知らないことだらけの五稜郭😎ブラタモリ 函館・五稜郭▼“幕末の要塞”なぜ星形に?新選組土方歳三の最期
知らないことだらけの五稜郭
こんにちは
猫好き父さんです
タモリさんでありませんが
知らないことだらけの
五稜郭でした
ブラ五稜郭
旅の舞台は函館・五稜郭▼100万ドルの夜景で知られる函館山からスタートし、激動の時代に翻弄された“幕末の要塞”の謎に迫る旅へ。驚きの全貌&誕生のヒミツがタワーからの眺めで明らかに!“難攻不落”防御のカギは星形にあり?知られざる“もうひとつの五稜郭”その痕跡を発見!新選組・土方歳三の壮絶な最期、運命を決めたのは?日本の転換点となった戊辰戦争最後の戦い、決戦の地でタモリが聞いた“幕末の音”とは!?
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
函館なのか箱館なのか?
「函館(はこだて)」と「箱館(はこだて)」は、どちらも同じ地名ですが、時代によって表記が異なります。以下に詳しくご説明します。
🏯 歴史上の違い:函館 vs 箱館
表記 | 使用された時代 | 備考 |
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箱館 | 江戸時代末期〜明治初期 | 江戸幕府や開港五港の一つとしての歴史的名称。戊辰戦争時(五稜郭の戦い)などで使われた。 |
函館 | 明治4年(1871年)以降~現在 | 明治政府による「廃藩置県・地名表記整理」の中で、現在の「函館」に改められた。以後、公式地名として定着。 |
📜 歴史的文脈での「箱館」
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**開港五港(1859年)**の一つ:「箱館」として開港(他は横浜・長崎・神戸・新潟)。
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戊辰戦争終結の地(1869年):「箱館戦争」で新政府軍と旧幕府軍が戦った。
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榎本武揚らによる「蝦夷共和国」:このときも「箱館政権」と呼ばれた。
→ 歴史や文学、史跡に関する文献では、**この時代の表記に合わせて「箱館」**が今も使われます。
🏙 現代の「函館」
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1871年(明治4年)の地名表記変更で、現在の「函館」に統一されました。
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市町村名・鉄道駅・港湾名など、すべて「函館」として正式使用中。
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例:函館市、函館駅、函館空港、函館山、函館朝市など
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✍ 用語の使い分けのヒント
文脈 | 推奨される表記 |
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歴史(幕末・明治初期) | 箱館 |
現代の地名・観光・行政 | 函館 |
🎓 まとめ
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「箱館」=歴史的表記(幕末・明治初期に使われた)
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「函館」=現在の正式表記
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発音は同じ「はこだて」、意味も同じ
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文脈に応じて使い分けるのが◎
西洋の要塞(とくに近世以降の「星形要塞(スター・フォート)」)に五角形(五芒星)を基調とした設計が多いのは事実です。その理由は、防御効率を最大化するための軍事的・幾何学的な設計思想に基づいています。
🔰 なぜ要塞が「五角形」なのか?
1. 死角の排除
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中世の城は高い壁で囲んだ円形や方形が多かったが、大砲の登場で戦術が一変。
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「五角形+突き出した稜堡(りょうほう)」の構造にすると、どの壁面も斜めから射撃されにくく、死角が生まれにくい。
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稜堡から稜堡へ**互いに側面射撃(フランキング)**ができるのが大きな利点。
2. 効率の良い防衛ライン
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五角形は、中心から見たときに全方向をバランスよくカバーでき、兵力の分配もしやすい。
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もっと多角形にするとコストが高く、少ないと死角ができる。五角形はその中庸点。
3. 幾何学的美しさと合理性
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ルネサンス期以降の要塞設計では、数学や幾何学を重視(例:ヴォーバン式要塞)。
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例えばフランスのセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンは、五角形を含む幾何学的要塞設計で有名。
🏰 代表的な五角形要塞の例
要塞名 | 国 | 特徴 |
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パルマノヴァ要塞 | イタリア | 正五角形+星形に広がる防壁で「理想都市」としても設計。 |
ネアシュタト要塞 | ドイツ | 稜堡が発達した五角形要塞。 |
ベルフォール要塞 | フランス | ヴォーバンが関与。五角形の構造に複雑な稜堡配置。 |
✍️ 五角形に限らず「星形」にする理由
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稜堡(bastion)をつけて**「星形」にする構造**は五角形以外にも適用されるが、五角形がバランス的に優れていた。
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六角形・七角形の例も存在(地形や戦略による)するが、五角形が「最も基本で効率的」な単位とされた。
✅ まとめ
理由 | 内容 |
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防衛上の優位性 | 死角が少なく、相互援護が可能 |
幾何学的合理性 | 中心から均等に守れる形 |
節約と効果のバランス | 多角形すぎるとコスト高、少なすぎると弱点が多い |
**五稜郭(ごりょうかく)
**五稜郭(ごりょうかく)は、北海道函館市にある日本で最初の本格的な西洋式城郭(星形要塞)**です。その歴史的背景・構造・文化的意義など、詳しく解説します。
🔰 基本情報
項目 | 内容 |
---|---|
名称 | 五稜郭(正式名:亀田御役所土塁) |
所在地 | 北海道函館市五稜郭町 |
築城年 | 1857年着工、1866年完成 |
設計者 | 武田斐三郎(蘭学者・幕臣) |
構造形式 | 西洋の稜堡式要塞(星形要塞) |
築城目的 | 箱館奉行所の防衛・蝦夷地の防備強化 |
管理 | 現在は五稜郭公園として一般公開、国の特別史跡 |
🛡️ なぜ星形?
五稜郭は、**ヨーロッパの稜堡式要塞(バスティオン型)**を元にした設計です。
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星形構造により、死角がなくなり防御性が向上
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各稜堡から側面射撃が可能 → 攻撃側にとって不利な構造
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堀+土塁+石垣で堅牢に設計され、大砲への耐性が強化
※オランダの軍事工学書を参考に、武田斐三郎が設計しました。
⚔️ 五稜郭と箱館戦争
五稜郭は建設後まもなく、歴史の舞台に立たされます。
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1868年 明治維新後の戊辰戦争
→ 榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地に上陸 -
1869年 「箱館戦争」の舞台に
→ 土方歳三らが本拠地として占拠
→ 新政府軍と戦うも敗北。五稜郭は無血開城
📍 土方歳三最後の地としても有名です。
🏯 建築と構造の特徴
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五角形の堀(外周は約1.8km)
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5つの稜堡(ばすてぃおん)に囲まれた構造
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中央に「箱館奉行所」を配置(復元済み)
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土塁の高さは約5m、堀の幅は約30m
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大砲を据えるための砲座や石垣のスロープも設置
🌸 現在の五稜郭公園
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春は約1,600本の桜が咲く🌸 北海道屈指の花見スポット
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中央には復元された箱館奉行所
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周囲を一望できる「五稜郭タワー」も人気
空から見ると、見事な五芒星の城郭が浮かび上がります。
📖 文化的価値
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国指定「特別史跡」に指定(1952年)
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西洋軍事技術が日本で実践された数少ない例
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明治維新の転換点となる「箱館戦争の証人」
✨ まとめ
観点 | 特徴 |
---|---|
歴史 | 幕末~明治の重要な戦いの舞台 |
建築 | 日本唯一の本格星形要塞 |
現在 | 公園・観光地・桜の名所 |
象徴性 | 近代日本のはじまりを伝える遺構 |
他の星形要塞と五稜郭との比較
🛰️ 実際の星形要塞の航空写真
① 🇮🇹 イタリア・パルマノヴァ要塞
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建設:1593年、ヴェネツィア共和国
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特徴:正12角形の星形要塞+五角形の中心都市
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衛星画像:Google Earthなどで「Palmanova」検索
中央の五角形の市街地があり、星型に広がる稜堡と要塞壁が幾何学的に整然と構成されています。
② 🇫🇷 フランス・ネウフ=ブリザック要塞(Neuf-Brisach)
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建設:1701年、ヴォーバン設計
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特徴:16角の星形構造+同心円状の都市設計
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衛星画像:Google Earthで「Neuf-Brisach」検索
八稜堡の外側にさらに小さな半月堡(ルネット)まで設けており、幾重にも防御が施されています。
🏯 日本の五稜郭との比較
比較項目 | 星形要塞(欧州) | 五稜郭(日本) |
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築城時期 | 16世紀~18世紀 | 1866年竣工(江戸末期) |
設計思想 | 大砲による攻撃への対策 | 同様に西洋の築城術を取り入れた |
稜堡(出っ張り) | 多数(6~12以上) | 五稜(5つの稜堡) |
素材 | 石造・レンガ | 土塁・石垣+堀 |
用途 | 都市防衛・国境管理 | 箱館戦争に備えた軍事拠点 |
構造の違い | 正多角形と幾何学重視 | 西洋式を模したが、より簡素な構造 |
代表例 | パルマノヴァ、ネウフ=ブリザック | 五稜郭(北海道函館市) |
🖼️ 五稜郭(函館)の航空写真
見事な五芒星の形状。周囲に堀を巡らせ、星形要塞の基本構造を守っています。
ヨーロッパ式の稜堡(ばすてぃおん)要塞を模倣しつつも、日本独自の土塁構造が特徴。
✅ まとめ:共通点と相違点
共通点 | 相違点 |
---|---|
・星形の要塞構造・防御効率重視・大砲対策の設計 | ・ヨーロッパは石造+都市計画型、五稜郭は軍事拠点のみ・装飾性・幾何学性は欧州が高度 |
📌 豆知識:五稜郭の築城者は?
→ 幕末の蘭学者・軍学者 武田斐三郎 がオランダの要塞技術書を参考に設計しました。
なぜ決戦の地が五稜郭だったのか?
新選組を含む旧幕府軍が五稜郭を決戦の地として選んだのは、主に以下の理由が挙げられます。
要塞としての優れた防御能力:
五稜郭は、徳川幕府が箱館開港に伴う防備強化のために築造した、日本初の本格的な西洋式城郭(稜堡式城郭)です。真上から見ると星形をしており、これは銃や大砲による攻撃に対して死角がなく、効率的に防御・迎撃できるという利点がありました。5つの角が飛び出ていることで、攻めてくる敵を四方から見逃さず、集中砲火を浴びせることが可能でした。このため、圧倒的な戦力差があった新政府軍に対しても、籠城戦に持ち込めば持ちこたえられる可能性がありました。
蝦夷地(北海道)支配の拠点:
旧幕府軍は、戊辰戦争で敗れて江戸を追われた後、榎本武揚を総裁とし、蝦夷地を拠点として新政府に対抗する独立政権(蝦夷共和国)の樹立を目指していました。五稜郭は、その蝦夷地支配の中心地であり、箱館奉行所が置かれるなど、行政・軍事両面で重要な拠点となっていました。
豊富な物資と兵力:
旧幕府軍は、江戸脱出の際に軍艦や武器、物資などを集め、また各地から集結した旧幕臣や奥羽越列藩同盟の残党など、相当数の兵力を有していました。蝦夷地への入植と開拓を進める計画もあり、五稜郭は彼らの最終的な立てこもり場所として適していました。
海軍力との連携:
榎本武揚率いる旧幕府海軍は、当時日本最強とも言える軍艦群を保有しており、これを活用して新政府軍に対抗する戦略を立てていました。五稜郭は箱館湾に近く、海軍との連携を図る上でも重要な拠点でした。
新選組と五稜郭
新選組は、近藤勇が処刑された後、副長である土方歳三が率いて旧幕府軍と行動を共にし、宇都宮や会津などを転戦しました。最終的に榎本武揚率いる旧幕府軍に合流し、蝦夷地へと渡りました。
土方歳三は、五稜郭での箱館戦争において旧幕府軍の陸軍奉行並として軍を指揮し、劣勢の中、最後まで奮戦しました。五稜郭は、土方歳三をはじめとする新選組隊士たちの最後の戦いの舞台であり、その想いが尽きた地として、現在も多くの人々に記憶されています。
このように、五稜郭は単なる砦ではなく、旧幕府軍が新政府に対する最後の抵抗の拠点として、その戦略的な価値と、蝦夷地における新たな政権樹立の象徴として選ばれたのです。
なぜ旧幕府軍は箱館戦争で敗北したのか
五稜郭が優れた要塞であったにもかかわらず、旧幕府軍が箱館戦争で敗北したのは、戦略的な不利やいくつかの致命的な要因が重なったためです。
主な敗因は以下の通りです。
圧倒的な戦力差(兵力・兵器・物資):
新政府軍の圧倒的優位: 新政府軍は、明治維新によって全国の藩が統一された後の軍隊であり、最新の西洋式兵器(特にアームストロング砲などの高性能大砲や、スプリングフィールド銃などの連発銃)を大量に装備していました。また、兵力も旧幕府軍をはるかに上回っていました。
旧幕府軍の劣勢: 旧幕府軍は、戊辰戦争の敗残兵や奥羽越列藩同盟の残党が集まった寄せ集めの軍であり、装備面でも新政府軍に劣っていました。弾薬や食料などの物資補給も、新政府軍に比べて困難でした。
海軍力の決定的な喪失:
旧幕府軍が蝦夷地へ向かう上で最大の切り札は、榎本武揚が率いる強力な海軍力でした。しかし、箱館戦争の緒戦で、旧幕府軍の旗艦である最新鋭の軍艦「開陽丸」が座礁により沈没するという、致命的なアクシデントが発生しました。
これにより、旧幕府軍は制海権を失い、新政府軍は海上から自由に兵力や物資を上陸させ、さらには軍艦からの艦砲射撃で五稜郭を直接攻撃することが可能になりました(特に装甲艦「甲鉄」の存在は大きかった)。
孤立した戦い:
五稜郭はあくまで箱館という地域における要塞であり、旧幕府軍は日本の他地域からの支援をほとんど期待できませんでした。戊辰戦争の終結により、他の旧幕府勢力はほぼ掃討されており、完全に孤立した状態での戦いを強いられました。
新政府軍の戦略と組織力:
新政府軍は、戦略的に各方面から部隊を上陸させ、五稜郭を徐々に包囲していく戦術を取りました。圧倒的な兵力と物量で、旧幕府軍が築いた周辺の陣地(弁天台場、千代ヶ岡陣屋、四稜郭など)を一つずつ攻略していきました。
また、新政府軍は陸軍と海軍が連携し、効率的な作戦遂行能力を持っていました。
指揮官の戦死(土方歳三の死):
旧幕府軍の陸軍奉行並として奮戦していた土方歳三は、箱館市街での戦闘中に戦死しました。彼の死は、旧幕府軍にとって精神的にも大きな打撃となり、士気の低下につながりました。土方は卓越した戦略家であり、彼の死によって旧幕府軍の組織的な抵抗はさらに弱まりました。
脱走兵の増加:
劣勢が続き、物資も枯渇していく中で、旧幕府軍内部では脱走兵が相次ぎ、兵力がさらに減少していきました。
五稜郭は確かに優れた防御施設でしたが、これらの要因が複合的に作用した結果、最終的には圧倒的な新政府軍の前に陥落し、旧幕府軍の最後の抵抗は終焉を迎えました。
【7/19】ブラタモリに函館・五稜郭公園登場
— 函館市公式観光情報サイト (@hakobura) July 12, 2025
7月19日放送分のNHKの人気番組「ブラタモリ」で「函館・五稜郭▼“幕末の要塞”なぜ星形に?新選組土方歳三の最期」と題し、タモリさんらが五稜郭を巡ります。https://t.co/ag54mZr9YP