命によって岐阜からこの地に移転されました。「大須の観音さん」と親しまれ、境内はいつも多くの参拝客や鳩で賑わっています。毎月18日・28日に開かれる骨董市には多くの露店が立ち並びます。
万松寺(織田信秀墓所)
織田信長の父・信秀の菩提寺として知られる、商店街の東側(万松寺通)にあるお寺です。信長が父の葬儀の際に抹香を投げつけたという歴史的なエピソードの舞台でもあります。現在は非常に近代的なビル型のお寺となっており、白い龍のオブジェから水や霧が吹き出す大迫力のからくり演出や、光り輝く万灯霊廟など見どころ満載です。
大須を訪れる際のおすすめルート&ヒント
アクセス:
地下鉄鶴舞線「大須観音駅」または名城線・鶴舞線「上品津駅(かみまえづえき)」が最寄りです。大須観音駅からスタートして、アーケードを東に向かって上前津駅方面へ通り抜けるルートが定番で迷いません。
散策の時間帯:
商店街の多くのお店は午前11:00頃からオープンし、夜20:00頃には閉まる店が多いため、食べ歩きや買い物を満喫するならお昼前から夕方にかけての時間帯に訪れるのがベストです。
歴史探訪から最新トレンドのショッピング、多国籍グルメまで、1日中歩いても飽きないエネルギッシュな魅力が詰まっています。
清洲越し(きよすごし)
徳川家康が大須の街をどのように整備していったのか、その歴史は名古屋という巨大都市の誕生、そして有名な「清洲越し(きよすごし)」と深く結びついています。
家康公が大須を整備した最大の目的は、「名古屋城下を水害から守る防波堤(結界)とすること」、そして「新しい街に住む人々の心の拠りどころを作ること」でした。その具体的な整備のプロセスを紐解いていきましょう。
1. 壮大な都市移転計画「清洲越し」と大須の誕生
1609年(慶長14年)、徳川家康は豊臣方への備えと領国の安定のため、それまでの尾張の中心地だった清洲から名古屋へ、街ごと丸ごと引っ越しさせる「清洲越し」を断行しました。
このとき、名古屋城の南側に碁盤の目のような武家地・町人地(現在の丸の内・錦付近の「碁盤割」)が作られますが、そのさらに南側の南端に位置づけられたのが「大須」のエリアでした。
2. 水害から歴史的文化財を守るための「大須観音」移転
当時、現在の岐阜県羽島市大須付近にあった「大須観音(真福寺宝生院)」は、後醍醐天皇ゆかりの由緒正しき寺院であり、国宝の『古事記』写本をはじめとする膨大な貴重書(一万五千巻)を保有する文化の中心地でした。しかし、木曽川の大洪水によって度々水害の危機に瀕していました。
これに目をつけた家康公は、1612年(慶長17年)、貴重な文化的遺産を洪水から守るため、そして水害に強い名古屋台地の南端(日置村)へ大須観音を強制移転させました。これが、現在の名古屋の「大須」という地名の直接のルーツです。
3. 城下町の南を固める「寺町」としての整備
家康公による大須の整備は、単に一つの寺を移しただけではありません。彼は大須観音の周辺に、清洲や他地域から多くの寺院を集中的に移転させ、巨大な「寺町(てらまち)」を形成しました。
これには2つの重要な意図がありました。
軍事的な防衛線(出城の役割):
万が一、南側(熱田方面)から敵が攻めてきた際、強固な石垣や広い境内を持つ寺院群は、城下町を守る実質的な「砦(とりいで)」として機能するよう配置されました。
織田家の影響力を抑える:
織田信長の父・信秀の菩提寺である「万松寺(ばんしょうじ)」も、このとき家康の命によって大須の地(現在の万松寺通)へと移転させられています。織田家ゆかりの寺社を自らの統制下に置き、城下の区割りの中に組み込みました。
4. 「心の拠りどころ」がもたらした門前町の発展
住み慣れた清洲の土地を離れ、廃墟のようだった名古屋台地へ移住させられた約6万人の領民たちは、当初大きな不安を抱えていました。
家康公は、熱心な信仰を集めていた大須観音を新都市の象徴として据えることで、「ここに参れば安心だ」という住民の精神的支柱(心の拠りどころ)を作ろうとしたのです。
この狙いは見事に当たり、大須観音や万松寺の周辺には参拝客を目当てにした宿場、茶屋、芝居小屋などの娯楽施設がまたたく間に集まりました。家康公が意図した「信仰と防衛の拠点」は、江戸時代を通じて尾張随一の歓楽街・門前町へと発展し、それが形を変えて現在の「何でもありのごった煮カルチャー」が息づく大須商店街へと繋がっています。
国宝・大須観音本(真福寺本)古事記
大須観音(宝生院)に所蔵され、現在「国宝・大須観音本(真福寺本)古事記」と呼ばれている写本が、なぜ『古事記』の現存最古の写本であると証明されたのか。
その理由は、大須観音の奥深くで何百年も守られてきたこの写本に、「誰が、いつ、どこで書き写したか」が明確に記録されていたからです。
発見から最古と証明されるまでのドラマチックな経緯をご紹介します。
1. 奇跡の発見:誰も中身を知らなかった「開かずの経蔵」
江戸時代まで、大須観音には膨大な古典や仏典が収められた「真福寺大須文庫(経蔵)」がありましたが、基本的には一般の立ち入りや調査は禁止されており、何が眠っているのか全貌は誰も知りませんでした。
事態が動いたのは明治時代です。
明治23年(1890年)、日本の古典文学研究の第一人者であった上田萬年(うえだかずとし)などの専門家チームが、大須観音の許可を得て初めて本格的な文庫の学術調査を行いました。
その際、山積みの仏典の底から、古びた3冊の冊子(上・中・下巻)が発見されます。それこそが、長年歴史の表舞台から消えていた『古事記』の写本でした。
2. なぜ「一番古い」と分かったのか?
調査団がこの写本を精査したところ、決定的な証拠が見つかりました。巻末に書き込まれていた「奥書(おくがき:今でいう編集後記のようなメモ)」です。
そこには、次のような驚くべき事実が明記されていました。
いつ: 南朝の「応安4年(1371年)」
誰が: 真福寺の僧侶である「賢瑜(けんゆ)」という人物が
どこで: 尾張国中島郡の大須(現在の岐阜県羽島市大須)の地で、当時の貴重な古典をもとに書き写した
それまで世の中に知られていた『古事記』の写本は、ほとんどが江戸時代以降に写されたものばかりでした。しかし、この大須観音本には「1371年(室町時代初期)」という明確な日付と署名があり、他のどの写本よりもはるかに古い時代(『古事記』が完成した712年から約660年後)に作られたものであることが客観的に証明されたのです。
3. なぜ「国宝」なのか?(学術的な価値)
単に「古いから」だけではなく、この写本には日本の歴史をひっくり返すほどの学術的価値がありました。
オリジナルの姿を最も色濃く残している
『古事記』の神話や歴史の文章は、独特な変体漢文(日本語の語順で書かれた漢文)で書かれています。後世の写本になればなるほど、書き手の勘違いや修正が入ってしまいますが、大須観音本は最古の写本であるため、奈良時代のオリジナル(天武天皇や太安万侶が編纂した当時の文体)に最も近いとされています。
「訓読み」のヒントが残されていた
賢瑜は写本を作る際、漢字の横に小さな文字で「読み方(音訓)」や注釈を熱心に書き残していました。これにより、奈良時代の人々がその漢字をどう発音していたのかを知るための第一級の資料となりました。
徳川家康がこの宝を守った
前述の通り、徳川家康が慶長17年(1612年)に大須観音を岐阜から名古屋へ移転させた最大の理由は、「この賢瑜が残した最古の古事記をはじめとする国宝級の書物を、木曽川の水害から絶対に守るため」でした。
もし家康が名古屋への移転・整備を行っていなければ、この日本最古の『古事記』は明治時代に発見される前に、洪水で跡形もなく流されていたかもしれません。家康の先見の明と、大須の地でそれを守り続けた人々の努力によって、私たちは今も日本のルーツを知る最高の宝物を見ることができるのです。
大須演芸場(おおすえんげいじょう)は、名古屋市中区大須にある、東海地方で唯一の落語や漫才などの「常設寄席(よせ)」です。
大須商店街の路地裏に佇むこの演芸場は、多くのスター芸人を輩出してきた輝かしい歴史を持つ一方、度重なる経営危機や閉館を乗り越えてきた、全国の演芸ファンの間でも伝説的なスポットです。
1. 大須演芸場の歴史と「数々の伝説」
160年以上の歴史を持つ大須の芝居小屋文化の流れを汲み、1965年(昭和40年)に開場しました。東京(浅草や新宿など)や大阪(吉本や松竹など)とは異なる、名古屋独自の笑いの拠点としてスタートします。
若き日のスターたちがしのぎを削った場所
まだ無名だった頃の芸人たちが、東京や大阪から「武者修行」のようにここの舞台に立ちました。
明石家さんまさん、タモリさん、ビートたけしさん(ツービート)、志村けんさん、笑福亭鶴瓶さんなど、現在の大御所たちが若手時代に汗を流した歴史があります。
特にタオス演芸場を愛した東京の古今亭志ん朝師匠や、落語界の巨匠たちも数多く客演しました。
「伝説の足裏」と破天荒な名物元席亭
大須演芸場を語る上で外せないのが、長年ここを守り続けた名物席亭(支配人)の故・足立秀夫氏です。
経営がどんなに苦しく、観客が「1人だけ(芸人の方が多い状態)」になっても絶対に休館せず、家財を投げ打って興行を続けました。「家賃滞納による強制執行での閉館」など数々のドラマがあり、その破天荒な歴史は小説や映画のモデルにもなりました。
2. 奇跡の復活と現在のシステム
2014年に一度は完全閉館し、建物も取り壊しの危機に瀕しましたが、地元の有志や企業の熱い支援、そして芸人たちの声によって2015年に「奇跡の再オープン(リニューアル)」を果たしました。
現在は外観のレトロな風情を残しつつ、内装は非常に綺麗で快適な空間に生まれ変わっています(客席数:179席)。
定番の「定席(じょうせき)寄席」
毎月1日〜7日を「定席(本興行)」として開催しています。
落語(東西の落語家が登場)だけでなく、漫才、マジック、漫談、日本の伝統芸(曲独楽や紙切りなど)が次々と登場し、初心者でも飽きずに1日中笑えるプログラムになっています。
貸し小屋としての多彩なイベント
8日以降はイベントスペースとして貸し出されており、落語の独演会はもちろん、前述した女性チンドングループ「べんてんや」の定期公演、地元アイドルのライブ、演劇など、大須の多様なカルチャーの発信地として活用されています。
3. 初めて大須演芸場へ行く方へのヒント
飲食持ち込みが「粋」な文化:
多くの劇場は飲食禁止ですが、大須演芸場(特に定席や一部のイベント)は「飲食の持ち込みが自由」です。商店街で名古屋名物の天むすや唐揚げ、お弁当、そしてお酒などを買い込んで、飲み食いしながら気楽に鑑賞するのが大須流の最高の楽しみ方です。
距離がとにかく近い:
1階席・2階席ともに舞台との距離が非常に近く、芸人さんの息遣いや表情がダイレクトに伝わります。演者とお客さんが一体になる、独特の温かい空気感が魅力です。
大須が誇る「庶民の笑いの殿堂」は、今も変わらず街に笑顔を届け続けています。
徳川宗春(とくがわ むねはる)
徳川宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期に活躍した尾張藩の第7代藩主です。
一言で言うと、「江戸時代屈指のスーパー異端児であり、名古屋を一大エンターテインメント都市へと変貌させた稀代のプロデューサー」です。
当時の将軍・徳川吉宗が推し進めた「享保の改革(徹底的な緊縮財政)」に対して、「積極財政と規制緩和」という真逆の政策で真っ向から挑み、現代に続く名古屋の「芸どころ」「大須の繁栄」の礎を築きました。彼のドラマチックな生涯と功績をご紹介します。
1. 将軍・吉宗へのカウンター:「規制緩和」による積極財政
8代将軍・徳川吉宗が「質素倹約」を掲げ、お祭りや芝居を禁止して日本中をどんよりとした自粛ムードに陥れていた時代、1730年に尾張藩主となった宗春は、正反対のポリシーを打ち出しました。
「倹約ばかりでは人の心が萎縮し、経済が回らなくなる。今こそ遊興や祭りを奨励し、お金を流通させるべきだ」
宗春は藩主就任早々、次のような大胆な政策(現代でいう経済特区や規制緩和)を実行します。
遊郭や芝居小屋の公認: 江戸で禁止された芝居や祭りを尾張で大々的に許可しました。
夜間営業の解禁: 当時としては画期的な「夜間営業」を認め、街に灯りをともしました。
お祭りの奨励: 東照宮祭などの祭礼を豪華絢爛に行わせ、消費を刺激しました。
この結果、全国から役者、職人、商人が「自由の街・名古屋」へと大集結。他国が不況にあえぐ中、尾張だけが空前の大好景気に沸き、「名高い名古屋は城でもつ、これ(宗春)ほど栄える(東海道の)宿はない」とまで謳われる黄金期を迎えました。
2. 大須を「一大歓楽街」へ押し上げる
家康公がベースを築いた「大須の寺町」が、現在のようなエンタメと商業の街へ大爆発する決定打となったのも、この宗春の政策です。
宗春は、大須観音のすぐ近くに「富士見原(ふじみはら)の遊郭」を設置し、さらに多くの芝居小屋や見世物小屋を大須に集約させました。 神社仏閣への参拝客(観光客)が、そのまま芝居や飲食、買い物を楽しんでお金を落としていくという「一大アミューズメントパーク」としてのシステムを完成させたのです。これが、のちの大須演芸場や、何でもありの大須商店街のDNAへとダイレクトに繋がっています。
3. ド派手すぎる「ファッションリーダー」
宗春はポリシーを自ら体現するため、自身のファッションも超ド派手でした。
長さ2メートルを超える巨大なキセルを燻らせる。
全身真っ赤な衣装(時には黒のシックなベルベット)を身にまとう。
名古屋の街を、白馬(または白牛)に乗ってパレードする。
将軍・吉宗が地味な着物で倹約をアピールする中、宗春はあえて「富の象徴」としてリーダーが輝く姿を見せることで、民衆を元気づけ、消費マインドを盛り上げようとしたのです。
4. 早すぎた天才の悲しい結末と、現代の再評価
しかし、幕府の最高権力者である吉宗に刃向かい続けた代償は大きなものでした。
1739年、幕府から目をつけられた宗春は、ついに藩主の座を強制的に引退(隠居・謹慎)させられます。その後、25年もの長きにわたり、名古屋城の下屋敷で厳しい監視のもと自由を奪われ、不遇のまま生涯を閉じました。
長年、歴史上では「国を傾けかけた暗君(バカ殿)」として扱われることもありましたが、現代の経済学や都市開発の視点からは評価が大逆転しています。
「デフレ期の緊縮財政は経済を殺す。適切なインフレと消費拡大こそが正解である」という現代マクロ経済学を200年も先取りしていた天才。
ものづくりだけでなく、文化・芸能をリスペクトする「芸どころ名古屋」のアイデンティティを作った恩人。
近年では、名古屋の街を救ったヒーローとして大河ドラマの誘致運動が起こるほど、地元で絶大な人気を誇っています。





















