大文字屋市兵衛って死ぬ必要あったの?👹べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~21 蝦夷桜上野屁音(えぞのさくらうえののへおと)
大文字屋市兵衛って死ぬ必要あったの?
こんにちは
猫好き父さんです
思わず声をあげちゃったよ(笑)
とか
まあねえ
最近のドラマは
流れ通りには撮らないから
いちいち別の俳優さん立てるよりは
便利なんだろうけど(笑)
桐谷健太さんって地のキャラクターが強すぎて
困りました
そうそう
誰袖って蔦重一筋だったのに
いつのまに幕府のスパイみたいた
ことやることになったの?
どういう心境の変化?
このドラマ
なかなか面白い
あらすじ
蔦重(横浜流星)は、歌麿(染谷将太)と手掛けた錦絵が売れず、さらに鶴屋(風間俊介)で政演(古川雄大)が書いた青本が売れていることを知り、老舗の本屋との力の差を感じていた。そんな中、南畝(桐谷健太)が土山(柳俊太郎)の花見の会に狂歌仲間を連れて現れる。蔦重はその中に変装した意知(宮沢氷魚)らしき男を見かける。一方、意次(渡辺謙)は家治(眞島秀和)に、幕府のため、蝦夷地の上知を考えていることを伝える…
出演
【出演】横浜流星,染谷将太,福原遥,桐谷健太,宮沢氷魚,岡山天音,古川雄大,尾美としのり,高橋克実,渡辺謙,生田斗真,原田泰造,木村了,柳俊太郎,中村蒼,安達祐実,えなりかずき,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
田沼意次と蝦夷の関係
田沼意次は、江戸時代中期に老中として幕政を主導した人物で、その改革は「田沼時代」と呼ばれています。彼は、蝦夷地(現在の北海道)に大きな関心を寄せ、その開発と利用を国家戦略として重視していました。
田沼意次が蝦夷地に注目した背景
- 幕府財政の逼迫: 当時の幕府財政は厳しく、田沼は商業を重視し、新田開発や鉱山開発などによって新たな財源を確保しようとしました。蝦夷地は、金や銅などの鉱物資源、ニシンや昆布などの豊かな海産物があると考えられており、新たな収入源として期待されました。
- ロシアの南下政策への警戒: 18世紀後半になると、ロシアがカムチャツカ半島から千島列島を経て南下する動きを見せ、蝦夷地への接近が懸念されるようになりました。田沼は、国防上の観点からも蝦夷地の重要性を認識し、その実態把握と防備体制の強化が必要だと考えました。
- 工藤平助の提言: 仙台藩の医師である工藤平助が著した『赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)』が、田沼の蝦夷地政策に大きな影響を与えました。この書は、ロシアの南下に関する情報や、蝦夷地の資源開発の可能性、交易の必要性などを詳細に記しており、田沼はこの提言に着目しました。
田沼の蝦夷地政策
田沼は、上記の背景から、蝦夷地を単なる辺境の地としてではなく、財政再建と国防強化という二つの課題に対応する国家戦略上の要地と位置づけました。
- 蝦夷地調査隊の派遣: 1785年(天明5年)には、最上徳内(もがみとくない)らを含む調査隊を蝦夷地に派遣しました。彼らは、国後(くなしり)・択捉(えとろふ)などの島々を含む東蝦夷と、日本海側の西蝦夷に分かれて、地理、資源、アイヌの人々の生活、そしてロシア船の動向などを詳細に調査しました。特にロシア人との接触状況や航行ルートの把握は、国防上の重要な調査項目でした。
- 鉱山開発と貿易の構想: 調査結果を受け、田沼は蝦夷地での鉱山開発や、ロシアとの交易(北方貿易)を進める構想を持っていました。特に、蝦夷地の産物である「干し鮑(あわび)・いりこ・ふかひれ」などを俵物(たわらもの)として清(中国)へ輸出し、金銀を獲得しようと目論んでいました。
田沼の失脚とその後
しかし、田沼意次の蝦夷地開発計画は、翌1786年(天明6年)に彼が政変によって失脚したことで、一旦は中断されてしまいます。老中を罷免されたことで、彼の構想は棚上げとなりました。
それでも、田沼が行った蝦夷地調査は決して無駄ではありませんでした。彼の先見性は、その後の幕府の蝦夷地政策に大きな影響を与えます。田沼に代わって老中主座となった松平定信は、田沼の重商政策とは異なる緊縮財政路線を採りましたが、田沼が把握した蝦夷地の戦略的価値は幕府内で共有され、後に松平定信による東蝦夷地の直轄化政策へとつながっていきます(1799年)。文化4年(1807年)には松前藩から領地を取り上げ、全蝦夷地を直轄しました。
このように、田沼意次は蝦夷地を幕府財政再建と北方防衛の要地として捉え、具体的な調査と開発構想を進めました。彼の政策は、その後の幕府の蝦夷地に対する認識と取り組みの基礎を築いたと言えます。
松前道廣(まつまえ みちひろ)
松前道廣(まつまえ みちひろ)は、江戸時代中期の大名で、蝦夷地(現在の北海道)を領する松前藩の第8代藩主です。1754年に7代藩主・松前資広の長男として生まれ、1765年に父の死により家督を継ぎました。
彼の治世は、以下のような特徴がありました。
- 豪放な性格と財政の窮乏: 幼少より文武に優れていたとされますが、派手好きで傲慢な性格だったと言われています。一橋治済、伊達家、島津家など反幕閣の人々や、幕府から目を付けられていた国学者の高山彦九郎とも交友がありました。吉原の遊女を妾にするなど遊興費も多く、そのために商人からの借金がかさみ、藩政は窮乏し、幾度も幕府から注意を受けました。
- 対外強硬姿勢: ロシアからの通商要請を拒否するなど、対外的には強硬な姿勢を取りました。
- クナシリ・メナシの戦いの鎮圧: 1789年(寛政元年)には、国後島や目梨地方でアイヌの人々が起こした反乱(クナシリ・メナシの戦い)を、家臣を派遣して鎮圧しました。
- 隠居と謹慎: 1792年(寛政4年)に隠居し、長男の章広に家督を譲りました。しかし、藩主在任中の海防への取り組みや素行の悪さを咎められ、1807年(文化4年)には幕府から謹慎(永蟄居)を命じられます。これは、元家臣の讒言が背景にあったとも言われています。この謹慎は1821年(文政5年)に解かれました。
- 蝦夷地の特殊性: 松前藩は、米の取れない蝦夷地を拠点としており、米の石高ではなく、アイヌとの交易が主な収入源となる特殊な藩でした。道廣の治世の時代は、北方からロシアの南下圧力を受けており、幕府にとって蝦夷地は警戒すべき最前線でもありました。そのため、藩主には高い責任と自覚が求められていました。
松前道廣は、個性的な大名として知られ、2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、えなりかずきさんがこの役を演じています。
松前道廣と一橋治済(ひとつばし はるさだ)の関係
松前道廣と一橋治済(ひとつばし はるさだ)は、江戸時代中期に生きた大名と御三卿(ごさんきょう)当主という関係であり、史料からは互いに親交があったことが伺えます。
一橋治済の人物像と権力志向
一橋治済は、8代将軍徳川吉宗の孫であり、10代将軍徳川家治の従兄弟にあたります。彼は、御三卿の一つである一橋家の2代目当主であり、その最大の目的は、自身の息子である家斉(いえなり)を将軍の座に就かせることでした。
- 「黒幕」としての評価: 治済は、歴史上「怪物」「悪役」「大御所」といったイメージで語られることが多く、巧みな策略と権力掌握によって幕政に隠然たる影響力を持ったとされています。彼が11代将軍家斉の実父として権勢を誇ったため、その陰謀説が根強く存在します。
- 非道な側面: 史料が少ないため実体は不明瞭な部分もありますが、「何の志もない、ただただ恐ろしい人」「退屈だからと人を殺しちゃう」といった極端な評価もされることがあります。
松前道廣の人物像と対幕府姿勢
松前道廣は、蝦夷地を領する松前藩の第8代藩主です。
- 豪放な性格と対外強硬姿勢: 幼少より文武に優れ、派手好きで傲慢な性格だったとされます。ロシアからの通商要請を拒否するなど、対外的には強硬な姿勢を取りました。
- 反幕閣勢力との交流: 松前道廣は、一橋治済の他にも、伊達氏や島津氏といった、当時の幕府の権力中枢(老中田沼意次ら)とは距離を置く「反幕閣」とされる人々とも積極的に交流を持っていたとされています。また、過激な思想の持ち主として幕府から目を付けられていた国学者・高山彦九郎とも交友がありました。
二人の関係性
松前道廣と一橋治済の関係は、直接的な「癒着」とまでは断言できませんが、以下のような点が指摘されています。
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反田沼意次という共通点:
- 田沼意次は、幕府財政再建のために蝦夷地の開発・上知(幕府直轄地化)を画策していました。これは、松前藩にとっては領地を奪われる可能性を意味します。
- 一方、一橋治済も、田沼意次の重商主義的な改革路線や、その権勢に批判的な立場を取っていました。
- このように、田沼意次という共通の「敵」を持つ者同士として、あるいは幕府の権力中枢への不満を共有する者同士として、両者が結びつく素地はありました。
- 2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』でも、松前道廣が一橋治済と親交を持ち、田沼意次による蝦夷地の上知(あげち)に際して政治的な駆け引きを行う様子が描かれるとされています。
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松前道廣の豪放な性格: 道廣の豪放で派手好き、そして反骨精神旺盛な性格が、当時の主流派から外れた人物(一橋治済のような野心家や、高山彦九郎のような思想家)との交流を厭わなかった背景にあると考えられます。
結果として、松前道廣は豪遊や対外的な強硬姿勢、そして反幕閣勢力との交流といった行動が、幕府の不興を買う一因となり、最終的には謹慎処分を受けることになります。彼の失脚には、元家臣の讒言があったとも言われていますが、その裏には、幕府の権力闘争の中で、彼がどのような立ち位置にいたのか、あるいは彼が関わっていた人間関係が影響した可能性も考えられます。
このように、松前道廣と一橋治済は、直接的な具体的な策謀を共にしたという史料は多くありませんが、当時の幕府の政治的対立軸の中で、互いに共通の利害や思想を持つ者として交流があったとされています。
蝦夷地(えぞち)について
江戸時代の蝦夷地(えぞち)は、現在の北海道、樺太(サハリン)、千島列島を含む広大な地域を指し、和人(日本人)が住む本州以南とは異なる独自の文化と社会を持つ場所でした。その歴史は、和人とアイヌの人々との関係、資源の重要性、そして北方からの異国船の接近という要素で特徴づけられます。
1. 蝦夷地の統治と松前藩
- 松前藩の成立: 江戸幕府は、蝦夷地を直接統治せず、松前慶広(まつまえ よしひろ)を藩祖とする松前藩にその支配を任せました。松前藩は、米の収穫量(石高)ではなく、アイヌとの交易から得られる利益を主な財源とする特殊な大名でした。
- 「商場知行制」: 松前藩は、蝦夷地を複数の「商場(あきないば)」と呼ばれる地域に分け、これを家臣に与えてアイヌとの交易を独占させました。家臣たちはそれぞれの商場で、アイヌから毛皮、鮭、ニシン、昆布などの物産を買い取り、米、日本刀、漆器、木綿などの和人側の品物と交換しました。この制度は「商場知行制」と呼ばれ、松前藩の経済基盤でした。
- 場所請負制への移行: 18世紀半ば頃から、商場知行制は「場所請負制(ばしょうけおいせい)」へと移行していきます。これは、松前藩が直接交易を行うのではなく、特定の商人に一定期間、特定の場所での交易権を請け負わせる制度です。請負商人は、アイヌとの交易や漁業を独占し、アイヌを労働力として使うようになりました。これにより、アイヌの人々の生活は大きく変化し、和人による支配と搾取が強まることになります。
2. アイヌの人々の生活と文化
- 独自の文化: アイヌの人々は、独自の言語、信仰、文化、社会システムを持っていました。彼らは狩猟、漁労、採集を生業とし、自然との共生を重視する生活を送っていました。クマ祭りのような儀式(イオマンテ)は、彼らの精神生活において重要なものでした。
- 交易と交流: 松前藩との交易を通じて、アイヌは鉄器や漆器などの和人文化を取り入れ、和人もアイヌから北方独自の物産を得ていました。しかし、場所請負制の進展と共に、和人によるアイヌへの搾取や不当な扱いが増加し、クナシリ・メナシの戦いのような和人に対する反乱も発生しました。
3. 北方からの圧力と幕府の関心
- ロシアの南下: 18世紀後半になると、ロシアが千島列島や樺太を経由して南下する動きを見せ始め、蝦夷地への接近が顕著になりました。これは、江戸幕府にとって重大な国防上の脅威となりました。
- 幕府の蝦夷地調査と直轄化:
- 田沼意次時代: 1785年(天明5年)、老中田沼意次は、蝦夷地を幕府財政の立て直しと北方防衛の拠点と捉え、最上徳内らを蝦夷地に派遣して詳細な調査を行わせました。彼らは資源の調査やロシアの動向を探り、蝦夷地開発の可能性を探りました。
- 松平定信時代: 田沼の失脚後、老中松平定信もロシアの脅威を重視し、1799年(寛政11年)には東蝦夷地(太平洋側)を松前藩から取り上げて幕府の直轄領としました。これは、国防強化とアイヌへの搾取是正が目的とされました。
- 全蝦夷地の直轄化: その後、ロシアの接近がさらに活発化したため、1807年(文化4年)には蝦夷地全域が幕府直轄領となりました。松前藩は陸奥国梁川(やながわ)に移封されましたが、幕府が蝦夷地を直接統治することで、北方防衛体制の強化を図りました。
- 松前藩の復領: しかし、幕府による蝦夷地直轄統治は財政的な負担が大きく、また遠隔地支配の難しさから、1821年(文政4年)には再び松前藩に蝦夷地が返還されました。
- 探検家たちの活躍: 間宮林蔵(樺太探検)、近藤重蔵(千島列島探検)、伊能忠敬(蝦夷地の測量)など、幕府の命を受けた探検家たちが蝦夷地の地理や資源、異国船の動向などを詳細に調査し、日本の領土意識を高める上で重要な役割を果たしました。
江戸時代の蝦夷地は、資源豊かなフロンティアであり、アイヌ文化が息づく地であり、同時に北方からの国防上の最前線として、江戸幕府や松前藩にとってその重要性を増していきました。この時代の経験は、幕末から明治維新にかけての北海道開拓へとつながっていきます。
アイヌの人々と大陸との交易
アイヌの人々と大陸との交易は、非常に古くから行われており、彼らの文化と社会、そしてユーラシア大陸と日本列島の間の物資や情報の流通において重要な役割を果たしてきました。特に「山丹(さんたん)交易」は、江戸時代のアイヌと大陸との関係を象徴するものです。
1. 古代・中世からの交易の歴史
アイヌの人々は、北海道を中心に、本州、樺太、千島列島、そしてさらにその先の沿海州やアムール川流域といった大陸地域と、古くから活発な交易を行っていました。
- 縄文・続縄文時代: すでに貝塚時代には、中国や朝鮮半島との交流があったと考えられており、南西諸島・琉球国からは中国の古銭が出土しています。また、北海道から本州へ、ヒスイや黒曜石といった物資が交易されていた記録もあります。
- 擦文文化期: 9世紀頃の史料には、秋田城に「渡嶋の狄(エミシ)」、すなわち北海道のアイヌの人々が毎年、様々な毛皮を持ってきていたことが記されています。この頃から、毛皮が主要な交易品であったと推測されています。
- 中世(13世紀以降): 擦文文化後期頃から、アイヌは交易の増加に後押しされて樺太に進出し始めました。14世紀には、樺太のアイヌが明(中国)と直接通交したことが、永楽帝がアムール川下流域に建立した永寧寺の石碑に記録されています。この時代、アイヌは環日本海交易の重要な担い手でした。
2. 山丹交易(江戸時代)
江戸時代に入ると、アイヌと大陸との交易は「山丹交易」として知られるようになります。これは、主に樺太のアイヌと、大陸(現在のロシア沿海州や中国東北部)に住む「山丹人」と呼ばれる人々(ウリチやニヴフなど)との間で行われた交易を指します。
- 交易ルート: 大陸の山丹人が樺太にやってきて、樺太アイヌと交易を行います。そして、樺太アイヌがその品々を北海道アイヌに伝え、さらに北海道アイヌが松前藩を介して和人地(本州)へと品物を流通させました。この交易は、江戸幕府の鎖国政策下において、北方を通じる貴重な海外物資のルートでもありました。
- 交易品:
- 山丹人からアイヌへ: 清朝の官服(特に華麗な刺繍が施された「山丹服」や「蝦夷錦」として珍重された絹織物)、布地、ガラス玉(アイヌ玉の材料)、青玉、鷲の羽、漆器、鍋などの鉄製品などがもたらされました。これらの品々は、アイヌ社会において富や権力の象徴となり、儀礼や祭りの際に着用されたり、宝物として受け継がれたりしました。特に山丹服は、松前藩から将軍への献上品となることもありました。
- アイヌから山丹人へ: 狩猟で得た毛皮(クロテン、ラッコ、オコジョ、キツネ、ヒグマなど)、ワシの羽根、魚油、アザラシ油などが主な交易品でした。これらは大陸で高値で取引されました。
- 交易の場: 樺太の白主(しらぬし)や西トンナイ、久春古丹(くしゅんこたん)などが主要な交易地でした。間宮林蔵が樺太探検の際に訪れた、アムール川下流域の「デレン」には清朝の交易所が設けられており、様々な民族が集まって交易を行っていました。
- 松前藩の関与: 松前藩は、当初はアイヌと本州商人の交易を松前城下に制限していましたが、後にアイヌと本州商人が直接交易することを禁じ、自らがアイヌとの交易を独占するようになります。山丹交易で得られた大陸の品々も、最終的には松前藩を経由して本州へと流通しました。
3. ロシアの南下と山丹交易の衰退
18世紀後半以降、ロシアがアムール川流域や樺太へと南下する動きが活発になると、山丹交易の様相も変化していきます。清朝の支配力が弱まる中、ロシアが北方での影響力を強め、やがて樺太千島交換条約(1875年)により、樺太がロシア領となることで、近代的な国境線が引かれ、日本は山丹交易から撤退することになります。
アイヌと大陸との交易は、単なる物資の交換にとどまらず、文化や情報が交流する重要なチャンネルであり、アイヌの社会と文化に大きな影響を与え、彼らの国際的なネットワークを示すものでした。
蝦夷錦(えぞにしき)
「蝦夷錦(えぞにしき)」とは、江戸時代に蝦夷地(現在の北海道、樺太、千島列島)を経由して日本列島にもたらされた、主に中国(清朝)製の豪華な絹織物のことです。特に、清朝の高級官僚が着用した官服や、それに用いられた絹の反物が「蝦夷錦」または「山丹服(さんたんふく)」と呼ばれ、大変珍重されました。
蝦夷錦の特徴と価値
- 起源: 蝦夷錦は、もともと中国の江南地方で作られた絹織物です。北京からアムール川(黒竜江)を下り、間宮海峡を渡って樺太(サハリン)へ、さらに南下して北海道のアイヌの人々の手に渡り、最終的に松前藩を介して本州にもたらされました。
- 素材と文様: 絹の生地に、緻密な織りや豪華な刺繍が施されています。文様は、龍(特に五本爪の龍は皇帝や高位の官僚を示す)、鳳凰、牡丹、雲、波など、中国の伝統的な吉祥文様が主でした。色も青、赤、黄など、鮮やかな色彩が特徴です。
- 高い希少価値: 江戸時代の日本は鎖国政策を取っており、海外からの物資の流入は厳しく制限されていました。その中で、北方経由でもたらされる蝦夷錦は、その製法や文様が日本にはない独特のものであったため、非常に希少価値が高く、珍重されました。
- 用途: アイヌの人々は、儀礼や祭りの際に着用したり、家宝として代々受け継いだりしました。また、松前藩では藩主がこの豪華な錦を着用したり、将軍への献上品として利用したりしました。本州の大名や豪商の間でも高値で取引され、陣羽織や袱紗(ふくさ)、帯、あるいは仏事の袈裟(けさ)や座布団などにリメイクして活用されました。
山丹交易と蝦夷錦
蝦夷錦が日本にもたらされた主要なルートが「山丹交易(さんたんこうえき)」です。
- 山丹人との交易: 大陸(現在のロシア沿海州や中国東北部)に住む「山丹人」(ウリチやニヴフなど)が、アムール川を下って樺太の交易地へやって来ます。
- 樺太アイヌの仲介: 山丹人は、樺太アイヌと毛皮(クロテン、ラッコなど)や魚油、アザラシ油などを交易し、その見返りとして、清朝の絹織物(蝦夷錦を含む)、ガラス玉、鉄製品などを渡しました。
- 北海道アイヌへの伝播: 樺太アイヌは、山丹人から得た品々を、さらに北海道アイヌへと交易によって伝えます。
- 松前藩への流入: 北海道アイヌは、蝦夷錦などの品々を松前藩や和人の商人(場所請負人)と交易し、米や日本刀、木綿などの和人製品を得ました。こうして、蝦夷錦は最終的に松前藩を通じて本州へと流通しました。
この交易ルートは、江戸時代の鎖国下において、清朝文化の一部が日本にもたらされる貴重な「北東アジアのシルクロード」としての役割を果たしました。蝦夷錦は、単なる衣料品にとどまらず、当時の国際情勢や、アイヌの人々が果たした交易における重要な役割、そして文化交流の証として、現在も歴史的・文化的に非常に価値のある資料とされています。
急逝したカボチャの旦那こと大文字屋市兵衛。今回から、瓜二つの二代目が登場しています🎃#伊藤淳史 さんの演じ分けにもご注目ください!
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) June 2, 2025
初登場シーン収録後には、丁字屋役の #島英臣 さんのお誕生日をお祝いしました🎂
配信は👇https://t.co/5kFtPlEeSZ#大河べらぼう#飯島直子 #福原遥 pic.twitter.com/afFG4ZravP
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