蔦重、日本橋に出る!って言ってた💛べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(23)我こそは江戸一利者なり
蔦重、日本橋に出る!って言ってた
こんにちは
猫好き父さんです
もう、なにか新しいこと始めるたびに
階段落ちがあるんだから
大変ですよね
吉原の旦那さんたちも
空気を読んでわざわざ障子を
開けてくれるし(笑)
あらすじ
狂歌で南畝(桐谷健太)の名が江戸中に知れ渡り、蔦重(横浜流星)が手掛けた狂歌の指南書『浜のきさご』などが飛ぶように売れた。耕書堂は江戸で大注目の本屋となり、蔦重も江戸一の利者と呼ばれる。そんな時、須原屋(里見浩太朗)から日本橋に進出することを勧められる。一方、誰袖(福原遥)は、蝦夷地の駆け引きで、商人を通さず、直接オロシャから琥珀を買い付けてはどうかと、廣年(ひょうろく)を口説こうとするが…。
出演
【出演】横浜流星,染谷将太,橋本愛,桐谷健太,福原遥,宮沢氷魚,中村隼人,高橋克実,里見浩太朗,渡辺謙,柳俊太郎,安田顕,小芝風花,峰竜太,堀内正美,田山涼成,本宮泰風,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
江戸時代の日本橋の役割
江戸時代の日本橋は、単なる橋ではなく、江戸の、そして日本の中心として、多岐にわたる重要な役割を担っていました。その役割は、主に以下の3つの側面で語ることができます。
1. 交通の要衝
- 五街道の起点: 日本橋は、江戸と全国を結ぶ主要な陸路である五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)の起点でした。これにより、全国の距離はすべて日本橋を基準に測られ、現代でも日本の道路元標が置かれています。
- 人馬の往来: 五街道の起点であるため、日本橋は常に人馬の往来で溢れかえっていました。「人馬の足おと雷鳴の如し」と形容されるほどの賑わいで、早朝の魚市場周辺などは人が踏み倒されるほどの混雑ぶりだったと言われています。
- 水上交通の要所: 日本橋川に架かる日本橋は、周辺の河川と連結し、隅田川を通じて江戸湾へとつながる水上交通の要所でもありました。全国各地から物資を積んだ船が行き交い、江戸の物流を支える重要な役割を果たしました。
2. 商業・経済の中心
- 全国の物資の集積地: 陸路と水路の結節点であった日本橋には、全国各地から米、魚、野菜、織物などの物資が集まり、取引されていました。これにより、日本橋は江戸、ひいては日本の商業・経済の中心地として発展しました。
- 日本橋魚河岸: 特に有名なのが、日本橋の北詰東岸にあった「日本橋魚河岸」です。徳川家康が江戸に入府した際に、大坂の佃村から漁師を呼び寄せ、幕府への魚の献上と残りの販売を許したのが始まりとされます。最盛期には「朝三千両の落ち処(おちどころ)」と言われるほどの活況を呈し、江戸の食生活を支える一大市場でした(関東大震災を機に築地へ移転)。
- 大店(おおだな)の集積: 三井越後屋(現在の三越百貨店の前身)をはじめ、多くの有力な問屋や商店が日本橋周辺に軒を連ね、江戸の商業をリードしました。金貨幣の鋳造所である金座も近くにあり、金融の中心でもありました。
- 現金取引の普及: 三井越後屋が始めた「現銀掛値なし」という現金での定価販売は、当時の商慣習を大きく変え、近代的な商業のあり方を日本橋から発信しました。
3. 文化・情報の中心
- 出版文化の拠点: 日本橋には、江戸を代表する書物問屋や版元が多く集まり、書籍、絵草子、浮世絵などの印刷物が盛んに生産・流通しました。まさに江戸の出版文化の礎であり、最新の情報や娯楽がここから全国へと発信されました。
- 情報発信地: 公的な知らせが掲示される高札場や、最新のニュースを読み上げる読み売り、瓦版売りなど、あらゆる情報が日本橋を通じて江戸の人々、そして全国へと伝えられました。
- 娯楽の場: 歌舞伎や人形浄瑠璃などの芝居小屋も近くにあり(人形町周辺)、人々の娯楽の中心地でもありました。
このように、江戸時代の日本橋は、**「交通の要衝」「商業・経済の中心」「文化・情報の中心」**という多岐にわたる重要な役割を担い、江戸の繁栄を支える文字通りの心臓部でした。
青楼名君自筆集(せいろうめいぐんじひつしゅう)とは
「青楼名君自筆集」は、江戸時代中期の吉原遊廓において、特に名高かった遊女(花魁や太夫など)たちの自筆の書画を集めた画帖、または巻物のことを指します。
「青楼」は吉原など遊廓の美称であり、「名君」は「名妓(めいぎ)」や「名花(めいか)」といった、才能と教養に秀でた遊女たちを指します。
内容と特徴
- 遊女たちの教養と芸術性: この自筆集は、単に遊女たちの姿を描いた浮世絵とは異なり、彼女たち自身が筆を執ったものです。当時の最高位の遊女たちは、遊女としての美しさだけでなく、和歌、書道、絵画、茶道、香道、生け花、音曲(三味線など)といった幅広い教養と芸事を身につけていることが求められました。この自筆集は、そうした彼女たちの高度な文化的な素養を示す貴重な資料となります。
- 多岐にわたる作品: 収められている作品は、和歌や俳句、短い文章、あるいは簡単な絵など多岐にわたります。それぞれの遊女の個性や人柄が、筆致や表現の中に垣間見えます。
- 文化的な価値: 吉原という場所は、単なる色街ではなく、江戸文化の一大拠点でもありました。「青楼名君自筆集」は、当時の吉原文化、ひいては江戸文化の一端を伝える重要な史料として、歴史的・美術史的価値が高いとされています。
- コレクションとしての性質: こうした自筆集は、裕福な旦那衆や文化人、収集家などが、好みの遊女から直接書いてもらったり、すでに書かれたものを集めたりして作成されたと考えられます。そのため、一冊の「青楼名君自筆集」の中に、異なる遊女の作品が収められているのが一般的です。
現存する「青楼名君自筆集」
現在、「青楼名君自筆集」という特定の名称で広く知られている出版物や決定版があるわけではなく、多くは個人蔵や美術館・博物館のコレクションの中に、同様の趣旨でまとめられた画帖や巻物が点在しています。
例えば、有名な遊女としては、葛飾北斎がその姿を描いたことでも知られる**「高尾太夫(たかおだゆう)」、多くの文人と交流があった「花扇(はなおうぎ)」**などが挙げられます。こうした遊女たちの自筆の書画が「青楼名君自筆集」のような形で後世に残されていることがあります。
もし特定の「青楼名君自筆集」について興味をお持ちでしたら、詳細な情報をお調べすることも可能です。どのような点に関心がありますか?
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代後期の文化を牽引した出版プロデューサーであり、その手腕は「エンタメ業界の風雲児」と称されるほどです。彼は多岐にわたる出版物を手がけましたが、吉原の遊女たち、特に「青楼名君自筆集」のような出版物にも深く関わりました。
蔦屋重三郎と「青楼名君自筆集」
蔦屋重三郎は、単なる本の販売業者(書肆)ではなく、時代の流行を読み解き、才能ある絵師や作家を発掘・プロデュースし、新しい文化を創造した人物です。彼が関わった「青楼名君自筆集」としては、特に以下のものが挙げられます。
- 『吉原傾城新美人合自筆鏡(よしわらけいせいしんびじんあわせじひつかがみ)』:
- 天明4年(1784年)に蔦屋重三郎から刊行されました。
- これは、前年(天明3年)に出された**「青楼名君自筆集」をまとめたもの**と言われています。
- **北尾政演(きたお まさのぶ、後の山東京伝)**が絵を描き、**大田南畝(おおた なんぽ)**が序文を、**朱楽菅江(あけらかんこう)**が跋(あとがき)を書いています。
- この作品は、吉原遊廓の高級遊女たちの肖像と、彼女たちが自筆で書き入れた和歌や俳句を組み合わせたものでした。遊女たちの美しさだけでなく、その教養や文化的な側面を強調する内容であり、当時の吉原文化への関心の高さを反映しています。
- 蔦屋重三郎は、自身の出身地が吉原であったこともあり、吉原の「吉原細見」(ガイドブック)をはじめとする遊里に関する出版物を得意としていました。遊女たちの美と教養を紹介するこうした企画は、彼の得意分野であり、彼の人脈(絵師、狂歌師など)を遺憾なく発揮したものでした。
蔦屋重三郎の役割
「青楼名君自筆集」のような出版物において、蔦屋重三郎は単に印刷・販売を行うだけでなく、以下のような重要な役割を担いました。
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企画・プロデュース:
- 吉原の遊女たちの美しさだけでなく、その教養や才能に焦点を当てた企画を立案しました。これは、単なる美人画とは異なる、知的な魅力を持つ出版物として当時の読者にアピールしました。
- 「名君」という言葉を使うことで、遊女たちの地位と文化的な価値を高めようとしました。
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才能の発掘と組み合わせ:
- 絵師には、当時人気を博し、後に黄表紙・洒落本の第一人者となる山東京伝(北尾政演)を起用。彼の描く遊女たちは、優美で写実的でありながら、品格も感じさせるものでした。
- 序文には、狂歌界の重鎮である大田南畝を、跋には朱楽菅江を起用するなど、当時の文化人ネットワークを最大限に活用しました。これにより、作品の権威を高め、読者の興味を引きました。
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マーケティングと流通:
- 吉原の情報に精通していた蔦屋重三郎は、こうした出版物が吉原の遊女たちに憧れる人々や、文化的な教養を求める層に響くことを理解していました。
- 彼の築き上げた流通網を通じて、江戸市中はもちろん、全国へと作品を届けました。
このように、蔦屋重三郎が関わった「青楼名君自筆集」は、彼が単なる版元ではなく、時代の文化を創り出し、牽引した稀代のプロデューサーであったことを示す代表的な例の一つと言えます。遊女たちの文化的な側面を捉え、それを一流の絵師や文人の力で魅力的な出版物として世に出すことで、彼は当時の人々の好奇心と美的感覚を刺激しました。
狂歌の指南書『狂歌 浜のきさご(きょうか はまのきさご)』
これは、江戸時代に刊行された狂歌(きょうか)の手引書です。
- 著者(選者): 四方赤良(よものあから、太田南畝/おおた なんぽ の狂名)が主な選者とされています。
- 内容: 狂歌の作り方や、狂歌師の紹介などが含まれていたと考えられます。
- 刊行時期: 天明3年(1783年)に刊行されたものが確認されています。その後も、文化年間などに版が重ねられています。
- 蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)との関連: 当時の人気出版元である蔦屋重三郎が刊行に携わっていたとされており、天明期の狂歌ブームの中で重要な役割を果たしました。狂歌集が多数刊行される中で、蔦屋は狂歌の手引書という形で工夫を凝らしたとされています。
現在放送中のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でも、蔦屋重三郎が狂歌ブームに乗って『浜のきさご』を刊行する様子が描かれており、注目を集めています。
朱楽菅江(あけらかんこう)の辞世の歌碑は、東京都墨田区向島にある三囲神社(みめぐりじんじゃ)の境内にあります。
この歌碑は、朱楽菅江が1799年(寛政11年)頃に亡くなった後、彼の妻である**節松嫁々(ふしまつのかか)**によって建立されました。
歌の内容
辞世の歌は以下の通りです。
「執着(しゅうちゃく)の 心や娑婆(しゃば)に 残るらん 吉野の桜 更科(さらしな)の月」
この歌は、この世への未練や執着が、吉野の桜や更科の月といった美しいものに残っているのだろうか、というような意味合いで、最期まで狂歌師らしい洒脱な詠みぶりを見せています。
歌碑の特徴
- 三囲神社は三井家ゆかりの神社であり、朱楽菅江が三井家とのつながりがあったかどうかは定かではありませんが、狂歌の中心地であった江戸文化を象徴する存在として、この地に歌碑が建立されたと考えられます。
- 歌碑は現存しており、三囲神社を訪れると見学することができます。
朱楽菅江は、大田南畝(おおたなんぽ)、唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)とともに「天明狂歌三大家」と称され、江戸時代後期の狂歌ブームを牽引した人物です。彼の辞世の歌碑は、その文人としての粋な生き様を今に伝えています。
元木網(もとのもくあみ)
元木網(もとのもくあみ)は、江戸時代中期の狂歌師で、天明狂歌(てんめいきょうか)の時代に大田南畝(おおたなんぽ)や唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)らとともに、その中心人物として活躍しました。
人物と来歴
- 本名: 金子喜三郎(かねこ きさぶろう)、のちに渡辺正雄(わたなべ まさお/まさかつ)。通称は大野屋喜三郎(おおのや きさぶろう)。
- 生没年: 享保9年(1724年) - 文化8年6月28日(1811年8月16日)。当時としては非常に長寿でした。
- 出身: 武蔵国杉山(現在の埼玉県比企郡嵐山町杉山)。
- 生業: 江戸に出て、京橋北紺屋町で湯屋(銭湯)を営んでいました。これにより経済的にも恵まれていたようです。
- 狂名: 最初は「網破損針金(あみのはそんはりがね)」という狂名を名乗っていましたが、後に「元木網(もとのもくあみ)」となりました。これは「元の木阿弥(もとのもくあみ)」という言葉遊びから来ており、彼のユーモラスな一面を表しています。他に「落栗庵(おちぐりあん)」の号も名乗りました。晩年は剃髪し、「珠阿弥(じゅあみ)」と称しました。
- 妻: 智恵内子(ちえのないし)。彼女もまた著名な女流狂歌師であり、夫婦で狂歌の才能を発揮しました。娘の幾地内子(いくじのないし)も狂歌を詠んでいます。
狂歌師としての活動
- 狂歌界での地位: 天明期(1781年~1789年)に江戸の狂歌文化が大きく花開いた際、元木網はその長老格として狂歌壇を牽引しました。
- 落栗連(おちぐりれん): 彼は自身が隠居後に構えた「落栗庵」で「落栗連」という狂歌グループを主宰し、多くの門弟を指導しました。
- 作風: 湯屋の主人という庶民的な立場から、日常の観察眼に富んだ洒脱でユーモラスな狂歌を詠みました。
- 主な編著: 『浜のきさご』、『新古今狂歌集』など。
隠居と晩年
天明元年(1781年)頃、50代後半で剃髪し、芝西久保土器町に「落栗庵」を構えて隠居しました。その後、向島水神の森に閑居したこともあります。
墓所
元木網の墓所は、深川の正覚寺(現在の東京都江東区)にあります。彼の辞世の句「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて、西へ行く身は元のもくあみ」が墓石に刻まれていると伝えられています。
元木網は、湯屋の主人という庶民の立場から狂歌師として大成し、江戸の狂歌ブームに多大な影響を与えた人物です。彼の狂歌は、当時の世相を映し出し、多くの人々に親しまれました。
智恵内子(ちえのないし)は、江戸時代中期の狂歌師、戯作者です。
人物と来歴
- 本名: 内田すめ、または通(つう)。
- 生没年: 延享2年(1745年) - 文化4年6月20日(1807年7月25日)
- 夫: 天明狂歌の第一人者である**元木網(もとのもくあみ)**こと大野屋喜三郎の妻です。夫と共に江戸狂歌を牽引しました。
- 出身: 武蔵国川越小ケ谷(現在の埼玉県川越市)
- 狂歌師としての活動:
- 明和6年(1769年)頃から夫が江戸狂歌壇に参加したのに伴い、自身も狂歌を詠むようになりました。
- 夫が主宰する「落栗連(おちぐりれん)」に属し、多くの作品を発表しました。
- 天明元年(1781年)に夫婦で隠居し、芝西久保土器町に「落栗庵」を構え、夫婦そろって狂歌の指導にあたりました。その門弟は江戸中に広がったと言われています。
- 狂名の由来: 「智恵内子」という狂名は、「智恵が無い」という言葉に、古典文学に登場する女官の「内侍(ないし)」をかけた洒落とされています。この狂名から、彼女の謙遜とユーモアのセンスがうかがえます。
- 他の女流狂歌師との比較: 朱楽菅江の妻である節松嫁々(ふしまつのかか)と並んで、当時の女流狂歌師の代表的存在として知られています。また、「ひまの内子」「世話内子」とともに「江戸の三内子」とも称されました。
- 作風: 日常生活の出来事や心情をテーマにし、女性らしい品のあるユーモラスな表現が特徴です。
- 戯作者としての活動: 狂文も得意とし、『狂文宝合記』に序文を寄せ、未刊行の作に『たぬきの草紙』があります。
- 晩年と墓所: 晩年は娘婿の邸宅に住み、文化4年(1807年)に孫婿の邸宅で亡くなりました。墓は深川の正覚寺にあります。
智恵内子は、男性中心だった当時の狂歌壇において、女性狂歌師の草分け的存在として夫と共に活躍し、江戸の狂歌文化の発展に大きく貢献した人物です。
川越熊野神社
川越熊野神社は、埼玉県川越市にある歴史ある神社で、「おくまんさま」の愛称で地元の人々に親しまれています。開運、縁結び、厄除けにご利益があるとされ、観光客にも人気のスポットです。
歴史と由緒
- 創建: 1590年(天正18年)に、隣接する蓮馨寺(れんけいじ)の二世然誉文応(ぜんよぶんおう)僧正が、紀州(現在の和歌山県)の熊野三山より熊野大神を勧請(かんじょう)したことに始まります。
- 地域との関わり: 江戸時代以降も地域の人々の氏神様として崇敬され、1713年(正徳3年)には社殿が改築され、現在の石造りの鳥居が建てられました。
御祭神
- 熊野大神(くまのおおかみ):以下の四柱の神様を総称します。
- 伊弉諾命(いざなぎのみこと):日本の国土を生み出した男神で、多くの神々を産み出したことから、特に縁結びのご利益があるとされます。
- 伊弉册命(いざなみのみこと):伊弉諾命の妻で、夫婦道の始まりの神様。こちらも縁結びにご利益があります。
- 事解之男命(ことさかのおのみこと):穢れを祓い、魔を祓う神。厄除けにご利益があります。
- 速玉之男命(はやたまのおのみこと):事解之男命と同様に、穢れを祓い、魔を祓う神。厄除けにご利益があります。
見どころ・ご利益・ユニークなスポット
川越熊野神社には、他の神社ではあまり見られないユニークな仕掛けや見どころがたくさんあります。
- 八咫烏(やたがらす):
- 熊野大神のお使いとされる三本足のカラスで、日本神話で神武天皇を道案内した「導きの神」として信仰されています。
- 境内には可愛らしい八咫烏のモニュメントや大きな「ジャンボ八咫烏」があり、写真スポットとしても人気です。
- 日本サッカー協会のシンボルマークにもなっていることから、必勝祈願の「勝守」も授与されています。
- 足踏み健康ロード:鳥居から本殿までの参道に、足つぼを刺激する石が敷き詰められた健康ロードがあります。参拝しながら足つぼマッサージができるユニークな体験ができます。
- むすひの庭:八咫烏様からお言葉がもらえる場所として知られています。「神恩感謝」「縁結び」「開運」の3つの水晶があり、手を置いてお言葉を頂戴することができます。
- 銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん):境内にある厳島神社に祀られており、宝池で金銭を清めることで金運アップを願います。毎月第3日曜日は「銭洗弁財天縁日」で、お清めした御福銭が配られることもあります。
- 撫で蛇様:銭洗弁財天の隣にいる双頭の白蛇様。撫でる場所によって「学業成就」「合格必勝」「身体健康」「病気平癒」「良縁」「夫婦円満」「家内安全」など、様々なご利益があるとされています。
- 運試し輪投げ:加祐稲荷神社に参拝後、5つの運気(恋愛運、仕事学業運、健康運、金運、心願成就運)の中から一つを選び、輪投げで運試しができます。
- 種類豊富なおみくじ:一般的なおみくじの他に、血液型おみくじや扇子みくじ、紅白みくじなど、ユニークなおみくじが多数用意されています。
- 御朱印:美しい切り絵の御朱印など、季節や限定の御朱印も人気です。
- 現代的な案内:境内にはQRコードを読み込むことで、多言語での施設案内や由緒などの情報を得られる工夫がされています。
アクセス
- 所在地: 埼玉県川越市連雀町17-1
- 電車:
- 西武新宿線「本川越駅」より徒歩約7分
- 東武東上線・JR川越線「川越駅」より徒歩約18分、またはバスで「連雀町」下車徒歩1分
川越熊野神社は、歴史と伝統に加え、現代的な工夫やエンターテイメント性も兼ね備えた魅力的な神社です。川越観光の際には、ぜひ立ち寄って、ご利益を授かってみてください。
元木網(もとのもくあみ)の歌碑
川越熊野神社の境内には、江戸時代の狂歌師、元木網(もとのもくあみ)の歌碑が建立されています。
歌碑の場所
川越熊野神社の**拝殿の右側(南側)**に、この歌碑はひっそりと佇んでいます。歌碑の後方には山桜が植えられており、春には花を咲かせます。
歌の内容
歌碑に刻まれているのは、元木網の詠んだ以下の狂歌です。
「山さくら 咲けば白雲 散れば雪 花見てくらす 春ぞすくなき」
歌に込められた意味
この歌は、山桜が咲いても、すぐに白い雲に覆われてしまったり、散る花がまるで雪のように舞い落ちたりして、本当にのどかに花を見て過ごせる春の日は少ない、という意味が込められています。
桜の美しさと同時に、その儚さや、せっかく咲いても天候に恵まれないことへの嘆きを、狂歌らしいユーモラスな視点で詠んだ作品と言えます。
歌碑建立の経緯と川越とのゆかり
元木網は、江戸で活躍した天明狂歌の大家であり、多くの弟子を抱えていました。
彼には**智恵内子(ちえのないし)**という妻がいましたが、この智恵内子の実家が川越にあったとされています。そのため、元木網自身も川越に滞在したことがあったという記録が残っています。
この歌碑は、元木網の生前に建てられたものではなく、文化年中(1804~1817年)に、彼の弟子たちによって建立されたと伝えられています。師への敬意と、川越とのゆかりを記念して建てられたものと考えられます。
川越熊野神社を訪れる際には、縁結びや開運祈願のパワースポットを巡るだけでなく、江戸の狂歌文化に思いを馳せながら、この元木網の歌碑を探してみるのも趣があります。
#大河べらぼう ダイジェスト🦊
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) June 16, 2025
第23回の見どころを2分に凝縮してお届けします⏱
👇相関図やキャスト紹介は公式HPへ!https://t.co/EjiqUNB0XZ pic.twitter.com/AhiV4Ni8fG
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