徳川家治の将軍後継者問題🏯べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(20)寝惚(ぼ)けて候
徳川家治の将軍後継者問題
こんにちは
猫好き父さんです
蔦重の成長も面白いというか
興味深いのですが
将軍の後継者争いも
なかなか
興味深いですね
あらすじ
『菊寿草』で『見徳一炊夢』や耕書堂が高く評価された蔦重(横浜流星)は、須原屋(里見浩太朗)と大田南畝(桐谷健太)の家を訪ねる。そこで近頃、江戸で人気が出ている“狂歌”を知った蔦重は、南畝から「狂歌の会」への誘いを受ける。一方、意次(渡辺謙)は、家治(眞島秀和)が次期将軍に一橋家の豊千代を、御台所には種姫を迎える意向であることを治済(生田斗真)に伝え、将軍後継問題は決着するかに思われたが…
【出演】横浜流星,染谷将太,桐谷健太,古川雄大,岡山天音,尾美としのり,冨永愛,生田斗真,里見浩太朗,渡辺謙,原田泰造,高梨臨,木村了,柳俊太郎,中村蒼,安達祐実,風間俊介,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
大田南畝(おおた なんぽ)
大田南畝(おおた なんぽ)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した、日本を代表する文人の一人です。
生没年
寛延2年3月3日(1749年4月19日) - 文政6年4月6日(1823年5月16日)
主な特徴
- 多才な文人: 狂歌師として非常に有名ですが、狂詩、洒落本、黄表紙、随筆、漢詩文など、多岐にわたるジャンルで活躍しました。
- 別号の多さ: 「四方赤良(よものあから)」「蜀山人(しょくさんじん)」「寝惚先生(ねぼけせんせい)」など、多くの別号を持っていました。特に「蜀山人」は、晩年に大坂銅座勤務となった際、銅の異名「蜀山居士」にちなんで号したもので、最もよく知られています。
- 狂歌の第一人者: 唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)とともに狂歌三大家と称され、天明期に狂歌ブームを巻き起こしました。そのユーモアと風刺の効いた作風は、多くの人々に愛されました。
- 幕臣としての顔: 幕府の下級武士(御家人)でしたが、学問吟味に合格し、能吏として幕府の役職も務めました。公務に精励する傍らで、文筆活動を行い、その才能を遺憾なく発揮しました。
- 幅広い交友関係: 戯作者の山東京伝、浮世絵師の葛飾北斎や鳥文斎栄之、さらには歌舞伎役者など、当時の文化界の様々な著名人と交流がありました。
- 主要な作品:
- 『寝惚先生文集』: 19歳で著した狂詩集で、平賀源内が序文を寄せ、彼の名を知らしめるきっかけとなりました。
- 『万載狂歌集』: 四方赤良名義で朱楽菅江と共編した狂歌集。
- 『一話一言』: 膨大な量の随筆集。
- その他、『鯛の味噌津』『虚言八百万八伝』などの洒落本や黄表紙も著しています。
大田南畝は、当時の江戸文化の最盛期を牽引した中心人物であり、その作品は現代においても、江戸の風俗や文化を知る上で貴重な資料となっています。
狂歌(きょうか)
狂歌(きょうか)は、和歌(短歌:五・七・五・七・七)の形式を踏まえながらも、滑稽さ、機知、風刺、皮肉などを盛り込んだ「戯れ歌(ざれうた)」の一種です。江戸時代に特に流行し、庶民文化の中で大きな役割を果たしました。
狂歌の歴史
- 起源: 狂歌自体は奈良時代から存在したと考えられていますが、本格的に発展したのは近世以降です。
- 初期: 江戸時代初期には、京都を中心に、その後大阪(浪速狂歌)で流行しました。
- 最盛期(天明狂歌): 江戸時代中期から後期にかけて、特に天明年間(1781年~1789年)に江戸で一大ブームを迎え、社会現象となるほどでした。この時期の狂歌は「天明狂歌」と呼ばれ、大田南畝(おおたなんぽ)らが中心となって牽引しました。
- 衰退: 明治時代以降は徐々に衰退していきました。
狂歌の特徴
- 形式: 基本的に和歌と同じく五・七・五・七・七の三十一文字の定型詩です。
- 内容:
- 滑稽・諧謔: 笑いやユーモアを重視し、日常生活の出来事や社会の矛盾などを面白おかしく表現します。
- 風刺・皮肉: 政治、風俗、人間関係などを題材に、時に痛烈な風刺や皮肉を込めます。
- 言葉遊び: 古典文学や成語をもじったり、縁語(えんご)や懸詞(かけことば)といった技巧的な言葉遊びを多用します。
- 俗語の使用: 和歌が雅言・古語を重んじるのに対し、狂歌はあえて俗語や口語を用いることが特徴です。
- 季語の不必要: 俳句や和歌のような厳密な季語の制約はありません。
- 庶民性: 江戸時代の町人文化の中で発展し、知識層だけでなく庶民にも広く親しまれました。歌会が頻繁に開かれたり、浮世絵などの挿絵が添えられた「狂歌本」が出版されたりしました。
有名な狂歌師
- 大田南畝(おおたなんぽ): 天明狂歌の中心人物。本名は覃(ふかし)、通称は直次郎。狂名は四方赤良(よものあから)、晩年には蜀山人(しょくさんじん)と名乗りました。狂歌だけでなく、洒落本や随筆など多岐にわたる作品を残し、江戸の文化人として非常に有名でした。
- 代表作に狂詩集「寝惚先生文集」、狂歌撰集「万載狂歌集」などがあります。
- 唐衣橘洲(からころもきっしゅう): 江戸で狂歌会を初めて開催した人物とされ、江戸狂歌流行のきっかけを作りました。
- 朱楽菅江(あけらかんこう): 大田南畝、唐衣橘洲とともに「狂歌三大家」と称されることがあります。
狂歌の例
有名な狂歌の一つに、田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治を「濁り」とし、松平定信(まつだいらさだのぶ)の寛政の改革を「清き」と評しながら、その厳しさを皮肉った歌があります。
白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき
(松平定信の改革があまりに厳しすぎて、以前の田沼意次の少々濁っていたが、自由のあった時代が恋しい)
狂歌は、当時の世相や人々の心情を知る上で貴重な資料であり、現代においてもそのユーモアや鋭い洞察は色あせることなく楽しめます。
徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸幕府初代将軍徳川家康が、徳川将軍家の血統を安定的に維持するために設けた特別な大名家です。具体的には、以下の3つの家を指します。
- 尾張徳川家(尾張藩): 家康の九男・徳川義直を祖とする。本拠地は現在の愛知県名古屋市。
- 紀州徳川家(紀州藩): 家康の十男・徳川頼宣を祖とする。本拠地は現在の和歌山県和歌山市。
- 水戸徳川家(水戸藩): 家康の十一男・徳川頼房を祖とする。本拠地は現在の茨城県水戸市。
これらの御三家には、将軍家を補佐し、特に将軍家の後継ぎが絶えた場合に将軍を輩出するという最も重要な役割がありました。
徳川御三家の役割と特徴
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将軍後継者の確保:
- これが御三家設立の最大の目的です。将軍家に万が一男子の世継ぎがいなくなった場合、御三家の中から養子を迎え、将軍として擁立することで徳川家の血統を途絶えさせないようにしました。
- 実際に、紀州徳川家からは8代将軍徳川吉宗、14代将軍徳川家茂が将軍となっています。
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徳川宗家の補佐と牽制:
- 御三家は将軍家と同族であるため、他の大名よりも上位の家格を持ち、将軍家を精神的・政治的に支える存在でした。
- 一方で、将軍家が暴走した場合などには、意見具申や牽制を行う役割も期待されていました。
- しかし、具体的に制度や役職として将軍補佐の役割が定められていたわけではなく、あくまでも藩主としてそれぞれの領地を統治していました。
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重要な地の支配:
- 尾張は東海道の要衝、紀州は畿内西国の抑え、水戸は江戸の北東(鬼門)を守る要地であり、それぞれ戦略的に重要な場所に配置されました。これにより、幕府の統治体制を強化する役割も果たしていました。
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家格と待遇:
- 尾張徳川家と紀州徳川家:両家は「権大納言(ごんだいなごん)」を極官とし、江戸城での伺候席(控える場所)も最高位の「大廊下」でした。これは加賀藩前田氏など一部の大名と同様の待遇でした。
- 水戸徳川家:他の二家より一段低い「権中納言(ごんちゅうなごん)」を極官とし、江戸に定府(常駐)する義務がありました。水戸家は「副将軍」と俗称されることもありましたが、これは将軍を直接補佐する役割というよりも、江戸に近い位置で幕府の動向を監視し、時に意見を述べる立場であったためと考えられます。また、水戸家は御三家で唯一、他家から養子を迎えず、藩祖頼房の血脈を絶やさずに家康の血統を守ることを重視していました。
徳川御三卿との違い
江戸時代中期になると、8代将軍徳川吉宗が将軍後継者問題にさらに備えるため、御三家に加えて**徳川御三卿(ごさんきょう)**を創設しました。御三卿は、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家を指します。
- 御三家:独立した大名家として領地を持ち、藩政を行っていた。
- 御三卿:領地は持たず、江戸城の近くに屋敷を構え、将軍家に近い血統を持つ「将軍家の直系サポート役」という位置づけでした。御三卿からも将軍を輩出する可能性があり、実際に一橋家から15代将軍徳川慶喜が出ています。
御三家は、徳川幕府の盤石な統治体制と、徳川家の血統の永続性を確保するための重要な制度であったと言えます。
御三卿間の勢力争い
徳川御三卿(田安家、一橋家、清水家)は、8代将軍徳川吉宗が将軍家の血統が絶えることを防ぐために創設しました。御三家が独立した大名家として領地を持っていたのに対し、御三卿は領地を持たず、幕府からの「官費」で家計を支えられ、将軍家に近い血統を持つ「将軍家の直系サポート役」という位置づけでした。
御三卿は、将軍後継者問題に備えるという本来の役割に加え、幕府政治、特に将軍の代替わりや重要人事において、その血筋と家格ゆえに政治的な影響力を持つことがありました。彼らの間には、将軍を輩出し、幕府内で優位に立つための勢力争いが存在しました。
御三卿間の勢力争いの具体例
御三卿間の勢力争いが最も顕著に表れたのは、将軍後継者争いの局面です。
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一橋家と田安家の対立(特に11代将軍家斉の擁立を巡る動き)
- 一橋徳川家: 8代将軍吉宗の四男・宗尹(むねただ)を祖とし、将軍家との血縁が近かったため、将軍後継者として特に有力視されました。
- 一橋治済(はるさだ): 11代将軍徳川家斉の実父であり、幕末の15代将軍徳川慶喜の曽祖父にあたります。彼は「将軍家斉の実父」という立場を利用し、将軍後継者問題や幕政に大きな影響力を行使しました。
- 家斉が将軍となる過程では、田安家との間で激しい後継者争いがありました。
- 田安徳川家: 8代将軍吉宗の次男・宗武(むねたけ)を祖とします。学問・文化に優れる人物を輩出しました。
- 松平定信(まつだいらさだのぶ): 田安宗武の子で、白河藩主となり「寛政の改革」を主導したことで有名です。彼は一橋治済の従兄弟にあたります。
- 定信は、将軍家斉が即位する際に、将軍後見人として幕政を主導する立場となりましたが、実父である治済との関係は必ずしも良好ではありませんでした。治済は定信の改革に反発し、定信の失脚を画策したとも言われています。これは、将軍の実父である治済と、血縁の近い親戚でありながら幕政を主導する定信との間の権力争いと見ることができます。
- 定信が白河藩主となったのは、将軍後継者争いを避けるため、田安家から独立させる形で藩主に就かせたという側面もあります。
- 一橋徳川家: 8代将軍吉宗の四男・宗尹(むねただ)を祖とし、将軍家との血縁が近かったため、将軍後継者として特に有力視されました。
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清水家の位置付け
- 清水徳川家: 8代将軍吉宗の六男・重好(しげよし)を祖とします。
- 他の田安・一橋家と比較すると、将軍を輩出した実績がなく、政治的な影響力はやや限定的だったと評価されることが多いです。しかし、幕末には徳川昭武(慶喜の弟)がフランスへ留学するなど、国際的な活躍も見られました。
勢力争いの背景と影響
- 将軍家直系の断絶リスク: 御三卿は、御三家と並んで将軍家直系の血筋が途絶えた場合の「将軍候補」という重要な役割を担っていました。そのため、それぞれの家は自家の血筋から将軍を輩出し、幕府内での地位と影響力を高めようとしました。
- 幕府内の派閥形成: 御三卿の当主やその家臣団は、幕府の老中や大老といった要職にある者たちと結びつき、将軍後継者問題や重要人事の決定に際して、それぞれの家を推す勢力として機能しました。
- 将軍家と御三卿の関係: 将軍自身も、自身の出自である御三卿の家(特に一橋家)を優遇する傾向が見られました。例えば、11代将軍家斉は一橋家出身であり、その実父である一橋治済は将軍の「大御所」として隠然たる影響力を持ち続けました。
御三卿間の勢力争いは、江戸時代後期の将軍後継者問題や幕政の動きを理解する上で重要な要素であり、特に幕末の混乱期には、一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)が一橋家から将軍を継ぐなど、その影響力はますます大きくなりました。
まとめると、御三卿は将軍家の血統を安定させるための制度でしたが、その血筋の近さゆえに、将軍後継者争いを中心に、幕府内の重要な政治的駆け引きに深く関与する存在となりました。
徳川家治の将軍後継者問題
徳川家治の将軍後継者問題は、江戸時代中期における幕府の安定にとって極めて深刻な課題でした。10代将軍徳川家治は、本来の嫡男を早くに亡くしたことで、将軍の血筋が途絶える危機に直面し、最終的に徳川御三卿(ごさんきょう)の一橋家から養子を迎えることになります。
徳川家治の嫡男・家基の夭折
徳川家治には、側室・お知保の方(蓮光院)との間に待望の嫡男である**徳川家基(いえもと)**がいました。家基は宝暦12年(1762年)に生まれ、幼名を竹千代と称しました。家治にとって、正室との間には女子しかいなかったため、家基は将軍後継者として非常に大切にされました。
家基は幼少期から聡明で、文武両道の才に恵まれていたと伝えられています。将来の11代将軍として期待され、明和6年(1769年)には江戸城西の丸に入り、将軍後継者としての地位を確立していました。当時の老中である田沼意次も、家基を将来の将軍として育てようとしていたとされます。
しかし、安永8年(1779年)、家基はわずか**18歳(満16歳)**で突然の死を遂げます。鷹狩りの帰途、品川の東海寺に立ち寄った際に体調不良を訴え、急いで江戸城に運ばれるも、数日後に息を引き取ったとされています。この急死は、当時の人々にとっても大きな衝撃であり、家治の深い悲しみは計り知れないものでした。家基の死後、家治はそれ以降、男子を儲けることはなく、自身の血筋は断絶することとなりました。
家基急死を巡る憶測
家基の突然の死は、当時から様々な憶測を呼びました。
- 田沼意次による毒殺説: 家基が成長するにつれて田沼意次の政策を批判する姿勢を見せていたため、意次が自分の地位を脅かされることを恐れて毒殺したという説。
- 一橋家による毒殺説: 後に将軍となる一橋治済(はるさだ)が、自身の息子(豊千代、後の家斉)を将軍にするために家基を排除したという説。
これらの説は決定的な証拠があるわけではなく、あくまで「ミステリー」の域を出ませんが、当時の政治状況における権力争いの複雑さを物語っています。
後継者の選定(家斉の擁立)
家基の死により、家治には実子がいない状況となり、将軍後継者問題が喫緊の課題となりました。そこで、徳川御三卿の中から養子を迎えることになります。
- 徳川御三卿: 8代将軍吉宗が、将軍家の血統が途絶えた場合に備えて創設した分家で、田安家、一橋家、清水家の三家がありました。
- 田安徳川家: 吉宗の次男・宗武を祖とする。
- 一橋徳川家: 吉宗の四男・宗尹を祖とする。
- 清水徳川家: 吉宗の六男・重好を祖とする。
この時、将軍候補として有力視されたのは、**一橋家の豊千代(とよちよ、後の徳川家斉)**と、**田安家の賢丸(まさまる、後の松平定信)**でした。
- 豊千代(徳川家斉): 一橋治済の長男で、血筋が将軍家に近かったことから将軍候補として有力でした。
- 賢丸(松平定信): 田安宗武の子で、聡明さで知られていました。
両家の間で激しい後継者争いがありましたが、最終的には一橋家の豊千代が選ばれ、天明元年(1781年)に家治の養子となり、名を**徳川家斉(とくがわいえなり)**と改めました。この決定には、当時の老中である田沼意次の意向が強く働いたとされています。賢丸は、家治の養子となることなく、白河藩主松平定信として幕政に参画することになります。
家治の死と家斉の将軍就任
天明6年(1786年)、徳川家治が死去すると、養子となった徳川家斉がわずか15歳で11代将軍に就任しました。家斉は、歴代将軍の中でも最も長く将軍の座に就き、その後半生は「大御所政治」を展開するなど、幕政に大きな影響を与え続けることになります。
このように、徳川家治の後継者問題は、嫡男の突然の死という悲劇と、それに続く御三卿間の複雑な政治的駆け引きを経て、新たな将軍(徳川家斉)の誕生へと繋がっていく重要な転換点となりました。
浄栄寺
東京都新宿区市谷薬王寺町にある浄栄寺は、浄土真宗系の単立寺院で、正式名称を「覚雲山 浄栄寺(かくうんざん じょうえいじ)」といいます。江戸時代初期に創建され、その歴史と文化財、そして著名な文化人との深い縁で知られています。
歴史
- 創建: 元和2年(1616年)、現在の市谷田町に創建されました。開基は善乗法師と伝えられています。
- 移転: 江戸城外堀普請(外堀の建設工事)に伴い、寛永19年(1642年)に現在の市谷薬王寺町へと移転しました。
特徴と見どころ
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甘露門(かんろもん) - 新宿区指定有形文化財
- 浄栄寺のシンボルともいえるのが、この山門「甘露門」です。安永7年(1778年)に建てられたもので、その重厚な造りが特徴です。
- 薬医門(やくいもん)という形式で、太い柱や梁、大振りな屋根が重厚な印象を与えます。過剰な装飾はなく、江戸時代中・後期の建築意匠の一般的な特徴をよく伝えています。
- 扁額には「甘露門」と記されており、江戸時代の文人・狂歌師である**大田南畝(おおたなんぽ)**がこの寺を「甘露門」と呼び、度々会合を催していたことでも知られています。区内では江戸時代の寺社建築遺構が希少であることから、歴史的・文化的に重要な建造物とされています。
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梵鐘(ぼんしょう) - 新宿区登録有形文化財
- 境内には鐘楼があり、そこに吊るされている梵鐘も重要な文化財です。
- 元禄9年(1696年)に、江戸の鋳物師・西嶋伊賀守藤原兼長によって鋳造されました。この鋳物師は、区内で最も古い梵鐘(誓閑寺蔵、指定文化財)も手掛けており、江戸鋳物師の技術が頂点に達した時期の作品として貴重です。
- 銘文には当時の寺の歴史などが記されており、歴史資料としても価値があります。
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「放下着(ほうかちゃく)」一式と伝授資料 - 新宿区指定有形民俗文化財
- 浄栄寺は、かつて存在した普化宗(ふけしゅう)という宗派と関連が深い寺院でもあります。普化宗は、尺八の演奏を修行とする禅宗の一派で、明治時代に廃止されました。
- 浄栄寺には、その普化宗に関連する尺八「放下着」一式と、その伝授に関する資料が所蔵されています。江戸中期以前に作られた尺八は、当時の宗教文化や製作技術を伝える貴重な遺品として、新宿区の有形民俗文化財に指定されています。
著名な文化人との縁
- 大田南畝(おおたなんぽ): 前述の通り、狂歌師・文人として名高い大田南畝とは非常に縁が深い寺です。彼の妾(お賤さん)がこの寺で加療中に亡くなり、南畝がその供養をこの寺で行ったことが、日記などにも記されています。浄栄寺の8世住職・寿徴も南畝の門下で「雪仙」と称したと伝えられています。
- 酒井抱一(さかいほういつ): 江戸琳派を創始した絵師である酒井抱一も、浄栄寺と関わりがあったとされています。当時の江戸には多くの文人墨客が交流しており、浄栄寺もその活動拠点の一つであったと考えられます。
アクセス
- 都営大江戸線「牛込柳町」駅から徒歩5分ほど。
浄栄寺は、新宿区の住宅街にひっそりと佇む寺院ですが、その歴史的な建造物や文化財、そして江戸の文化人との交流の足跡をたどることができる、非常に魅力的な場所です。
#大河べらぼう ダイジェスト🦊
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) May 26, 2025
第20回の見どころを2分に凝縮してお届けします⏱
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