明治時代の「飴玉」🍬【連続テレビ小説】風、薫る(45)第9週「看病婦とアメ」
画像は公式からの引用ですあらすじ
ある日、直美(上坂樹里)は吉江(原田泰造)の教会で寛太(藤原季節)と会う。母親と思われる「夕凪」についての話を聞いた直美は…。一方病院では、フユ(猫背椿)がりん(見上愛)に手術介助を教えてもいいと言い出す。少しずつ看病婦と見習い生の関係が変わり出して…
出演者
【出演】見上愛,上坂樹里,生田絵梨花,古川雄大,菊池亜希子,平埜生成,中井友望,木越明,原嶋凛,藤原季節,原田泰造
原作・脚本
【脚本】吉澤智子,【原案】田中ひかる
音楽
【音楽】野見祐二
明治時代の「飴玉」の世界は、それまでの江戸時代の伝統的な飴から、西洋の技術が入ってきたことによる「近代的なお菓子」へとダイナミックに変貌を遂げた非常に面白い時代です。
明治時代の後半には、まさにサクマドロップスのようなカラフルで美しい飴玉が存在していました。
実は、お馴染みの「サクマ式ドロップス」が誕生したのは1908年(明治41年)のことです。千葉県出身の菓子職人・佐久間(さくま)惣治郎氏が、イギリスから輸入されていたドロップス(当時は高級品)を日本で国産化することに成功し、「サクマ式ドロップス」として発売しました。
それまでの日本の飴は、茶色や透明、あるいは白っぽいものが主流でしたが、明治後期にはクエン酸を使ったレモン味や、イチゴ味などのカラフルで甘酸っぱい、現代と変わらないドロップスが缶入りで売り出され、モダンな最先端お菓子として大ヒットしました。
🍬 明治時代の飴玉の変遷と特徴
明治時代は、大きく分けて「前半(伝統的な飴)」と「後半(西洋風の飴)」でグラデーションのように変化していきました。
1. 明治前半:江戸から続く「麦芽糖」の優しい飴
明治の初め頃、庶民が口にしていた飴玉は、お米や麦、芋などのデンプンを糖化させて作る「麦芽糖(ばくがつとう・水飴)」をベースにしたものでした。
色と形:現代のような透き通ったビビッドな色ではなく、琥珀色(茶色っぽい透明)や、空気を揉み込んで白く仕上げた「千歳飴」のような優しい色合いが中心でした。
主な種類:固い飴玉というよりは、少し柔らかい「引き飴(有平糖・あるへいとうの技術を引く継ぐもの)」や、お馴染みの「さらし飴」などが主流で、街頭の「飴売り」が独特の口上を述べながら売り歩いていました。
2. 明治中盤:砂糖の普及と「ガラス細工風」の飴の登場
明治20年代以降、国内での砂糖(ショ糖)の生産量や輸入量が増えると、飴のクオリティが劇的に進化します。麦芽糖ベースの飴に比べて、砂糖で作る飴は水分が少なく、カチッと固くて透明感が出るのが特徴です。
美しい職人技の飴:この頃になると、着色技術も進み、赤や緑、黄色といった鮮やかな色をつけた飴を組み合わせ、切っても切っても同じ絵柄が出てくる「千歳飴」の技術を応用したカラフルな組み飴(金太郎飴のルーツなど)が作られるようになりました。
「ビー玉」のような飴:当時の子供たちにとって、ガラス細工のようにキラキラと光る固い飴玉は、目で見ても楽しい憧れのおやつでした。
3. 明治後半:ドロップスと「近代菓子」の黄金期
明治30年代後半から40年代にかけて、日本の菓子メーカー(森永製菓や明治製菓の前身など、そして佐久間製菓)が次々と創業し、機械を使った大量生産が始まります。
ここで前述の「サクマ式ドロップス」が登場します。当時のドロップスは、現代のプラスチック容器や袋入りではなく、ブリキの缶に詰められて販売されていました。蓋を開けると、ルビーやエメラルドのように色とりどりの飴玉(イチゴ、レモン、オレンジ、ハッカなど)が粉(くっつき防止の粉糖)をまとって入っており、子供たちやモダンな若者たちを大いに熱狂させました。
💡 こぼれ話:明治の「のど飴」もあった!
明治時代には、風邪や喉の痛みに効く家庭薬としての「飴」も大流行しました。例えば、現在も広く知られている「浅田飴」は、1887年(明治20年)に「御薬飴(おんくすりあめ)」として誕生し、のちに「良薬にして口に甘し」のキャッチコピーで明治の人々に大ヒットしました。こちらも当時は、薬でありながら甘くて美味しい、特別な飴玉として親しまれていたそうです。
フユ「アメ、喜んでた。主人が。ありがとう」
— 朝ドラ「風、薫る」公式 (@asadora_nhk) May 28, 2026
看護婦に手術介助を教えることで、自分が楽になると気づいたフユ。
りんに手術介助を教えてくれることになりました。
👇看病婦と看護婦の距離が近づいてきましたhttps://t.co/1oHS9Ysrqb
見上愛 猫背椿#朝ドラ #風薫る pic.twitter.com/RJ62tezJUx




















