通りのM&A青山通りは大山街道の旅に続くのであった😎ブラタモリ 青山通りバスツアー▼渋谷発!東京の一等地・赤坂~表参道を行く
通りのM&A青山通りは大山街道の旅に続くのであった
こんにちは
猫好き父さんです
青山通り
普段はあまり意識することなく
通ってましたが
今回のブラタモリで
いろいろ知ることができました
単に専門家とか知識人のかたの説明だけでなくて
タモリさんが経験した話も聞けて
良かったです
特に、セントラルアパートの件は
そこを活動拠点とした
タモリさんならではのお話でしたね
そして
いよいよ
次回は
大山街道で大山詣り
伊勢原を目指すんですね
楽しみ!
ブラ青山通り
青山通りバスツアー▼赤坂・青山・表参道…東京の一等地を行く2階建てバスの旅。渋谷を出発し六本木通りから青山通りへ。六本木通りVS.青山通り高低差比べ!ステキな道の秘密は地形にあり?タモリお気に入りの三分坂&薬研坂…江戸屈指の名坂を堪能!さらには「青山」という地名の意外なルーツが明らかに…家康に仕えた大名「青山氏」の子孫が登場!青山通りと接続する表参道にタモリの原点があった?若き日の思い出が語られる
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
六本木通り
六本木通りは、東京都千代田区霞が関の国会前交差点から渋谷区渋谷の渋谷署前交差点に至る、延長約6kmの都道(東京都道412号霞ヶ関渋谷線)です。その上に首都高速道路(都心環状線や3号渋谷線)が高架で通り、地下には東京メトロ日比谷線が走る区間もあるなど、多層的な構造が特徴です。
六本木通りの主な特徴
- 交通の要衝: 内堀通りから渋谷駅付近を結び、新橋と渋谷を結ぶ都バスが頻繁に運行されるなど、都心における重要な交通路です。
- 高低差のある地形: 青山通りに比べて起伏が多く、途中にトンネルがあったり、谷を越えたりするなど、地形の変化に富んでいます。特に西麻布から六本木にかけては坂が多いです。
- 再開発による変貌: 沿道にはアークヒルズや六本木ヒルズ、東京ミッドタウンといった大規模な複合施設が立ち並び、オフィスビル、商業施設、美術館、ホテルなどが集積する現代的な街並みを形成しています。これらの施設は、もともと木造住宅が密集していた地域や防衛省の庁舎跡地などを再開発して建設されました。
- 国際色豊かなエリア: 近隣に外資系企業や各国の大使館が多く、外国人にも人気のエリアです。バーやレストランなども豊富で、夜の賑わいも特徴的です。
- 歴史と現代の融合: 江戸時代には武家屋敷が並ぶエリアであり、六本木という地名もその頃から存在したとされています。明治以降も軍事施設や洋館が立ち並び、戦後を経て、現在の華やかな街へと変貌を遂げています。特に、1964年の東京オリンピックを機に、六本木通りの拡幅、首都高の高架橋、日比谷線のトンネルが一体的に整備され、現在の多層構造が形成されました。
六本木通り周辺の主な観光スポット
六本木通り自体が観光スポットというよりも、その沿道や周辺に多くの魅力的な施設が集まっています。
- 六本木ヒルズ: 六本木のランドマークであり、高級ブランドショップ、レストラン、映画館、森美術館、展望台(東京シティビュー、スカイデッキ)など、多岐にわたる施設が集まる複合商業施設です。けやき坂のイルミネーションも有名です。
- 東京ミッドタウン: 緑豊かな広大な敷地に、ホテル(ザ・リッツ・カールトン東京)、美術館(サントリー美術館)、商業施設、公園(港区立檜町公園)などが融合した複合施設です。
- 国立新美術館: コレクションを持たず、国内外の多彩な展覧会を開催する、国内最大級の展示スペースを誇る美術館です。
- 六本木交差点: 六本木通りと外苑東通りが交差する五差路で、地下鉄六本木駅にも接続しており、待ち合わせ場所としても利用されます。
六本木通りは、その交通の要衝としての機能に加え、都心有数の商業・文化の中心地として常に進化し続けているエリアの象徴と言えるでしょう。
「麻布」という地名の由来については、いくつかの説がありますが、最も有力とされているのは、かつてこの地で麻が栽培され、麻布(あさぬの)が織られていたことに由来するというものです。
以下に主な説を挙げます。
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麻の栽培と麻布の生産説:
- これが最も広く知られている説で、字の通り「麻の布」に由来するとされています。
- 港区のウェブサイトなどでも、「現在の元麻布あたりに住んでいた当時の農民が、副業で麻の布をつくっていたのがその由来とされています」と説明されています。
- 「麻生」と書かれていた時期もあり、麻がよく育つ土地という意味合いもあったようです。
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「麻が降った」という伝説:
- 麻布山善福寺(港区元麻布にある寺院)の言い伝えによると、昔この地に麻が降ったことがあり、それを「麻布留山(あさふるやま)」と呼んだのが略されて「麻布山」となり、それが地名になったという説もあります。
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「浅茅生(あさじお)」からの転訛説:
- 浅く草の生えている土地だったため「浅生(あそう)」と呼ばれ、それが転じて「麻布」になったという説もあります。
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アイヌ語由来説:
- 少数説ですが、アイヌ語の「アサップル(向こう側へ渡る)」に由来するという説も提唱されています。これは、麻布がかつて内海に近い位置にあり、船で渡る場所だったことに起因すると考えられています。
歴史的背景
「麻布」という地名は、戦国時代の資料にも「江戸阿佐布」と記されているなど、古くから存在していたようです。江戸時代初期には745石余りの村高がありましたが、江戸の拡大に伴い、徐々に武家地や寺社地として開発が進みました。元禄年間(1688年~1704年頃)には、「麻布」という表記が定着し始めたとされています。
現在では、麻布は高級住宅地として、また大使館や外国人居住者が多く集まる国際色豊かなエリアとして知られています。その地名の由来は、古くからの農業や手工業の営みに根ざしていると言えるでしょう。
なぜ西麻布になったのか?
「霞町」が「麻布」に変わったというよりは、「麻布霞町」という旧町名が、住居表示実施によって「西麻布」などの「麻布」を冠する現在の町名に再編されたというのが正確な表現です。
主な理由は「住居表示に関する法律」の施行と、それによる町の再編です。
具体的には、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」が施行され、従来の町名・字名と地番で表示されていた住所を、よりわかりやすく合理的にするために、新しい表示方法に統一する動きが全国的に進みました。
この法律の目的は、以下のような都市化に伴う弊害を解消することでした。
- 地番と土地の並びが一致しない: 都市化により土地の区画が頻繁に変更されたり、元々田畑だった場所に道路が敷かれて宅地になったりすることで、地番の並びと実際の建物の並びが一致しなくなり、住所が非常に分かりづらくなる問題が生じていました。
- 境界の複雑化: 道路に囲まれた区画の一部が別の町になったり、複数の町域にまたがる土地が存在したりするなど、境界が複雑になり、住民や配達員にとっても混乱が生じていました。
特に、1964年(昭和39年)の東京オリンピックを前に、東京都内では集中的に住居表示の実施が進められました。
「麻布霞町」は、現在の西麻布交差点から東側、現在の西麻布1丁目全域と西麻布3丁目、六本木6・7丁目の一部に相当するエリアにありました。この「麻布霞町」という町名は、明治5年(1872年)に武家地を合併して成立したもので、隣接する桜田町にある「霞山稲荷」(現在の桜田神社)に由来するとされています。
そして、1967年(昭和42年)1月1日に、この麻布霞町の大部分と、麻布笄町、麻布材木町、麻布桜田町、麻布三軒家町、赤坂青山南町、赤坂青山高樹町などの各一部が統合され、「西麻布」という新しい町名が誕生しました。
つまり、「霞町」という単独の地名があったわけではなく、「麻布霞町」という「麻布」を冠する地名だったものが、住居表示の変更によって、より広い「麻布」エリアの一部として「西麻布」という新しい町名に整理されたということです。
これにより、多くの歴史ある旧町名が地図上から姿を消しましたが、その多くは駅名や交差点名、あるいは人々が口頭で使う通称として残り、その土地の歴史や風情を今に伝えています。霞町もその一つで、浅田次郎の小説『霞町物語』にも描かれるなど、記憶に残る地名となっています。
SKY BUS JAPAN(スカイバスジャパン)
SKY BUS JAPAN(スカイバスジャパン)は、2階建てのオープントップバスで東京やその他の都市の観光を楽しむことができるサービスです。主に日の丸自動車興業株式会社が運行しています。
スカイバスの特徴
- 開放感抜群の2階建てオープントップバス: 屋根がないため、視界を遮るものがなく、東京の街並みや高層ビル、東京タワーなどを高い目線からパノラマで楽しめます。特に、首都高速道路を走行する際の迫力は格別です。
- 気軽に楽しめる: 東京駅丸の内三菱ビルディングや各観光地にチケットブースがあり、当日券の購入も可能です(一部コースは事前予約が推奨されます)。
- 多様なコース: 皇居・銀座・丸の内コース、東京タワー・レインボーブリッジコース、お江戸東京コース(休日限定)、お台場夜景コース(金・土・日・祝日限定)など、様々なテーマのコースが用意されており、東京の多様な魅力を体験できます。
- 多言語対応の音声ガイド: 英語、中国語、韓国語などの音声ガイダンスシステムが搭載されており、外国人観光客も安心して利用できます。イヤホンも提供されます。
- 乗り降り自由な「スカイホップバス」: スカイバスとは別に、「スカイホップバス」というサービスもあります。こちらは、チケット有効時間内であれば、指定されたバス停で自由に乗り降りができる形式で、自分のペースで観光を楽しみたい方に人気です。
バス車両の種類
SKY BUS JAPANでは、主に以下のタイプの2階建てバスが使用されています。整備点検などの事情により指定はできません。
- フルオープン: 2階席全体に屋根がないタイプで、最も開放感を味わえます。
- ハーフオープン: 2階席の一部に屋根があるタイプで、雨天時や日差しが強い場合に利用されることがあります。
- カブリオレタイプ
- クリスタルタイプ
運行コース(一例)
スカイバスとスカイホップバスでは、それぞれ異なる運行コースが設定されています。
スカイバス(周遊型):
- 皇居・銀座・丸の内コース: 皇居、国会議事堂、銀座、丸の内などを巡る短時間のコース。
- 東京タワー・レインボーブリッジコース: 東京タワー、レインボーブリッジ、お台場などを巡るコース。
- お江戸東京コース(休日限定): 浅草や両国など、歴史的なエリアを巡るコース。
- お台場夜景コース(金・土・日・祝日限定): お台場の美しい夜景を楽しむコース。
スカイホップバス(乗り降り自由型):
- レッドコース(浅草・スカイツリー®コース): 浅草、東京スカイツリーなどを巡ります。
- ブルーコース(東京タワー・築地・銀座コース): 東京タワー、築地、銀座などを巡ります。
- グリーンコース(新宿・渋谷コース): 新宿、渋谷などを巡ります。
料金
コースによって異なりますが、大人(13歳以上)2,000円台から利用できます。子供料金(6-12歳)は半額程度です。3歳以下のお子様は、安全上保護者の膝上のみの乗車となります。
予約方法
- オンライン予約: 公式サイトや各種予約サイトからチケットを購入できます。
- 現地購入: 丸の内チケットカウンターやスカイツリー営業所、または空席があればバス車内でも購入可能です。
注意事項
- 天候: オープントップバスのため、雨天時にはポンチョが配布されます。ただし、雷や豪雨の場合は運行が中止されることがあります。
- 服装: 季節に応じた服装で乗車することをおすすめします。特に風を受けるため、帽子や日傘などは飛ばされないよう注意が必要です。
- 荷物: 大きな荷物やベビーカーはバスの1階で預かってもらえる場合があります。
SKY BUS JAPANは、東京の観光をユニークな視点から体験できる魅力的な手段です。時間や興味に合わせてコースを選び、特別な東京観光を楽しんでみてはいかがでしょうか。
SKY BUS JAPANの2階建てバスはチャーター(貸切)利用が可能。
団体での観光やイベント、企業研修、社員旅行など、様々な目的で貸し切り運行を依頼することができます。
チャーター利用のメリット
- 自由なコース設定: 定期観光ルート以外の、お客様のご希望に合わせたオリジナルコースを組むことができます。(ただし、運行ルートや時間帯によっては、交通状況や道路規制などで運行できない場合もありますので、事前に相談が必要です。)
- プライベートな空間: 他の乗客を気にせず、参加者だけでバスを貸し切って利用できます。
- 出発時間・場所の調整: 集合場所や出発時間を比較的自由に設定できます。(こちらも、運行会社との調整が必要です。)
- イベント利用: 車内で案内やイベントを行うことも可能です。(事前に相談が必要です。)
チャーターに関する問い合わせ先
SKY BUS JAPANを運行している日の丸自動車興業株式会社の公式サイトには、貸切バスに関する情報が掲載されています。通常は、公式サイトの「お問い合わせ」や「貸切バス」のページから、詳細を確認したり、見積もりを依頼したりすることができます。
- 日の丸自動車興業株式会社のウェブサイトを参照するか、直接電話で問い合わせるのが確実です。
注意点
- 料金: 貸切料金は、利用時間、走行距離、コース内容、車両の種類、時期(繁忙期など)によって大きく異なります。具体的な見積もりを依頼する必要があります。
- 予約: 人気のバスであるため、特に観光シーズンや週末などは早めの予約が推奨されます。
- 運行条件: 2階建てバスは、通常の観光バスよりも車高が高いため、一部通行できない道路やトンネルがあります。そのため、コース設定には制限がある場合がありますので、事前に運行会社と綿密な打ち合わせが必要です。
イベントや用途に合わせて、特別な2階建てバスの体験を企画してみてはいかがでしょうか。
青山のルーツ
「青山」という地名のルーツは、江戸時代初期に徳川家康の重臣であった**青山忠成(あおやま ただなり)**に由来するとされています。
具体的には以下の通りです。
- 青山忠成の屋敷地: 天正18年(1590年)、徳川家康が関東に入国した際、家臣である青山忠成に広大な土地が与えられました。この土地は現在の赤坂から渋谷の一部にまで及ぶ広さで、忠成はこの地に屋敷を構えました。
- 地名の定着: 青山忠成の屋敷がこの一帯のシンボルとなり、やがてその屋敷があった場所、そして周辺の一帯が「青山」と呼ばれるようになりました。江戸時代に入ると、青山を冠する多くの町名(青山浅河町、青山掃除町など)が生まれ、地名として定着していきました。
- 伝説: 家康がこの地に鷹狩りに訪れた際、供の青山忠成に「馬で走り回った範囲の土地を与えよう」と持ちかけたところ、忠成が老馬を遠くまで走らせて広大な領地を得たという逸話も残されています。
また、青山忠成の子孫である青山家は、その後、丹波篠山藩や美濃郡上藩の藩主を務めました。現在、南青山にある「梅窓院」は、青山家の菩提寺として建立されたもので、青山家との深い関わりを示しています。
このように、「青山」という地名は、自然の地形に由来するのではなく、特定の人物である徳川家康の重臣「青山忠成」の名前にそのルーツを持っているのが特徴です。現在も青山霊園など、歴史的な名残を随所に見ることができます。
青山学院について
青山学院は、東京都渋谷区に本部を置く、幼稚園から大学院までを擁する総合学園です。プロテスタント・メソジスト派のミッションスクールであり、その教育はキリスト教の信仰に基づいています。
青山学院の歴史と教育理念
- 創立: 青山学院のルーツは、1874年にドーラ・E・スクーンメーカーによって設立された女子小学校「海岸女学校」、メソジスト監督教会が設立した「耕教学舎」、およびジュリアス・ソーパーによって設立された「美會神学校」の3つのミッションスクールに遡ります。これらが統合・発展し、現在の青山学院の基礎が築かれました。
- 「青山学院」の誕生: 1894年に「東京英和学校」が「青山学院」と改称され、その後、女子系の学校も統合され、1927年には現在の青山学院の土台が作られました。新制大学としての「青山学院大学」は1949年に設置されました。
- 教育理念: 青山学院の教育は「永久にキリスト教の信仰にもとづいて、行われる」と明記されており、「神の前に真実に生き 真理を謙虚に追求し 愛と奉仕の精神をもって すべての人と社会とに対する責任を進んで果たす人間の形成」を目的としています。
- 「サーバント・リーダー」の育成: 近年では、「すべての人と社会のために未来を拓くサーバント・リーダーを育成する」というビジョンを掲げています。サーバント・リーダーとは、自ら進んで人と社会のために尽くす人物を指し、キリスト教の「隣人を自分のように愛しなさい」という精神に基づいています。
青山学院大学のキャンパスと学部
青山学院大学は、大きく分けて2つのキャンパスを持っています。
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青山キャンパス(東京都渋谷区):
- 文学部
- 教育人間科学部
- 経済学部
- 法学部
- 経営学部
- 国際政治経済学部
- 総合文化政策学部
- (これらの学部の1・2年次も含む)
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相模原キャンパス(神奈川県相模原市):
- 理工学部
- 社会情報学部
- 地球社会共生学部
- コミュニティ人間科学部
青山学院大学の主な特徴
- リベラルアーツ教育「青山スタンダード」: 青山学院大学の大きな特色の一つが、独自のリベラルアーツ教育システム「青山スタンダード」です。これは、学部・学科の枠を超えて、学生が幅広い知識や教養、技能を身につけられるように設計されており、主体的に学び、自己を確立し、社会の要請に柔軟に応えられる人材の育成を目指しています。
- 国際交流: キリスト教主義に基づく教育背景もあり、国際色豊かな環境が特徴です。国際系の学部が充実しているほか、多言語対応の教育や海外留学プログラムも盛んです。
- 都心に位置するキャンパス: 青山キャンパスは渋谷駅から徒歩圏内という都心の一等地にあり、アクセスが良く、学生生活においても多様な刺激を受けることができます。
- 就職支援: 専門相談員による個別相談や学内企業説明会、卒業生組織である青山学院校友会による就職活動支援など、手厚いサポート体制が整っています。
偏差値と入試
青山学院大学の偏差値は学部によって異なりますが、一般的に高く、55.0~66.0程度とされています(河合塾パスナビなどによる)。
入試方式は多様で、主に以下の形式があります。
- 一般選抜(個別学部日程): 各学部・学科が独自に設定する問題と、大学入学共通テストの結果を組み合わせて選抜する方式や、独自問題のみで選抜する方式があります。
- 一般選抜(全学部日程): 同一日にすべての学部・学科で試験を実施し、3種類の独自問題(マークシート方式)のみで選抜する方式です。
- 大学入学共通テスト利用入学者選抜: 大学入学共通テストの成績のみで合否を判定する方式です。
- 総合型選抜(旧AO入試など): 特定の学部で実施される、書類審査や面接などを重視する選抜方式です。2026年度からは理工学部で「理工系女子特別入学者選抜」が新設される予定です。
著名な卒業生
青山学院大学は多くの著名人を輩出しています。一部を挙げると、俳優、歌手、アナウンサー、スポーツ選手、財界人など多岐にわたります。
青山学院は、歴史と伝統を重んじつつも、常に時代とともに進化し、社会に貢献する人材の育成を目指している総合学園と言えるでしょう。
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)
雷電為右衛門(らいでん ためえもん)は、江戸時代後期に活躍した伝説的な大相撲力士です。その圧倒的な強さから「古今無双(ここんむそう)」と称され、現在でも大相撲史上最強の力士の一人とされています。
生涯と出身地
- 生没年: 1767年(明和4年)1月 - 1825年(文政8年)4月9日(旧暦2月21日)
- 出身地: 信濃国小県郡大石村(現在の長野県東御市滋野大石)
- 本名: 関 太郎吉(せき たろうきち)
相撲人生と圧倒的な強さ
- 入門: 17歳で江戸に出て浦風部屋に入門し、後に伊勢ノ海部屋の谷風梶之助(当時の横綱)の内弟子となります。
- お抱え力士: 1788年(天明8年)、22歳で出雲松江藩主松平治郷(はるさと)のお抱え力士となり、「雷電」の四股名を名乗ります。
- 初土俵と快進撃: 1790年(寛政2年)冬場所、いきなり関脇付け出しとして江戸本場所に初土俵を踏み、この場所で優勝相当の成績を収め、華々しいデビューを飾ります。
- 大関昇進: 1795年(寛政7年)には大関に昇進し、引退するまでの17年間、その地位を保持し続けました。
- 驚異的な勝率: 幕内通算成績は254勝10敗2分14預5無勝負(35場所)という驚異的な記録を残し、勝率.962という数字は、200年以上の時を経た現在でも破られていない大相撲史上最高の勝率です。
- 優勝相当成績: 優勝制度が確立されていない時代でしたが、優勝に相当する成績を28回も残しています。これは年6場所制が始まる以前の力士としては最高の記録です。
- 体格: 身長197cm、体重170kgほどと伝えられ、当時の力士としては非常に恵まれた体格でした。
- 得意技: 突っ張り、上手投げ、寄り切りを得意としました。あまりの強さに、張り手、鉄砲(双手突き)、閂(かんぬき)の3つが禁じ手とされたという逸話が有名です。もしこれらの技を自由に使っていれば、さらに圧倒的な強さを誇ったと言われています。
横綱になれなかった謎
雷電はこれほどの強さを誇りながら、現役中に横綱免許を受けることはありませんでした。その理由については諸説あり、今もって謎とされています。
- 当時の横綱は名誉職: 当時は横綱が地位ではなく、吉田司家から免許される一種の名誉的な称号であり、上覧相撲(将軍に見せる相撲)の機会がなかったため、という説。
- 抱え藩の格: 雷電を抱えた松江藩(親藩)と、横綱免許を出す吉田司家の主家である熊本細川家(外様)との関係に起因するという説。
- 「禁じ手」のエピソード: あまりの強さに禁じ手とされた技(張り手、鉄砲、閂)が原因で、相撲の品格を損なうと見なされたため、という説(これは講談ネタの可能性が高いとされています)。
功績と晩年
- 相撲界への貢献: その圧倒的な強さと人気で、江戸相撲の黄金時代を築き、大衆文化としての相撲の発展に大きく貢献しました。
- 教養: 力士としては珍しく高い教養の持ち主で、「諸国相撲控帳(雷電日記)」などの貴重な資料を残しています。これらは相撲史だけでなく、当時の社会や風俗を知る上でも重要な史料となっています。
- 引退後: 1811年(文化8年)に引退後も、松江藩の相撲頭取として力士の勧誘や番付交渉にあたったり、地方巡業を行ったりと、相撲界の発展に尽力しました。また、報土寺の梵鐘寄贈に尽力した際には、それが幕府の反感を買い、江戸払いになったという波乱もありました。
- 墓所: 東京都港区元麻布の報土寺に墓所があります。
雷電為右衛門は、その比類なき強さと、相撲界に残した大きな功績から、現在でも相撲ファンの間で語り継がれる伝説の力士です。
三分坂(さんぷんざか)
三分坂(さんぷんざか)は、東京都港区赤坂にある急勾配の坂道です。TBS放送センターの裏手から、報土寺を回り込むようにS字型に曲がっており、赤坂五丁目と七丁目の境界をなしています。
三分坂の由来
坂の名前の由来にはいくつかの説がありますが、最も有力なのは以下の説です。
- 車力(荷車を引く人夫)の賃金が増額されたため: 江戸時代、この坂があまりにも急で険しかったため、荷車を押して上る人夫に支払う賃金が、他の坂よりも「銀3分(さんぷん)」多く支払われたことに由来すると言われています。
- 「さんぷん」という読み方は重要で、「さんぶ」ではありません。当時の「さんぶ」は「四分の三両」という高額な意味になるため、誤りです。現代の貨幣価値で言えば、銀3分は数百円程度と考えられています。
- 坂下の渡し賃との比較説: 坂下に沼地があり、その渡し賃が銀1分だったのに対し、坂を荷上げする賃金が銀3分であったため、という説もあります。
いずれにしても、坂の急勾配がその名の由来となっていることがわかります。実際に訪れると、現在でもかなりの急坂であることが実感できます。
三分坂周辺の見どころ
- 報土寺(ほうどじ): 三分坂の下にある真宗大谷派の寺院です。特に、土を突き固めた上に屋根をかけた**築地塀(ついじべい)**は趣があり、港区の文化財にも指定されています。
- 雷電為右衛門の墓: 報土寺には、江戸時代に「古今無双」と称された伝説の力士、雷電為右衛門の墓があります。相撲ファンには聖地の一つとされています。
- TBS放送センター・赤坂サカス: 坂を上りきると、TBS放送センターや、商業施設、劇場などが集まる複合施設「赤坂サカス」に出ます。「サカス」という名前も「坂s(サカス)」から来ていると言われるなど、この地域の地形と密接に関わっています。
- 地形の面白さ: 急な坂道とカーブが特徴で、江戸時代の地図を見ると、崖の際に面し、崖下には沼地が広がっていた当時の地形を今に伝えていることがわかります。
三分坂は、単なる坂道ではなく、江戸時代の生活や文化、そして歴史のロマンを感じさせる場所として、港区の魅力的なスポットの一つとなっています。
青山通りに接続している素敵な通り
青山通りに接続している素敵な通りはいくつかありますが、特に魅力的な通りをいくつかご紹介します。
- 表参道: 青山通りの青山学院前から明治神宮へと続く、約1kmの並木道です。洗練された雰囲気の街並みで、高級ブランド店、おしゃれなカフェ、雑貨店などが立ち並びます。ケヤキ並木が美しく、四季折々の風景を楽しめます。
- 骨董通り: 青山通りの南青山五丁目交差点付近から南へ伸びる通りで、その名の通り、古美術品や骨董品を扱う店が多いことで知られています。近年では、おしゃれなカフェやブティックなども増え、新旧が融合した独特の雰囲気が魅力です。
- キラー通り: 青山通りの青山二丁目交差点付近から北へ伸びる通りで、正式名称は外苑西通りです。個性的なショップやレストラン、ギャラリーなどが点在し、表参道や骨董通りとはまた違った、少し落ち着いた雰囲気があります。
- みゆき通り: 銀座中央通りと晴海通りを結ぶ通りですが、青山通りからもアクセス可能です。高級ブランド店が立ち並ぶ、洗練された雰囲気の通りです。
これらの通りは、それぞれ異なる魅力を持っており、ショッピング、グルメ、散策など、様々な楽しみ方ができます。
表参道
表参道は、東京都渋谷区と港区にまたがる、東京を代表する洗練された文化・商業エリアです。その美しいケヤキ並木、国内外の高級ブランドショップ、おしゃれなカフェやレストラン、そして最先端のトレンドを発信する場所として、多くの人々を魅了しています。
表参道の概要
- 場所: 東京都渋谷区神宮前および港区北青山・南青山
- 主な通り: 青山通りから明治神宮方面へ伸びる約1kmのケヤキ並木道が「表参道」と呼ばれます。周辺には、明治通り、キャットストリート、骨董通り、みゆき通りなどが接続しています。
- 特徴:
- ファッションとトレンドの発信地: 世界的な高級ブランドの旗艦店が軒を連ね、常に最新のファッションやライフスタイルを提案しています。
- 美しいケヤキ並木: 参道の両側には美しいケヤキ並木が続き、季節ごとに異なる表情を見せます。特に秋の紅葉や冬のイルミネーションは有名です。
- 多様な文化施設: 表参道ヒルズ、ラフォーレ原宿、東急プラザ表参道原宿などの商業施設に加え、根津美術館のような文化施設も点在しています。
- グルメ: 洗練されたレストランやカフェが多く、様々なジャンルの食事が楽しめます。
表参道の歴史
表参道の歴史は、その名の通り「明治神宮への参道」として始まりました。
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明治神宮の創建と参道の整備(大正時代):
- 大正9年(1920年)、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が創建されました。
- この神宮の表玄関として、現在の青山通りから神宮へと続く幅約36mの参道が整備されました。これが「表参道」の名前の由来です。
- 参道には、神宮の荘厳さにふさわしい景観を創出するため、約1kmにわたってケヤキが植樹されました。当時としては非常に広大な道路であり、未来を見据えた壮大な計画でした。
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戦後の復興と外国人居住地(昭和初期~中期):
- 第二次世界大戦後、表参道周辺はGHQに接収され、将校や家族が居住する「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園の一部)が建設されました。
- この影響で、表参道周辺には外国人向けのショップやレストランが増え始め、国際的な雰囲気が醸成されていきました。
- 「キディランド原宿店」など、当時としては珍しい海外からの輸入玩具などを扱う店がオープンし、日本の若者文化に影響を与え始めました。
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ファッションと若者文化の中心地へ(1960年代~1980年代):
- 1964年の東京オリンピック開催を機に、ワシントンハイツが返還され、代々木公園として整備されました。
- 1970年代に入ると、竹下通りやラフォーレ原宿などがオープンし、若者向けのファッションの発信地として「原宿」エリアが注目され始めます。
- 表参道も、その延長線上でアパレルショップやカフェが増加。特に「DCブランド」ブームの際には、多くのデザイナーズブランドが店を構え、ファッション業界の中心的な存在となりました。
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世界的ブランドと再開発(1990年代~現在):
- 1990年代後半から2000年代にかけて、国内外の高級ブランドが次々と表参道に旗艦店をオープンさせました。これは、日本経済の成熟と、表参道が持つ国際的なイメージが結びついた結果と言えます。
- 2006年には、同潤会青山アパート(大正時代に建てられた日本初の鉄筋コンクリート造アパート)の跡地に「表参道ヒルズ」がオープン。安藤忠雄氏設計による独創的な建物は、表参道の新たなランドマークとなりました。
- 近年では、環境に配慮した建築物や、アートを取り入れた空間デザインなど、単なる商業施設ではない文化的な側面も強まっています。
表参道の魅力
表参道は、その歴史的背景と現代のトレンドが融合したユニークな魅力を持っています。明治神宮への聖なる参道としてのルーツを持ちながら、常に時代の最先端を走り続けるファッション、文化、商業の拠点であり続けています。美しいケヤキ並木の下を散策し、洗練されたショップやカフェを巡ることは、東京の魅力を存分に味わえる体験となるでしょう。
同潤会青山アパート
同潤会青山アパートは、かつて東京・表参道に存在した、近代日本の住宅史において非常に重要な位置を占める集合住宅でした。
同潤会青山アパートとは
- 日本最初期の鉄筋コンクリート造集合住宅: 1927年(昭和2年)に竣工しました。関東大震災(1923年)で壊滅的な被害を受けた東京の復興のため、財団法人同潤会が建設したアパート群の一つです。
- 当時の最先端をいくモダンな住居: ガス、水道、水洗トイレ、共同食堂、子供の遊び場などを備え、当時としては非常に画期的な設備とモダンなライフスタイルを提供しました。和室と洋室の両方を選べる住戸もあり、西洋と日本の住文化の融合が試みられました。
- 高い人気と憧れの的: 竣工当初から高い人気を博し、入居希望者が殺到するほどの憧れの的でした。都市の中間層(サラリーマンなど)にとって、近代的な都市生活を象徴する住まいであり、ここに住むことがステータスとされていました。
- 表参道のシンボル: 表参道のケヤキ並木に沿って建つ、蔦の絡まるレトロなコンクリート造りの外観は、長年にわたり表参道の風景の一部として親しまれ、多くの人々の記憶に残っていました。1990年代には、その独特の雰囲気から、ハイセンスなブティックやギャラリーが入居するようになり、さらに注目を集めました。
同潤会の設立と目的
「同潤会」は、関東大震災による住宅不足を解消するため、1924年(大正13年)5月に内務省が義援金を支出して設立した、日本で初めての公的な住宅供給組織です。その主な事業は以下の通りでした。
- 社会的弱者の住環境改良: 都市下層民の住環境の改善。
- 都市中間層への良質な住宅供給: 近代的な生活様式に対応した耐震耐火の鉄筋コンクリート造集合住宅の建設。
同潤会は東京と横浜を中心に計16箇所で集合住宅(アパートメント)を建設しましたが、その中でも青山アパートは特に有名でした。
なぜ取り壊されたのか
同潤会青山アパートは、その歴史的・建築的価値から保存を望む声も多くありましたが、2003年(平成15年)に解体されました。主な理由は以下の通りです。
- 老朽化: 建設から約80年が経過し、建物の老朽化が進んでいました。
- 再開発の機運: 表参道という都心の一等地にあり、再開発の機運が高まっていました。
- 権利者の合意形成の難しさ: 集合住宅の特性上、多数の権利者が存在し、全員の合意形成には長い年月を要しました。建て替えの構想は1968年頃からありましたが、住民の高齢化や世代交代などもあり、保存か全面建て替えかで意見が分かれました。最終的には、住民の居住性や経済的負担を優先し、全面建て替えの選択がなされました。
現在
同潤会青山アパートの跡地には、2006年(平成18年)に表参道ヒルズが建設されました。
表参道ヒルズの東端には、旧同潤会青山アパートの面影を残す「同潤館(どうじゅんかん)」が再現されています。これは、安藤忠雄氏の設計により、かつてのアパートの外壁の一部や部材を再利用して建設されたもので、カフェやショップなどが入っています。これにより、同潤会青山アパートの歴史と記憶が、現代の表参道の風景の中に引き継がれています。
セントラルアパート
セントラルアパート(正式名称:原宿セントラルアパート)は、かつて東京都渋谷区の表参道と明治通りの交差点の北東角に位置していた集合住宅であり、1960年代から1970年代にかけての原宿カルチャー、特に若者文化やクリエイティブシーンを象徴する伝説的な場所でした。
セントラルアパートの概要と歴史
- 建設と初期の入居者: 1958年(昭和33年)に、地上7階、地下1階建ての建物として竣工しました。当初は外国人向けの高級賃貸マンションとして建てられ、米軍関係の貿易商などの外国人が多く入居していました。セントラル空調や給湯設備、電話交換室など、当時としては先進的な設備を備えていました。
- クリエイターの聖地へ: 1960年代後半から1970年代にかけて、このアパートには、ファッションデザイナー、コピーライター、カメラマン、編集者、スタイリスト、ミュージシャン、俳優など、当時を代表する新進気鋭のクリエイターたちが次々と事務所や住居を構えるようになりました。
- 糸井重里、タモリ、植草甚一、伊丹十三、寺山修司、浅井慎平、中村紘子、高橋靖子など、ジャンルを超えた多くの著名人が出入りし、交流していました。
- 伝説的な雑誌『話の特集』の編集部もここにありました。
- 文化の発信拠点: アパートの1階には喫茶店「レオン」があり、ここがクリエイターたちの「たまり場」「サロン」となっていました。ここで様々な情報交換や打ち合わせが行われ、多くのアイデアやプロジェクトが生まれたと言われています。
- 「セントラルアパートの1階から7階までをぐるっと回れば雑誌が1冊作れる」とまで言われるほど、多くのクリエイティブな才能が集積していました。
- 地下にあったブティック「原宿プラザ」は、一時期ロックミュージシャンも訪れるアングラ的なマーケットとして知られました。
- 原宿カルチャーの象徴: セントラルアパートは、単なる建物ではなく、戦後の日本における若者文化、ファッション、アート、そしてライフスタイルの源泉の一つとなりました。既存の価値観にとらわれない自由な発想と、新しいものを生み出すエネルギーが充満していた場所として、多くの若者の憧れの的でした。
- 終焉: 1990年頃からテナントの退出が進み、徐々に寂れていきました。そして、1998年(平成10年)には建物が解体され、その歴史に幕を下ろしました。
現在のセントラルアパート跡地
セントラルアパートの跡地には、1999年(平成11年)に商業施設「ティーズ原宿」が開業しました。その後、2012年(平成24年)には「東急プラザ表参道原宿」(通称「オモカド」)がオープンし、現在に至っています。
「令和のセントラルアパート」
近年、原宿の街が変化し、かつてのクリエイティブな「草の根」文化が薄れてきているという声がある中で、2024年4月に開業した新商業施設「東急プラザ原宿『ハラカド』」は、**「令和のセントラルアパート」**を目指すというコンセプトを掲げています。ここには、クリエイターが活動できるプラットフォームや、多様な人々が集い交流できる場が設けられており、かつてのセントラルアパートのように、新しい文化を生み出す拠点となることが期待されています。
セントラルアパートは、現存しない建物ではありますが、その存在は日本のサブカルチャー史、ファッション史、そしてクリエイティブ業界の発展を語る上で欠かせない、まさに「伝説」として今も語り継がれています。
『ブラタモリ』“青山通り”のルーツを町歩き+バスツアーで解明
— TVLIFE(テレビライフ公式) (@tv_life) June 14, 2025
タモリ「江戸が生きているステキな道でした」
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