何杯飲んでも200円ってどういうこと?😎ブラタモリ 東京・赤羽▼都内で大人気!せんべろの町・赤羽はどうできた?
何杯飲んでも200円ってどういうこと?
こんにちは
猫好き父さんです
せんべろ
200円で何杯も飲めるってこと?
一杯の価格がずっと200円ってこと?
こりゃ
赤羽に行って確かめるしかないか!
ブラ赤羽
新宿まで電車で15分!都心へのアクセスも抜群の赤羽は、“千円でベロベロに酔える”=“せんべろ”の町としても大人気!そんな赤羽の町はどう発展したのか、その秘密に迫ります。戦国時代の城跡で、町の東西でまったく違う地形に注目。さらに、鉄道が赤羽を大きく変えていったことを物語る線路跡を発見。懐かしい昭和の団地・スターハウスに入り、タモリ大興奮!焼け跡からの復興を願って生まれた商店街が今の賑わいにつながる―
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
せんべろ
「せんべろ」とは、**「1,000円でべろべろに酔える」**ような、格安で楽しめる居酒屋やその飲み方のスタイルを指す言葉です。
もともとは作家の中島らも氏が使い始めた造語と言われていますが、今では一つの食文化として定着しています。
1. せんべろの「定義」と魅力
厳密に「1,000円以内」というルールがあるわけではありませんが、一般的には以下のような構成を指します。
基本の構成: お酒2〜3杯 + おつまみ1〜2品。
魅力: 圧倒的なコストパフォーマンスはもちろんですが、隣の人と肩が触れ合うような距離感や、飾らない「昭和レトロ」な雰囲気を楽しむ体験そのものに価値があります。
2. せんべろの聖地(東京・大阪)
「せんべろ」が密集し、文化として根付いているエリアがあります。
東京・立石(たていし): 「せんべろの聖地」の筆頭。昼から飲める名店が多く、ルール(撮影禁止や長居禁止など)がある店も多い、通好みの街です。
東京・赤羽(あかばね): 「朝飲み」の文化があり、駅前の商店街には1,000円で十分満足できる店が並びます。
大阪・新世界・西成: 串カツやホルモンを片手に、立ち飲みスタイルで安く飲む文化が古くから根付いています。
3. 進化する「現代のせんべろ」
最近では、古くからの立ち飲み屋だけでなく、新しい形も増えています。
せんべろセット: 多くの居酒屋が「お好きなドリンク3杯+おまかせ小鉢」で1,100円(税込)といった、明確な「せんべろ専用メニュー」を打ち出すようになりました。
コイン・サイコロ制: 1,000円を払うとコイン4枚を受け取り、ドリンクは1枚、豪華なおつまみは2枚…といった具合に、ゲーム感覚で楽しめる店も人気です。
4. せんべろを楽しむための「マナー」
安く提供し続けるお店への敬意として、暗黙のルールがあります。
長居しすぎない: 回転率で利益を出しているため、飲み終わったらサッと次へ行くのが粋です。
「千円札」を用意しておく: 立ち飲み屋などでは、カウンターのザルに千円札を入れておく「キャッシュオン」形式の店も多いです。
せんべろの聖地赤羽
赤羽が「せんべろの聖地」として、そして魅力的な住宅街として今の地位を築く背景には、**「軍都」「闇市」「団地」**という3つのキーワードが深く関わっています。
なぜあれほどまでに昼から飲める店が多いのか、その発展の歴史を紐解きます。
1. 「軍都」としての顔:労働者の胃袋を支える
明治時代以降、赤羽には旧陸軍の施設(被服本廠や火薬庫など)が次々と建設されました。
背景: 荒川の舟運や鉄道(現在の宇都宮線・高崎線)の利便性が高かったため、兵站の拠点となったのです。
影響: 多くの軍関係者や工場の労働者が集まり、彼らの仕事終わりに安く早く提供できる**「立ち飲み・居酒屋」の原型**がこの時期に作られました。
2. 「闇市」から続く商店街:戦後の活力
終戦後、赤羽駅前には大規模な闇市が形成されました。これが現在の「一番街」や「すずらん通り」などの賑やかな商店街のルーツです。
独特の活気: 焼け野原から立ち上がるためのエネルギーが集まった場所であり、法規制が緩かった時代からの名残で「朝から営業する店」が定着しました。
伝統の継承: 1950年代創業の「まるます家」や「いこい」といった名店が、当時の空気感を守り続け、それが今の「せんべろ」ファンを惹きつけるレトロな魅力となっています。
3. 「マンモス団地」の誕生:ベッドタウンへの変貌
1960年代、日本初の本格的なマンモス公団住宅として**「赤羽台団地」**が誕生しました。
人口爆発: これにより「昼は労働者の街、夜はサラリーマンの街」という二面性が生まれます。
駅の要衝化: 赤羽駅は埼京線の開通(1985年)や湘南新宿ラインの停車により、東京の北の玄関口として爆発的に便利になりました。
4. なぜ「せんべろ」として再注目されたのか?
2010年代以降、漫画『東京都北区赤羽』のヒットやメディアの特集により、赤羽の「ディープな飲み屋文化」が再発見されました。
「安さ」の正義: バブル崩壊後のデフレ期を経て、若者や女性層にも「安くて旨くて人情がある」せんべろスタイルが受け入れられました。
多様性: 昔ながらの「もつ焼き」だけでなく、最近ではイタリアンやタイ料理のせんべろ店も増え、多世代が混ざり合う独特のコミュニティが形成されています。
💡 結論:変化を拒まない「懐の深さ」
赤羽の発展は、**「時代に合わせて姿を変えつつ、根底にある『安くて活気がある』というアイデンティティを捨てなかった」**結果と言えます。
赤羽駅誕生
赤羽駅が誕生した背景には、日本の近代化を支えた**「南北を結ぶ大動脈の構築」と、軍事的な拠点としての「戦略的な立地」**が深く関わっています。
赤羽駅がなぜ、あのような場所に作られたのか、3つの大きな理由に分けて解説します。
1. 「日本初の私鉄」による大動脈の建設
赤羽駅は1885年(明治18年)に開業しました。これを作ったのは、当時の日本最大の私鉄である**「日本鉄道」**です。
南北の接続点: 当時、日本鉄道は「上野〜熊谷(現在の高崎線方面)」をすでに開通させていました。次に、品川方面から伸びてくる官設鉄道(国鉄)とつなぐために「品川〜赤羽」の路線(現在の山手線の西側、埼京線ルートの一部)を建設しました。
分岐点としての宿命: この「品川からの線」と「上野からの線」が合流する地点として選ばれたのが赤羽でした。つまり、当初から**「交通の結節点(ハブ)」**となるべくして作られた駅なのです。
2. 「荒川」を越える手前の要所
地形的な理由も非常に大きいです。
最大の難所: 北へ向かう鉄道にとって、巨大な「荒川」を越えることは最大の難工事でした。
足場としての赤羽: 荒川を渡るための巨大な鉄橋を架ける手前の、地盤が比較的安定した高台(赤羽台)のふもとが、駅を設置するのに最適な場所でした。ここを拠点にして、北関東・東北へと線路を伸ばしていったのです。
3. 「軍都」としての物流拠点
前回の回答でも触れましたが、赤羽周辺には広大な土地があり、水運(荒川・新河岸川)と陸運(日光街道・岩槻街道)が交差していました。
兵站(ロジスティクス)の最適地: 陸軍は、この交通の便が良い赤羽を「兵器や被服の製造・貯蔵の拠点」に指定しました。
専用線の敷設: 赤羽駅から軍の施設へと伸びる引き込み線が次々と作られ、膨大な物資や兵員を輸送するための「軍事駅」としての性格が強まっていきました。
💡 結論:偶然ではなく「必然」の場所
赤羽駅は、**「川を越えるための準備地点」であり、「東京をぐるりと回る線路の合流点」であり、さらに「軍事的な物流センター」**であったという、3重の役割を持って誕生しました。
この「多くの人が集まり、物資が動く」という駅の成り立ちがあったからこそ、戦後の闇市から今の「せんべろ」の活気へとつながる、力強い商業文化が育まれたのです。
稲付城(いなつけじょう)
赤羽の歴史を語る上で欠かせない「軍都」としてのルーツをさらに遡ると、戦国時代の重要な拠点である**稲付城(いなつけじょう)**に突き当たります。
現在の赤羽駅西口からほど近い、静かな高台(静勝寺の境内)にかつて存在したこの城について解説します。
1. 築城者は「江戸城」を作ったあの有名人
稲付城を築いたのは、室町時代後期の武将・**太田道灌(おおた どうかん)**と伝えられています。
江戸城の出城: 太田道灌が本拠地とした江戸城と、岩槻城(埼玉県)を結ぶ中継地点として、15世紀後半に築かれました。
戦略的立地: 以前お話しした赤羽駅の設立理由と同様、ここも**「交通の要所」**でした。眼下には奥州街道(岩槻街道)が走り、荒川を一望できる高台(赤羽台)の端に位置していたため、敵の動きを監視するのに最適な「物見の城」だったのです。
2. 城の構造と特徴
現在は「静勝寺(じょうしょうじ)」というお寺になっていますが、地形をよく見るとかつての城の名残がわかります。
要害の地: 三方を崖や険しい斜面に囲まれた天然の要塞でした。
遺構: お寺の境内には、道灌が勧請したとされる「赤羽八幡神社」とのつながりや、当時の土塁(土を盛り上げた壁)の一部が残っていると言われています。
3. 戦国時代の終焉と「静勝寺」
道灌が暗殺された後、この地は太田氏の支配から離れ、後北条氏の勢力下に入ります。その後、江戸時代に入ると城としての役割を終えました。
道灌を祀る寺へ: 17世紀、道灌の子孫がこの地に静勝寺を建立しました。現在、本堂の隣にある「道灌堂」には、太田道灌の座像が安置されており、都の指定有形文化財になっています。
4. 現代の「赤羽」とのつながり
稲付城があった高台は、現在では「赤羽台」と呼ばれ、先ほどお話しした**日本初のマンモス公団住宅(赤羽台団地)**が広がっています。
「軍都」への布石: 明治以降、この城跡周辺の広大な高台が陸軍の施設として転用されたのは、道灌が目をつけた「見晴らしが良く、交通を掌握できる」という地政学的なメリットが、数百年の時を経ても変わらなかったからです。
💡 結論
「赤羽=せんべろの町」というイメージが定着していますが、そのルーツを辿れば、太田道灌が築いた**「武の拠点」**に行き着きます。
赤羽の歴史、そして「稲付城」跡地に建てられた「赤羽台団地」の話から繋がるとても興味深いトピックですね。
スターハウス
**「スターハウス」**は、日本の高度経済成長期の象徴ともいえる、非常にユニークな形の集合住宅です。
1. スターハウスとは?
スターハウス(星型住宅)は、上から見ると「Y字型」をしているポイントハウス(塔状住宅)の一種です。正式には**「Y字型ポイントハウス」**と呼ばれます。
1950年代から60年代にかけて、日本住宅公団(現在のUR都市機構)によって全国のマンモス団地に建設されました。
2. なぜ「星型」にする必要があったのか?
当時、一般的な団地は「板状住棟(長方形)」が平行に並ぶ形でしたが、あえて複雑なY字型にしたのには、3つの明確な理由がありました。
全方位の採光と通風:
Y字型にすることで、全ての住戸が角部屋になります。3方向に窓を作れるため、日当たりが良く、風が通り抜ける快適な住環境が実現しました。
景観のアクセント:
同じ形の長い建物が並ぶと風景が単調になります。そこに背の高いスターハウスを点在させることで、団地全体の「ランドマーク」としての役割を持たせました。
デッドスペースの活用:
板状の建物を建てにくい、敷地の角や不整形な場所にも柔軟に配置することができました。
3. 赤羽台団地のスターハウス:日本初の登録有形文化財
特筆すべきは、赤羽駅西口に広がる赤羽台団地(現在のヌーヴェル赤羽台)です。
歴史的価値: 2019年、赤羽台団地に残る4棟のスターハウスを含む住棟群が、団地としては日本で初めて国の登録有形文化財に指定されました。
保存と活用: 建て替えが進む中で、この4棟は「団地文化のレガシー」として保存されています。稲付城という中世の城跡の上に、戦後の近代化の象徴であるスターハウスが共存している点は、赤羽という街の層の深さを物語っています。
4. なぜ姿を消したのか?
これほど魅力的なスターハウスですが、現在は新しく建てられることはありません。
コストと効率: Y字型の構造は建築コストが高く、エレベーターの設置効率も悪いというデメリットがありました。
避難の難しさ: 現代の厳しい防災基準では、よりシンプルな構造が好まれるようになったことも要因の一つです。
💡 結論
スターハウスは、当時の日本人が描いた**「明るくモダンな未来の暮らし」**が形になったものです。
NHK総合「ブラタモリ」、明日のテーマはなんと!東京・赤羽🍶
— 【公式】北区飛鳥山博物館 (@ASUKAYAMA_muse) January 30, 2026
せんべろの町・赤羽は、どうやって個性あふれる町になったのか?当館学芸員のあの方が、タモリさんとともに赤羽をブラブラ歩きます🚶
皆さま、ぜひご覧ください。
【放送予定】1月31日(土)[総合]午後7:30〜 https://t.co/9zFeEeZ71p























