飲んでみたいなマウント穂高(Mount Hotaka)🍸ブラタモリ 山岳リゾート上高地▼なぜ人気観光地に?神秘の池&謎の風穴
飲んでみたいなマウント穂高(Mount Hotaka)🍸
こんにちは
猫好き父さんです
ほんとに
学びの多いブラタモリですが
最後の最後で
あんな絶景をのなかで
しかも
上高地帝国ホテルのカクテル
マウント穂高(Mount Hotaka)が
飲めるなんて最高です
もうどうでもいいですよね(笑)
ブラ上高地
旅の舞台は長野・上高地。冬にはマイナス25度を超える過酷な環境で人が住むには困難な上高地が、なぜ日本屈指の山岳リゾートになったのか?旅のスタートは神秘的な池へ。江戸時代の人々の営みを穂髙神社奥宮で探る!その名が世界に広まるきっかけは、穂高連峰を知り尽くした杣(そま)人の存在にあった?さらに世界遺産・富岡製糸場に影響を与えた風穴を発見!上高地の玄関口・釜トンネルへと繋がる奇跡の道のりにタモリ大興奮!
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
穂髙神社奥宮(ほたかじんじゃおくみや)は、上高地の景勝地として知られる明神池のほとりに鎮座する神社で、北アルプス登山の守護神として知られています。
穂髙神社(長野県安曇野市)の奥宮にあたり、安曇野にある本宮、上高地にある奥宮、奥穂高岳山頂にある**嶺宮(みねみや)**の三社で一体をなしています。
穂髙神社奥宮の概要
1. 御祭神と由緒
御祭神: 穂高見命(ほたかみのみこと)
海神(わたつみのかみ)の御子神とされ、古くは航海術に優れた安曇(あずみ)族の祖神として奉斎されました。
神話では、奥穂高岳の頂上に天降ったと伝えられています。
由緒:
古くから日本アルプスの総鎮守、そして海陸交通の守護神として信仰されています。
奥宮の場所は、御祭神が天降ったとされる穂高岳の麓、明神池畔にあります。
2. 所在地とアクセス
所在地: 長野県松本市上高地明神
アクセス:
上高地バスターミナルから、梓川沿いのハイキングコースを歩いて徒歩約1時間です。
河童橋からは、梓川の左右どちらの岸を通ってもアクセスできます(所要時間は片道約1時間)。
3. 明神池(神域)
奥宮の奥には、神域である**明神池(みょうじんいけ)**があります。
明神池は、穂高岳の岩盤の崩落と湧水によってできた池で、鏡のような水面に穂高岳や周囲の針葉樹林を映し出す、神秘的な雰囲気を持つパワースポットです。
明神池の拝観には、別途**拝観料(大人500円など)**が必要です。
参拝期間とその他情報
1. 参拝期間と時間
営業期間: 4月下旬~11月中旬頃まで
上高地の開山期間に合わせているため、冬季は積雪により閉鎖されます。
営業時間: 概ね6時~17時まで(季節により変動あり)
2. 奥宮例祭
毎年10月8日に奥宮例祭(紅葉祭り)が執り行われます。
この日には、日本アルプス山岳遭難者慰霊祭もあわせて行われます。
3. 穂髙神社の構成
穂髙神社は、以下の三つの宮から成り立っています。
本宮: 長野県安曇野市穂高に鎮座する、里の神社。
奥宮: 上高地・明神池畔に鎮座する。
嶺宮(みねみや): 北アルプスの主峰、奥穂高岳の頂上(標高3,190m)に祀られています。
穂高神社(ほたかじんじゃ)の「嶺宮遥拝所(みねみやようはいしょ)」は、遥か遠くの**嶺宮(奥穂高岳山頂)**に鎮座する御祭神を拝むための場所です。
穂高神社は、本宮(里宮)、奥宮(上高地)、そして嶺宮(奥穂高岳山頂)の三つの場所に宮を構える、日本アルプスの総鎮守として信仰されています。
嶺宮遥拝所の概要
1. 嶺宮(みねみや)とは
場所: 北アルプスの主峰である**奥穂高岳の山頂(標高3,190m)**に鎮座しています。
由緒: 御祭神である**穂高見命(ほたかみのみこと)**が降臨された山と伝えられ、古くから霊山として崇められています。
登山: 嶺宮への参拝は、厳しい登山を伴うため、誰もが容易に行ける場所ではありません。
2. 遥拝所(ようはいしょ)の役割
遥拝所は、この奥穂高岳山頂の嶺宮へ直接参拝できない人が、遠くから拝むことで参拝と同じご利益を得られるように設けられた場所です。
本宮の遥拝所: 長野県安曇野市にある穂高神社本宮の境内にも遥拝所が設けられています。
上高地の遥拝所: 上高地内の明神池のほとりにある奥宮でも、嶺宮を遥拝することができます。
3. 旧嶺宮社殿の移築
安曇野市にある嶺宮遥拝所のうちの一つは、もともと奥穂高岳山頂に祀られていた旧嶺宮のお社を、平成28年(2016年)の式年遷宮を記念して山を下ろし、神池の畔などに移築したものです。
嶺宮遥拝社を拝むことは、奥穂高岳山頂の嶺宮を参拝したことにもなるとされています。
江戸時代、現在のような観光地となる遥か以前から、上高地は松本藩による重要な材木の伐採拠点でした。
当時の上高地は、人々の暮らしや産業を支えるための木材を供給する場所として、非常に重要な役割を担っていました。
1. 伐採の主体と目的
主体: 江戸時代の上高地における木材伐採は、主に松本藩によって行われていました。
目的: 藩の財政や、城下町(松本など)の建設・維持に必要な材木を確保するためでした。伐採された木材は、主に梓川を利用して下流へ運ばれ、さらに遠くは江戸へも運ばれたとされています。
2. 「上高地」という地名の由来の一説
江戸時代の材木伐採の歴史は、現在の「上高地(かみこうち)」という地名の由来に関係しているという説があります。
区分け: 当時、木材の「切り賃」(伐採費用)は、木を切る場所によって異なり、梓川沿いの谷の中を**「上河内(かみこうち)」、それ以外の場所を「下山(しもやま)」**と区分していました。
由来: この「上」「下」の区分が、現在の「上高地」の「カミ」の由来ではないかと考えられています。
3. 杣人(きこり)たちの生活と輸送
杣人(きこり): 春になるとふもとの集落から山を越えて上高地へ入り、小屋を構えて木を伐採し、秋になると山を下りるという生活を送っていました。年間約200人もの杣人が上高地で働いていた時期もあったとされます。
運搬方法: 伐採された木材は、主に**梓川を利用した「流送(りゅうそう)」**という方法で下流へ運び出されました。流送は、木材を直接川に浮かべ、水流の力で下流へ流す、当時の最も効率的な運搬方法でした。
当時の風景: 江戸時代の終わり頃にはかなりの木が伐採されていたため、現在の豊かな原生林の風景とは異なり、当時の上高地は今とは全く違う風景だっただろうと推測されています。
この木材伐採の時代を経て、明治以降になると、上高地は牧場や登山の黎明期を迎え、現在の観光地としての姿へと変わっていきました。
「杣(そま)」は、日本の歴史において非常に重要な役割を果たしてきた言葉であり、時代によって意味合いが変化してきました。
現代では主に林業従事者や木こりを指す言葉として使われますが、もともとは山林そのものを意味していました。
杣(そま)の主な意味
「杣」という漢字は、「山」と「木」を組み合わせた国字(日本で作られた漢字)であり、主に以下の3つの意味を持ちます。
| 意味 | 概要 | 読み方 |
| 1. 山林・伐採地 | 古代から中世にかけて、国や大寺社、貴族などが建築用材を確保する目的で所有した特定の山林。後の世の「杣山(そまやま)」にあたります。 | そま |
| 2. 材木 | 杣山に生えている木、またはそこから切り出された木材(杣木:そまぎ)。 | そま |
| 3. 杣人(そまびと) | 木を伐採し、運び出すことを生業とする人。木こり、杣師(そまし)とも呼ばれます。近世・近代以降はこちらの意味が一般的になりました。 | そま、そまびと |
杣の歴史的背景と役割
1. 古代・中世(杣山時代)
大事業の基盤: 都の造営(藤原京、平安京など)や大規模な寺院(東大寺など)の建立には大量の木材が必要でした。この木材を計画的かつ安定的に供給するために、特定の山林が「杣」として設定され、国家や権門勢力によって厳重に管理されました。
専門の組織: 杣には「杣司(そまし)」などの担当者が置かれ、「杣工(そまく)」や「筏師(いかだし)」らを率いて、伐採から製材、そして川を使った流送(りゅうそう)による輸送までを一貫して行っていました。
2. 近世(江戸時代)
林業従事者へ: 杣は「林業を生業とする人々」を指す言葉へと変化していきました。この時代、各大名や幕府は藩の財政や都市の維持のために、山林を厳しく管理しました。
専門職の分業: 木を切り倒す**杣(きこり)と、切り出した丸太を鋸でひき、柱や板などの材木に加工する木挽(こびき)**という専門職に分かれ、協力して仕事を進めていました。
上高地での活動: 前述の通り、上高地のような山間地の森林は、松本藩の御用杣(ごようそま)として木材の供給源となっていました。彼らは、厳しい自然環境の中で生活し、山と人々の暮らしをつなぐ重要な役割を担っていました。
3. 現代
「杣人(そまびと)」や「木樵(きこり)」は、林業従事者を指す言葉として、森林の維持管理や伐採・植林など、林業のサイクル全体を担う人々への敬意を込めて使われることがあります。彼らは、自然環境に精通し、山を守り育ててきた伝統的な技術と文化を継承しています。
上條嘉門次(かみじょう かもんじ)は、幕末から大正にかけて、**上高地を拠点に活躍した伝説的な猟師であり山案内人(山岳ガイド)**です。
彼は、日本の近代登山において欠かせない人物であり、「上高地の主(ぬし)」「穂高の仙人」とも称されました。
1. 概要と経歴
| 項目 | 内容 |
| 生没年 | 弘化4年(1847年) - 大正6年(1917年) ※没年は1918年説もあります。 |
| 出身 | 信濃国(現・長野県) |
| 主な職業 | 猟師、杣(きこり)の見廻り人夫、山案内人(山岳ガイド) |
| 活動拠点 | 上高地・明神池畔 |
| 功績 | ウォルター・ウェストンをはじめとする多くの近代登山家を北アルプスへ案内し、日本の近代登山の発展に大きく貢献しました。 |
2. 上高地での生活と「山人」としての顔
山でのキャリア: 少年時代から父に連れられて上高地に入り、杣(きこり)小屋で炊事係(カシキ)の手伝いをするなど、山仕事に従事しました。その後、藩の山の見廻り人夫の助手となり、上高地一帯を歩き回ることで、山での経験を積み重ねました。
卓越した猟師: 彼は非常に腕の良い猟師として知られ、生涯でクマ80頭、カモシカ500頭は仕留めたと伝えられています。釣り師としても優れており、特にイワナ釣りは有名でした。
嘉門次小屋の開設: 明治13年(1880年)に明神池畔に小さな小屋を建てて山暮らしを始めました。この小屋が現在の「嘉門次小屋」として、上高地の歴史と伝統を受け継ぐ山小屋になっています。小屋の囲炉裏の間は、国の登録有形文化財に指定されています。
3. 日本近代登山の発展への貢献
嘉門次さんの最大の功績は、日本の近代登山黎明期において、数々の著名な登山家を北アルプスの深奥部へ安全に導いたことにあります。
W.ウェストンとの出会い: イギリス人宣教師で「日本近代登山の父」と呼ばれるウォルター・ウェストンが日本アルプスを探検した際、嘉門次さんを山案内人として雇いました。ウェストンは、その著書『日本アルプスの登山と探検』の中で、嘉門次さんを「ミスターカモンジ」として紹介し、世界にその名を知らしめました。
穂高岳の開拓: 1893年には、測量士の館潔彦(たて きよひこ)と共に前穂高岳に初登頂を成し遂げたほか、ウェストンを案内して穂高連峰の難ルートを歩き、北アルプス登山の道筋をつけました。
嘉門次さんの名前は、上高地を訪れる多くの登山者にとって、自然と共生し、山を開拓した先駆者として、今なお語り継がれています。
富岡製糸場
富岡製糸場は、日本の近代化と国際的な絹産業の発展に重要な役割を果たした産業遺産であり、2014年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
概要と歴史的意義
富岡製糸場は、明治政府が近代化政策(富国強兵)の一環として、主要輸出品であった生糸の品質向上と大量生産を目指して設立した、日本初の本格的な官営模範器械製糸工場です。
1. 設立
操業開始: 1872年(明治5年)
背景: 幕末の開国後、日本の生糸輸出は急増しましたが、品質の低下が国際的な信用問題となりました。これを受け、明治政府が国策として西洋の最新技術を導入した模範工場を建設しました。
指導者: フランス人技師ポール・ブリュナを雇い、技術指導と工場の建設・運営にあたらせました。
2. 特徴的な建築
富岡製糸場の建物は、当時の最先端の西洋技術と日本の伝統的な工法が融合した**「木骨煉瓦造(もっこつれんがづくり)」**という独特の構造が特徴です。
繰糸所(国宝): 繭から生糸を繰る作業が行われた工場。フランスから導入した繰糸器300釜を設置し、当時世界最大級の規模を誇りました。内部はトラス構造と呼ばれる西洋の建築技術により、中央に柱のない大空間が実現されています。
東・西置繭所(国宝): 繭を貯蔵するための倉庫。長さ100mを超える巨大な建物です。
3. 役割と影響
富岡製糸場は、単なる工場に留まらず、日本の近代化の牽引役となりました。
技術の普及: 全国から集められた若い女性作業員(工女)がフランス人技術者から器械製糸の技術を習得し、故郷に戻った後、各地の製糸工場で指導者となって技術を広めました。
絹産業への貢献: 高品質で安価な生糸を大量に生産することで、世界の絹産業の発展に貢献し、絹が一部の特権階級だけでなく、世界中の人々の手に届くものとなるきっかけを作りました。
日本の「ものづくり」の原点: 西洋の技術をそのまま導入するだけでなく、日本の風土や工女の体格に合わせて独自に工夫し、高品質の製品を作り上げた姿勢は、「ものづくり日本」の原点とも言えます。
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」
富岡製糸場単体ではなく、生糸生産の全工程における技術革新を伝える4つの資産が一体となって登録されています。
| 構成資産 | 所在地 | 役割 |
| 富岡製糸場 | 群馬県富岡市 | 製糸技術(器械製糸)革新の主要舞台。 |
| 田島弥平旧宅 | 群馬県伊勢崎市 | 養蚕技術「清涼育」の原型となった養蚕農家。 |
| 高山社跡 | 群馬県藤岡市 | 養蚕技術「清温育」を確立・普及させた教育機関の跡。 |
| 荒船風穴 | 群馬県下仁田町 | 蚕種(蚕の卵)を貯蔵・保存した自然の冷蔵庫。 |
これらの遺産は、日本の近代化を支えた生糸生産の技術革新の全体像と、その技術が世界に広まっていった様子を今に伝えています。
「上高地の風穴」というよりは、上高地のふもとを含む長野県の安曇野・松本地域(旧安曇村など)一帯で、明治時代から昭和初期にかけて盛んだった養蚕業(ようさんぎょう)を支えた産業です。
この技術と産業は「蚕種(さんしゅ)冷蔵風穴」と呼ばれ、日本の近代化における主要な輸出品であった生糸の増産に極めて重要な役割を果たしました。
蚕種冷蔵風穴の仕組みと役割
1. 養蚕の多回化(夏秋蚕の増産)
蚕は通常、気温に合わせて年に1回(春蚕)しか飼育できませんでした。増産のためには、年に2回、3回と飼育する(夏秋蚕)ことが求められました。
風穴の活用: 蚕の卵(蚕種)は、一定の期間、冬の寒さを経験させないと孵化しません。風穴は、山の斜面の岩の隙間から吹き出す冷風を利用して、年間を通して摂氏5度~8度程度の低温を保つ天然の冷蔵庫です。
人工的な冬眠: この冷風穴に蚕種を貯蔵することで、卵の孵化の時期を人工的に遅らせ、夏や秋にも養蚕を可能にしました。これにより、日本の生糸原料である繭の生産量が飛躍的に増加しました。
2. 長野県が発祥の地
風穴の技術は、もともと食料や氷の保存に使われていましたが、養蚕への利用は長野県(特に佐久地域など)が発祥とされています。その後、この技術は群馬県の荒船風穴(世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産)などに伝わり、全国に広まりました。
3. 上高地周辺の風穴利用
上高地の玄関口にあたる旧安曇村(現在の松本市安曇)の地域にも風穴が多く存在し、実際に蚕卵紙(さんらんし:蚕の卵を産み付けた紙)の貯蔵が行われていました。
道の駅「風穴の里」: 現在、上高地へ向かう途中の道の駅「風穴の里」の敷地には、当時の名残として風穴が残されており、現在は地元の漬物や地酒などの熟成・貯蔵に利用されています。
4. 産業の終焉
風穴を用いた蚕種の冷蔵は、明治時代後半から大正時代にかけて最盛期を迎えました。しかし、大正時代に入り、**人工孵化技術(塩酸処理による休眠打破)**が開発されたことや、昭和初期の世界恐慌を経て養蚕業自体が衰退したことにより、風穴の産業としての役割は終焉を迎えました。
「風穴本元(ふうけつほんもと)」とは、長野県松本市安曇地区の**稲核(いねこき)**という集落にある、蚕種貯蔵風穴の先駆けとなった歴史的な施設です。
これは、日本の近代養蚕業の発展に極めて重要な役割を果たした技術の「発祥の地」として位置づけられています。
風穴本元の概要と歴史的意義
1. 稲核(いねこき)と風穴発祥
風穴本元は、稲核の旧家である前田家の裏に現存しています。
起源: 稲核では、300年以上前の江戸時代(宝永年間:1704年頃)から、天然の冷風が吹き出す「風穴」を漬物や食料の保存庫として利用していました。
蚕種冷蔵への応用: 幕末の**文久年間(1861~1864年)**頃、前田家がこの風穴の冷気を応用し、蚕の卵(蚕種)を冷蔵保存する技術を開発しました。
2. 養蚕業への革命的な貢献
この蚕種冷蔵の技術は、当時の日本の主要な輸出品であった生糸の生産に革命をもたらしました。
養蚕の多回化: 従来の養蚕は年に1回(春蚕)が主でしたが、風穴で蚕種の孵化時期を人工的に遅らせることで、年に3~5回の多回生産(夏秋蚕)が可能になりました。
「本元」の地位: 稲核の前田家の風穴は、この技術を初めて開発・確立した場所として「風穴本元」と呼ばれ、その名が全国に知れ渡りました。そのノウハウは全国の養蚕家に影響を与え、群馬県の荒船風穴(世界遺産)など、大規模な蚕種貯蔵風穴の建設にも繋がりました。
3. 風穴本元の構造と現状
前田家の風穴本元は、明治初期(明治12年頃)に創建された二階建ての蔵造りの建物で、背後の崖錐堆積物に接し、その隙間から吹き出す冷気を貯える構造になっています。
現在の状況: 養蚕業での役割は終えましたが、建物自体は現存しており、歴史産業遺産としてその価値が認められています。現在でも、種苗や食品などの冷蔵に利用されていますが、一般の見学はできません。
風穴本元は、上高地一帯の山岳地域が、日本の近代化を支えた蚕糸業の技術革新において、中心的な役割を果たしたことを示す貴重な遺構です。
上高地の玄関口である釜トンネルは、上高地へのアクセスにおいて非常に重要な役割を果たすトンネルです。
釜トンネルについて、その概要、歴史、そして現在の役割をご説明します。
釜トンネルの概要と役割
釜トンネルは、長野県道24号上高地公園線にあり、人里離れた上高地渓谷へ車でアクセスできる唯一の車道です。
| 項目 | 詳細 |
| 場所 | 長野県松本市安曇 中ノ湯~上高地 |
| 全長 | 1,310メートル(現在の新トンネル) |
| 勾配 | 最大10.9パーセント(トンネルの両端で標高差が約100m) |
| 名称の由来 | 隣接する梓川の急流が狭い場所を流れ、水しぶきがまるで煮え立つ大釜(カマ)から立ち上る湯気のように見える**「釜ヶ淵(かまがふち)」**に因んでいます。 |
1. 歴史的役割(旧トンネル)
現在のトンネルは2代目で、初代の釜トンネルは1928年(昭和3年)頃に水力発電所(霞沢発電所)の建設資材運搬用道路として開通したのが始まりです。
当初は幅が狭く、急勾配で急カーブもある「名物」の難所でした。特に観光シーズンには大渋滞を引き起こす原因となっていました。
2. 現在の役割(新トンネル)
環境保全と交通の円滑化のため、2005年(平成17年)に現在の新しい釜トンネルが開通しました。これにより、渋滞は大幅に解消されました。
このトンネルは、上高地の豊かな自然を守るための環境規制の境界線としての役割を担っています。
釜トンネルと交通規制
上高地は自然保護のため、年間を通して**マイカー規制(カーレスリゾート)**が適用されており、一般車両は釜トンネルより奥へ通行することができません。
通行規制の概要(2025年予定)
規制区間: 県道上高地公園線の全区間(釜トンネル入口より通行止め)
規制対象: 自家用車(自動二輪含む)は通年通行禁止です。
通行可能な車両: **バス、タクシー、軽車両(自転車など)**に限られています。
| 期間 | 通行可能時間帯 |
| 開通期間中(4~6月、9~11月) | 午前5時~午後7時 |
| 7月・8月 | 午前5時~午後8時 |
| 冬季閉鎖期間(11月中旬~翌年4月中旬頃) | 全面通行止め |
上高地へのアクセス方法
マイカーで上高地へ向かう場合は、釜トンネルの手前にある指定駐車場で車を停め、シャトルバスまたはタクシーに乗り換える必要があります。
長野県側: **沢渡(さわんど)**の駐車場を利用
岐阜県側: **あかんだな駐車場(平湯)**を利用
釜トンネルは、上高地の美しい自然環境を守りながら、人々をその絶景へと導く重要な「玄関口」なのです。
大正池の水を利用した水力発電所の建設が、初代釜トンネルが掘られた主要な理由です。
このプロジェクトは、上高地の景観と交通の歴史に大きな影響を与えました。
1. 大正池を利用した電源開発
発電所計画の背景
大正池の誕生: 大正4年(1915年)に焼岳が大噴火した際に噴出した泥流が梓川を堰き止めて、大正池が形成されました。
発電計画: この自然の湖(池)を調整池として利用し、高低差(有効落差)を生かした水力発電の計画が、当時の梓川電力株式会社(後に東京電力に統合)によって進められました。
霞沢(かすみざわ)発電所の建設
着工・竣工: 大正15年(1926年)に着工し、昭和3年(1928年)に運転を開始しました。
構造: 大正池の取水口から、霞沢岳の直下を貫通する全長約8kmもの地下水路を建設し、沢渡(さわんど)で約450mの有効落差を得て発電を行う水路式発電所です。
現在の役割: 大正池は現在も、霞沢発電所の調整池としての機能を維持しています。土砂流入を防ぐための浚渫作業が毎年続けられており、これは発電機能の維持と、上高地の美しい景観の維持の両方に貢献しています。
2. 初代釜トンネルの掘削目的
工事資材の運搬路として
初代の釜トンネルは、この霞沢発電所建設のために、工事資材を上高地へ運搬する専用の軌道として掘削されました。
時期: 諸説ありますが、**昭和初期(1927年頃、昭和2年頃)**に開通したとされています。
当初の構造: 当初は水力発電工事用の資材運搬軌道であったため、非常に狭く、急な勾配(最大15%とも)がある厳しいトンネルでした。
観光・交通への転用
一般供用: トンネルの開通は、それまで非常に困難であった上高地へのアクセスを一変させました。昭和8年(1933年)にはバスが初めて乗り入れ、観光地としての本格的な上高地の歴史が始まりました。
「上高地の衛兵」: 初代釜トンネルの狭さや急勾配は、かえって大型車両の通行を制限する役割を果たし、結果的に長年にわたり、排気ガスや過剰な交通から上高地の自然環境を守る**「上高地の衛兵」**とも評されました。
初代釜トンネルはその後、土砂崩れ対策などで接続トンネルが掘り足されるなど改良が加えられ、長きにわたり上高地の玄関口として利用され続けました。
日本新八景
**昭和2年(1927年)**は上高地の歴史において非常に重要な年であり、上高地が全国的な観光地として一躍有名になる大きなきっかけとなりました。
これは、新聞社主催で実施された「日本新八景」の選定によるものです。
1. 「日本新八景」選定の概要
主催と後援: 大阪毎日新聞社と東京日日新聞社(現在の毎日新聞)が主催し、鉄道省(現在のJRの前身)が後援するという、当時としては極めて大規模なメディア・イベントでした。
選定年: 昭和2年(1927年)
目的: 「昭和の新時代を代表すべき新日本の勝景」を選び出し、観光振興を図ること。
選定方法:
一般投票: 国民から官製ハガキによる推薦投票を募りました。投票総数は約9,300万通に上る一大イベントとなりました。
審査委員会: 投票結果を参考に、学識経験者や名士からなる審査委員会が最終的な審議を行い、各部門の景勝地を決定しました。
2. 上高地の選定と観光ブーム
上高地は、日本新八景の渓谷部門において選定されました。
| 部門 | 選定地 |
| 渓谷 | 上高地渓谷(長野県) |
| 山岳 | 温泉岳(雲仙岳)(長崎県) |
| 湖沼 | 十和田湖(青森県・秋田県) |
| 瀑布 | 華厳滝(栃木県) |
| 河川 | 木曽川(愛知県) |
| 海岸 | 室戸岬(高知県) |
| 平原 | 狩勝峠(北海道) |
| 温泉 | 別府温泉(大分県) |
名声の確立: この選定により、上高地の名声は一気に全国へ広まりました。特に鉄道省の後援があったことから、選ば定地は観光客誘致の目玉として大いに宣伝されました。
その後の指定: 日本八景選定の翌年、昭和3年(1928年)には、上高地は国の名勝および天然記念物に指定され、さらに昭和27年(1952年)には特別名勝および特別天然記念物に格上げされました。
交通の進展: 日本八景選定の背景には、すでに釜トンネルの掘削や、バス路線の延長など交通インフラの整備が進められていたこともあり、この選定は上高地を「遠い山岳地帯」から「誰もが訪れることができる観光地」へと変貌させる決定的な契機となりました。
この「日本新八景」選定は、上高地が現代の山岳リゾート・景勝地としての地位を確立する上での、重要な出発点となった出来事だと言えます。
上高地帝国ホテル
上高地帝国ホテルは、昭和8年(1933年)に開業した日本初の本格的山岳リゾートホテルです。日本の近代観光史において象徴的な存在であり、上高地のシンボル的な建物として知られています。
中部山岳国立公園内の自然豊かな場所に位置し、毎年4月下旬から11月上旬までの季節営業を行っています。
ホテルの歴史と特徴
1. 建築とデザイン
上高地帝国ホテルの外観は、**スイス・アルプスの山小屋(シャレー)**をモチーフとした独特のスタイルが特徴です。
赤い三角屋根と丸太小屋風の外観: 赤い三角屋根と木材を多用した丸太小屋風のデザインは、開業当初から変わらず上高地の美しい景観に溶け込んでおり、ホテルのシンボルとなっています。
設計: 初代の建物は、高島屋日本橋本店などを手掛けた建築家、**高橋貞太郎(たかはし ていたろう)**によって設計されました。
マントルピース: ロビーラウンジの吹き抜け中央には、シンボル的な存在の**巨大なマントルピース(暖炉)**があり、木のぬくもりを感じさせる空間でゲストを迎えます。
現在の建物: 初代の木造建築は老朽化のため、昭和52年(1977年)に現在の鉄筋コンクリート造(RC造)の建物に建て替えられましたが、創業当時の外観イメージは忠実に継承されています。
2. 食事とサービス
「帝国ホテル」の名にふさわしい、質の高い料理とサービスが提供されます。
フランス料理: メインダイニングの「ダイニングルーム」では、帝国ホテル伝統のフレンチに、信州の旬の素材を取り入れたフルコースが楽しめます。
和食: 日本料理を提供する「あずさ庵」もあります。
カジュアルダイニング: 散策の途中に利用できるカジュアルレストラン「アルペンローゼ」では、帝国ホテル伝統のビーフカレーや、帝国ホテル発祥とされるシャリアピンステーキなどが提供されます。
天然水: 飲用水には、ホテルから引かれた六百山からの天然の湧き水が使われています。
3. 立地とアクセス
ホテルは梓川沿いの静かな木立の中に佇み、穂高連峰などの雄大な景色を望むことができます。
マイカー規制: 上高地は中部山岳国立公園内の特別名勝・特別天然記念物であるため、自然保護を目的に年間を通してマイカー規制が敷かれています。ホテルを訪れる際は、沢渡(さわんど)またはあかんだな駐車場からシャトルバスまたはタクシーを利用する必要があります。
開業の背景: ホテルの建設は、当時の政府の国際観光振興策の一環でもあり、開業当時は、初代釜トンネルの開通など、上高地への交通インフラ整備が大きく進んだ時代でした。
上高地帝国ホテル(開業当初は上高地ホテル)のために道路が整備されたという話は、日本の山岳リゾート開発における重要な事実です。ホテルの建設は、道路整備を条件として進められ、後の上高地への観光アクセスに決定的な影響を与えました。
道路整備の背景と経緯
上高地帝国ホテルは、昭和8年(1933年)に開業しましたが、その建設は当時の国際観光振興策と密接に関わっていました。
1. ホテル建設と道路整備の連動
帝国ホテルの受諾: 当時、帝国ホテル会長であった大倉喜七郎氏は、長野県知事に対し、ホテルまでの道路を整備することを条件に、上高地でのホテル建設を受諾したと伝えられています。
目的: これは、上高地を外国人観光客も容易にアクセスできる本格的な山岳リゾート地として開発し、日本の国際的な地位向上に貢献するという、国を挙げたプロジェクトの一環でした。
2. 初代釜トンネルの開通
ホテル建設のための最も重要なインフラ整備が、初代釜トンネルの開通です。
目的: 昭和初期、前述の霞沢発電所建設のための資材運搬軌道として初代釜トンネルが掘削されましたが、このトンネルが完成し、拡幅整備されたことで、上高地への自動車(バス)の乗り入れが初めて可能になりました。
アクセス改善: それまで上高地へのアクセスは徒歩が主で、非常に困難でしたが、このトンネルの開通により、中ノ湯方面から大正池までの自動車道が開かれ、ホテルの建設・運営、そしてその後の観光客増加の基盤となりました。
3. 上高地観光の幕開け
上高地帝国ホテルが開業した昭和8年(1933年)には、乗合バスが大正池まで延長され、さらにその後、河童橋まで運行されるようになり、上高地は本格的な観光地としての歴史を歩み始めました。
このように、上高地帝国ホテルの誘致と開業は、単なる宿泊施設の誕生にとどまらず、道路(釜トンネル)の整備を促進させ、上高地を日本を代表する山岳リゾートへと変貌させる大きな原動力となりました。
マウント穂高(Mount Hotaka)
上高地帝国ホテルの初期に考案された、ウォッカベースで穂高に積もる雪をイメージしたカクテルは、
「マウント穂高(Mount Hotaka)」
です。
これは、上高地帝国ホテルのバーである「バー ホルン」で提供されているオリジナルカクテルの一つです。
「マウント穂高」の概要と特徴
| 項目 | 内容 |
| 名称 | マウント穂高(Mount Hotaka) |
| ベース | ウォッカ |
| テーマ | 穂高連峰に積もる万年雪 |
| 特徴 | 白い雪をイメージさせる、爽やかで清涼感のあるウォッカベースのカクテル。上高地の澄んだ空気と雄大な山岳を象徴する、ホテルを代表する一杯です。 |
| 関連 | 東京の帝国ホテルのバーでは、同じコンセプトのジンベースのカクテルとして「マウント富士」が知られており、「マウント穂高」はその上高地版として考案されました。 |
「マウント穂高」は、上高地帝国ホテルが誇る山岳リゾートの雰囲気と、バーの伝統が感じられるシグネチャーカクテルとして、宿泊客に長く愛され続けています。























