食べてみたい!うなぎのせいろ蒸し😎ブラタモリ 福岡・柳川▼福岡・柳川はなぜ“水郷の町”に?
食べてみたい!うなぎのせいろ蒸し
こんにちは
猫好き父さんです
うなぎのせいろ蒸し
美味しそうでしたね
なんか食べてる途中で
違う話題に行ってしまいましたね
全部食べれたのでしょうか?
そう言えば
鶴瓶の家族に乾杯でも
ブラ柳川
旅の舞台は福岡県の柳川。川下りが大人気!年間120万人が訪れる“水郷の町”はなぜできた?歩いて、そして舟に乗って解き明かす。広大な水路網「掘割」が作られた理由とは?もともと暮らしには不向きだった土地を変えた「土木の神様」の偉業に迫る。水郷で育まれた豊かな文化も体験。名物・ウナギのせいろ蒸しを堪能!まちづくりとウナギの意外な関係とは?じつはタモリゆかりの地・柳川。意外な思い出も明かされる。
出演者
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
【タモリさんのひとこと】
— NHK PR (@NHK_PR) June 26, 2026
「おやじが生まれたところは、いいところです」
27(土)夜7:30からの総合テレビ #ブラタモリ は「福岡・柳川はなぜ“水郷の町”に?」です。主なキーワードは「掘割」「土木の神様」「ウナギのせいろ蒸し」です。
▼見どころを読む▼https://t.co/korTFqS27K
福岡県柳川
福岡県南部、筑後地方に位置するは、街中に張り巡らされた掘割(水路)から「水郷の街」として全国的に知られる歴史ある城下町です。
独特の文化と景観を持つ柳川の魅力をいくつかのポイントに分けてご紹介します。
1. どんこ舟で巡る「柳川川下り」
柳川の象徴といえば、網の目のように流れる掘割を「どんこ舟」と呼ばれる手漕ぎの舟で進む川下りです。
船頭さんが巧みに竿を操りながら、柳川の歴史や唄を披露してくれ、四季折々の風景を水面から見上げることができます。特に新緑の季節の柳や、初夏の花々が水面に映える様子は美しく、日常を忘れるような風情に満ちています。
2. 名物グルメ「うなぎのせいろ蒸し」
柳川を訪れたら外せないのが、江戸時代から続く伝統の「うなぎのせいろ蒸し」です。
タレをまぶしたご飯の上に、香ばしく焼いた蒲焼きと錦糸卵を乗せ、せいろで一気に蒸し上げます。最後までアツアツの状態で楽しむことができ、ふっくらとした肉厚のうなぎと、旨味が染み込んだご飯の組み合わせは格別です。街には多くの老舗うなぎ店が軒を連ねています。
3. 立花宗茂と城下町の歴史
柳川は、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した名将・立花宗茂が治めた「柳川藩」の城下町でもあります。
旧柳川藩主立花家の邸宅であった「御花(おはな)」は、美しい日本庭園「松濤園(しょうとうえん)」や、明治期の洋館、立花家伝来の兜や雛人形などの文化財を見学できる、柳川観光の中心的なスポットとなっています。
4. 詩人・北原白秋の故郷
日本を代表する詩人・童謡作家である北原白秋の出身地でもあります。
生家が記念館として復元されており、彼の作品のルーツとなった水郷・柳川の風景や、幼少期の面影に触れることができます。街のあちこちには白秋の詩碑が建てられており、文学の香りが漂う街歩きも魅力の一つです。
柳川は、舟の上から眺める景観、歴史ある建物、そして絶品のうなぎと、五感で歴史と情緒を味わえる素晴らしい街です。福岡市内(天神)から西鉄電車の特急で約50分とアクセスも良好です。
掘割(ほりわり)
福岡県柳川市に網の目のように張り巡らされている「掘割(ほりわり)」は、人工的に造られた水路です。これが造られた理由(背景)と、その驚くべき総延長距離について詳しく解説します。
1. 柳川の掘割はなぜできたのか?
掘割が造られた理由は、単にお城を守るため(お堀)だけではありません。柳川という土地の地形的な弱点を克服し、人々が豊かに暮らすための「多目的マルチインフラ」として、戦国時代から江戸時代初期(主に田中吉政や立花宗茂などの領主の時代)にかけて大規模に整備されました。
主な理由は以下の4点です。
① 防災(治水と洪水防止)
柳川は筑後川の最下流に位置し、海抜が非常に低い平坦な低湿地(泥炭地)でした。大雨が降るとすぐに水浸しになってしまうため、あらかじめ網の目のような水路を掘って大地の保水力を高め、洪水の水を一時的にストックして効率よく有明海へ流すための排水路として整備されました。
② 利水(生活用水・農業用水の確保)
柳川は海のすぐ近くにあるため、井戸を掘っても塩分を含んだ水(海水)が混じってしまい、飲み水や農業用水の確保が極めて困難な地域でした。
そこで、遠くの筑後川などから真水(淡水)を引き込み、それを街中に張り巡らせた掘割に蓄えることで、日常の飲料水や、広大な干拓地(農地)を潤すための巨大な貯水池としての役割を持たせました。
③ 防衛(城下町の要塞化)
戦国から江戸初期にかけて、柳川城を守るための軍事的な防衛ライン(外堀)としても機能しました。あえて水路を複雑に入り組ませることで、敵が簡単にはお城に攻め込めないような構造にデザインされています。
④ 物流(水上交通網)
道路が未整備だった時代、この掘割は船を使った物資の輸送路(ハイウェイ)でした。米や特産品、生活物資などを運ぶ船が、掘割を通ってお城や各家庭の裏口まで直接行き来していました。
2. 掘割の総延長距離はどれくらい?
柳川の掘割の総延長は、約930キロメートルにも及びます。
この数字がいかに凄まじいか、いくつかの例えで見るとそのスケール感がよく分かります。
本州を縦断するレベル:直線距離にすると、東京から青森(約700km)を優に超え、東京から山口県あたりまで届く長さです。
狭い市域に密集:柳川市の面積(約77平方キロメートル)の中にこれだけの距離が凝縮されているため、文字通り街全体が水の上に浮いているような状態になっています。
まとめ:先人の知恵が生んだ奇跡の水郷
かつては「水はけが悪く、飲み水にも困る住みにくい土地」だった柳川を、先人たちはあえて無数の溝を掘ることで「洪水に強く、水に困らない豊かな城下町」へと変えました。
昭和後期には、生活排水の悪化から一度は「すべて埋め立ててコンクリートのドブにしてしまおう」という計画が持ち上がりましたが、市民や行政の努力によって水質が蘇り、現在の美しい観光資源として守られています。
田中吉政(たなか よしまさ)
田中吉政(たなか よしまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。知名度こそ織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった三英傑に隠れがちですが、実は歴史の大きな転換点で重要な役割を果たし、とりわけ「土木の神様」「超一流の都市計画家」として現代でも非常に高く評価されている人物です。
柳川の掘割網を完成させた彼がどのような生涯を送り、どんな実績を残したのかをご紹介します。
1. 農民から32万石の国主へ上り詰めた「出世頭」
吉政は天文17年(1548年)、近江国(現在の滋賀県)の貧しい農民、あるいは地侍の家に生まれたと言われています。
最初は浅井長政に仕え、浅井氏の滅亡後は織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えました。実力でどんどん頭角を現し、最終的には九州・筑後国(現在の福岡県南部)一円を治める32万5,000石の大大名(初代柳川藩主)にまで大出世を遂げました。
2. 歴史の裏に田中吉政あり(関ヶ原での大功績)
歴史ファンにとって、吉政の最も有名なエピソードといえば「関ヶ原の戦い」での石田三成の捕縛です。
元々は豊臣の家臣(秀吉の甥・豊臣秀次の筆頭家老)だった吉政ですが、関ヶ原では徳川家康の東軍に味方します。戦後、敗走して古郷の近江に隠れていた西軍の大将・石田三成を捕らえる大役を任されたのが吉政でした。
実は三成と吉政は若い頃からの友人同士でした。吉政は捕らえた三成を罪人として冷遇するのではなく、体調を気遣って医師に診せ、好物のニラ粥を差し出すなど、最後まで武士の情けを持って誠実に対応したという温かい逸話が残っています。この三成捕縛の功績により、家康から筑後の領地(柳川)を与えられました。
3. 「土木の神様」としての真骨頂
吉政の本領は、戦場よりも「内政」と「土木事業」にありました。彼は行く先々の領地で、現代の礎となる劇的な都市開発を行っています。
近江八幡(滋賀県):豊臣秀次の宿老時代、城下町の町割(区画整理)を行い、有名な「八幡堀(はちまんぼり)」の開削を主導しました。
岡崎(愛知県):岡崎城主時代、本来は城の外側を通っていた東海道をあえて城下町の中心を通るようにルート変更し、防衛と商業発展を兼ねた「岡崎の27曲がり」というクランク状の街道を整備しました。
そして柳川(福岡県):慶長6年(1601年)に入国すると、水害に悩まされていた有明海沿岸の低湿地帯を救うため、大規模な治水・利水工事に着手。これが前述の総延長930キロメートルに及ぶ「掘割網」の大改修です。さらに、有明海の高潮から文字通り命を守るため、総延長約32キロメートルもの防潮堤(慶長本土居)の建設も計画・実行しました。
4. 領民に慕われた名君
吉政は非常に先進的な考え方を持つ領主でもありました。
柳川と久留米を結ぶ直線道路(田中道)を通したほか、当時まだ禁止令が出始めていたキリスト教に対しても寛容で、柳川に天主堂(教会)の用地を寄進するなど、領民の融和と経済の発展を第一に考えました。
慶長14年(1609年)、江戸への参勤交代の途中に京都・伏見で病没(享年62)。筑後を治めたのはわずか8年ほどでしたが、彼が築いた掘割や道路、町割のインフラは400年以上経った現在の柳川の景色そのものとして息づいています。
まさに、戦うことだけでなく「人々の暮らしを豊かにデザインする」ことに命をかけた、戦国屈指の名プロデューサーと言える武将です。
田中吉政の土木通としての手腕やその生涯をさらに分かりやすく解説しているビデオがあります。吉政がどのようにして岡崎から柳川の城主となり、偉大な普請(土木工事)を行ったのかが詳しく描かれています。
この動画では、吉政が赴任したそれぞれの土地で残した河川工事や城造りの具体的な業績を専門家が丹念に追っており、柳川の掘割のルーツをより深く知るのに役立ちます。
立花亭
福岡県柳川市にある「立花亭」は、一般的には旧柳川藩主立花家の邸宅・庭園である「柳川藩主立花邸 御花(おはな)」、あるいはその御花の中にある歴史ある料亭・集宴場のことを指します。
柳川観光の一大中心地であり、明治時代の華族の華やかな暮らしを今に伝える、非常に美しく格調高い名所です。その魅力や見どころを分かりやすくご紹介します。
1. なぜ「御花(おはな)」と呼ばれるのか?
江戸時代の元禄年間(17世紀後半)、五代藩主・立花貞俶(さだよし)が、それまでのお城(柳川城)の代わりに、家族と過ごすための別邸をこの地に建てました。
当時、このあたりは「御花畠(おはなばたけ)」と呼ばれていたことから、柳川の人々から親しみを込めて「御花」と呼ばれるようになり、それがそのまま現在の正式名称になっています。
2. 最大の見どころ
現在の建物の大部分は、明治43年(1910年)に十四代当主・立花寛治(ともはる)伯爵によって整えられたもので、和と洋が見事に融合した贅沢な空間が広がっています。
西洋館(せいようかん)
鹿鳴館時代を彷彿とさせる、白亜の美しい木造2階建ての洋館です。当時は迎賓館として使われており、輸入された豪華なシャンデリアやアンティークな家具が当時のまま残されています。川下りの舟からもこの美しい外観を望むことができます。
大広間(おおひろ間)
西洋館と渡り廊下で繋がっている、100畳敷きの純和風の大広間です。ここからの庭園の眺めは圧巻の一言です。
名勝「松濤園(しょうとうえん)」
大広間の目の前に広がる、国指定名勝の美しい日本庭園です。
柳川の掘割(水路)から水を引き込んだ池の周りに、黒松が美しく配置され、池の中には厳島神社に見立てた石組みなどが配されています。冬には、シベリアから数多くの鴨(カモ)が飛来することでも有名です。
立花家史料館
敷地内にある史料館では、戦国時代の名将・立花宗茂が着用した国宝級の甲冑(鉄皺革包月輪文最上胴具足)や、歴代藩主・姫君たちが愛用した華やかな調度品、お雛様の季節に飾られる柳川伝統の吊るし飾り「さげもん」などを見学できます。
3. 名物グルメと贅沢な宿泊
御花は単なる見学施設ではなく、現在も高級料亭・旅館として営業しています。
伝統のうなぎと有明海の幸
庭園を眺めながら、柳川名物の「うなぎのせいろ蒸し」をはじめ、有明海で獲れる珍しい海の幸を使った本格的な会席料理を堪能できます。
文化財に泊まる贅沢
敷地内には宿泊施設もあり、夜の静まり返った松濤園を眺めながら過ごす時間は格別です。宿泊者限定で、閉館後の静かな西洋館や庭園をゆっくり散策できる特別なプランもあります。
川下りの終着点のすぐ近くに位置しているため、「どんこ舟で掘割を巡り、そのまま御花(立花亭)で庭園を眺めながらうなぎを食べる」というのが、柳川を満喫する最高の王道ルートとなっています。
柳川のうなぎ、特に「せいろ蒸し」は、一度食べたら忘れられない格別の美味しさですよね。
なぜ海に面した柳川でうなぎが名物になったのか、その歴史的背景と、一般的な「かば焼き」や「うな重」との決定的な違いについて詳しく解説します。
1. なぜ柳川でうなぎが名物になったのか?
理由は、柳川の代名詞である「掘割(水路)」と「有明海」の絶妙な地理的条件にあります。
天然うなぎの宝庫だった
柳川の目の前に広がる有明海は、多くの河川から栄養が流れ込む豊かな泥干潟です。さらに、田中吉政たちが造り上げた総延長930キロメートルの掘割は、うなぎが好む「真水と海水が混ざり合う、流れの穏やかな泥底の水路」そのものでした。
かつての掘割や筑後川の河口には、丸々と太った良質な天然うなぎが文字通り溢れるほど生息しており、江戸時代から庶民の手軽なスタミナ源として親しまれていたのです。
藩主お墨付きの産業へ
江戸時代、柳川藩(立花家)は、この豊富なうなぎを貴重な水産資源・特産品として保護・推奨しました。これにより、街中にうなぎの調理技術や専門店がまたたく間に広がり、現代に続く「うなぎの街」としてのブランドが確立されました。
2. 「せいろ蒸し」と「かば焼き(うな重)」の決定的な違い
関東のうな重や関西のかば焼きと、柳川の「せいろ蒸し」は、調理の工程と「ご飯」の扱いがまったく異なります。
| 調理法・特徴 | 柳川の「せいろ蒸し」 | 一般的な「うな重(関西・関東)」 |
| ご飯の状態 | 秘伝のタレをあらかじめ全体にまぶしたご飯。 | 白米の上にうなぎを乗せ、上からタレをかける。 |
| 調理の仕上げ | タレご飯、蒲焼き、錦糸卵を乗せてせいろで一気に蒸し上げる。 | 炭火で焼いた蒲焼きを、そのままご飯の上に乗せる。 |
| 食感と温度 | ご飯もうなぎもふっくらモチモチ。最後までアツアツ。 | うなぎの表面の香ばしさやカリッとした食感が残る。 |
大きな違いは、「最後にもう一度、ご飯ごと蒸す」という点です。
3. 「せいろ蒸し」の3つの魅力
① どこを食べても旨味が染み込んだ「タレご飯」
一般的なうな重は、タレがかかっている場所と白米の場所にムラができますが、せいろ蒸しは職人があらかじめご飯全体にタレを均一に混ぜ合わせます。
これがせいろの蒸気によってお米の芯までしっかりと熱が通り、まるで「うなぎの炊き込みご飯」のような深いコクと一体感が生まれます。
② 箸でスッと切れるほど「ふっくらジューシー」
炭火で香ばしく焼き上げたうなぎを、せいろでもう一度蒸すことで、余分な脂が適度に落ちつつ、身が水分を含んで驚くほど柔らかく、ふっくらと仕上がります。落ちたうなぎの旨味成分(脂)が、下のご飯にじっくり染み込んでいくのも美味しさの秘密です。
③ 伝統の「錦糸卵」との鮮やかな共演
漆塗りの真っ赤なせいろの蓋を開けると、立ち上る湯気とともに、黄金色の錦糸卵が目に飛び込んできます。
この卵の優しい甘みが、濃厚なうなぎのタレの味をまろやかに引き立て、最後まで飽きずに美味しく食べ進められる最高のアクセントになっています。
豆知識:器が四角いのはなぜ?
柳川でせいろ蒸しを頼むと、四角い赤や黒の漆器で出てきます。これは、熱い蒸気が器の中で均一に行き渡り、四隅までしっかりと熱を保つための先人の知恵です。
川下りを楽しんだ後、木造の情緒ある老舗で、せいろの蓋を開ける瞬間のあの香りと高揚感は、柳川ならではの至高の贅沢です。
総延長930キロメートルにおよぶ柳川の掘割は、かつて「すべて埋め立ててコンクリートの下水路にする」という絶滅の危機に瀕していました。
そこから現代の美しい姿へと奇跡の復活を遂げた背景には、昭和の後期、市役所の一職員だった広松伝(ひろまつ つたえ)さんの執念の戦いと、住民を巻き込んだ感動的な再生の物語があります。
1. 高度経済成長期における「掘割の荒廃」
昭和40年代(1970年代前半)、日本が高度経済成長に沸く中、柳川の掘割はかつてない危機を迎えていました。
各家庭に上水道が普及したことで、人々は掘割の水を飲み水として使わなくなり、代わりに家庭からの生活排水がそのまま水路へと流れ込むようになったのです。
ゴミ捨て場と化した水路:水は濁り、ヘドロが堆積し、夏場には凄まじい悪臭を放つ「開かずのドブ」と化してしまいました。
行政の埋め立て計画:1977年、しびれを切らした柳川市は、川下りコースのわずかな一部だけを残し、「他の掘割はすべて埋め立てるか、コンクリートの暗渠(地下下水路)にする」という近代化計画を打ち出しました。
誰もが「時代の流れだから仕方ない」と諦めていた時、市役所内でたった一人、この計画に真っ向から反対したのが、当時係長に昇進したばかりの広松伝さんでした。
2. 広松伝さんによる「奇跡の再生物語」
「水路を埋めれば、柳川は沈没してしまう」
広松さんは市役所の計画に驚愕し、独学で柳川の歴史や地質、科学的なデータを集め始めました。
柳川の地層は「7割の水を含んだ軟弱な泥の地層」です。もし水路を埋めて地下水に頼れば、深刻な地盤沈下が起き、大雨が降れば街が洪水で沈んでしまうことを、広松さんは科学的に証明したのです。
広松さんは当時の古賀杉夫市長に「埋め立て中止」を直談判。市長もその熱意と論理的な代替案に心を動かされ、国の予算がすでに決定していた埋め立て事業を白紙に戻すという、行政としては異例中の異例の英断を下しました。
住民を動かした3つの浄化計画
広松さんは「行政がいくら掃除しても、住民の意識が変わらなければすぐに元に戻る」と確信していました。そこで、自ら2年間で100回以上も住民懇談会を開き、膝を突き合わせて熱く語りかけました。
浚渫(しゅんせつ)による水路の復元:ヘドロを徹底的に取り除き、水の流れを取り戻す。
排水規制と浄化の徹底:汚水を直接流さない仕組みを作る。
市民参加の維持管理体制の復活:行政任せにせず、自分たちの手で堀を守る。
最初は「お前が勝手に埋め立てを止めたせいで、ドブの臭いが消えないじゃないか!」と怒っていた住民たちも、広松さんが自ら泥まみれになって堀を掃除する姿を見て、一人、また一人とクワやスコップを持って水路に飛び込み始めました。
5年かかると思われた約27kmの中心部の泥上げは、市民の凄まじい団結力によって、わずか3年2カ月で完了。掘割には再び清流が戻り、魚が泳ぎ、現在の美しい「水郷・柳川」が蘇ったのです。
💡 映画『柳川堀割物語』
この広松さんと市民の戦いは、あのスタジオジブリの宮崎駿さんが製作出資し、高畑勲監督が実写ドキュメンタリー映画(1987年公開)として描き、全国に深い感動と環境保護のメッセージを広げました。
3. 現在の維持管理と「市民協働」の継承
広松さんは2002年に64歳で急逝されましたが、彼が遺した「市民みんなで堀を守る」という精神は、2020年代の現在も柳川の仕組みとしてしっかりと受け継がれています。
① 柳川の冬の風物詩「水落ち(みずおち)」と「堀干し」
毎年2月下旬から3月上旬にかけての約10日間、城門の閉鎖や水門を調整して、掘割の水を一斉に抜く「水落ち」が今も行われています。
あえて水を干上がらせて大気に晒す(泥を乾燥させる)ことで、日光消毒を行い、ヘドロの分解を促します。この期間中、市民やボランティア、川下り業者などが一斉に堀に入り、ゴミ拾いや泥上げ、石垣の補修作業を総出で行います。
② 市民と行政が一体となった「条例」と「水の会」
柳川市には掘割を保護するための条例があり、市民のボランティア組織「水の会」などが中心となって、定期的な清掃活動や、子供たちへの環境教育が続けられています。現在でも年間で延べ数万人規模の市民が、何らかの形で掘割の美化に関わっています。
かつて邪魔者扱いされたドブが、一人の男の情熱と市民の絆によって「街の宝」へと変わった柳川。どんこ舟から見える澄んだ水と青々とした柳の風景は、まさに先人たちの「川への愛」が残してくれた奇跡の財産です。




















