あ~、函館行きたい!😎ブラタモリ 魅力度No.1函館の町▼なぜハイカラに?人気観光都市のヒミツ
魅力度No.1函館の町
こんにちは
猫好き父さんです
なんと
浅野里香アナウンサーの
応援ポストが
函館行きたい!
ブラ函館
旅の舞台は北海道・函館▼市区町村魅力度ランキングで全国1位に輝いた大人気観光都市のヒミツに迫る!スタートは赤レンガ倉庫が並ぶ、オシャレな港から。異国情緒あふれる町並みはなぜできた?百年前から残るコンクリート建築を発見!明治以降に町を襲った10回の大火、防火対策が函館をハイカラな町へと進化させた?タモリ大興奮!急激な人口増加を支えた謎の地下神殿&バットレスダムとは!?塩ラーメンに洋食…函館グルメも!
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
ハイカラ
「ハイカラ」という言葉は、明治時代に日本に入ってきた西洋の文化や風俗を積極的に取り入れ、それを楽しむ人やその様子を表す言葉として誕生しました。その語源は、英語の「high collar(ハイカラー)」に由来するとされています。
「ハイカラー」が語源とされる理由
明治時代、西洋の服装が日本に導入され始めました。その中でも、男性のシャツや軍服、制服などに見られる襟が高く詰まったデザインが特徴的でした。これが「ハイカラー」と呼ばれ、西洋文化の象徴として認識されるようになりました。
当時の日本において、西洋式の高い襟のシャツや洋服を着ることは、最新の流行を取り入れた「おしゃれ」であり、「文明開化」の象徴でもありました。そのため、この「ハイカラー」という言葉が、西洋風のものを好む、あるいは最新の流行に敏感な人を指すようになり、それが転じて「ハイカラ」という日本語になったと考えられています。
「ハイカラ」が意味するもの
「ハイカラ」は、単に服装を指すだけでなく、以下のようなニュアンスを含んでいました。
西洋風であること: 洋服、洋食、洋館など、西洋の影響を受けたもの全般。
新しいもの、流行の最先端であること: 当時の日本人にとって、西洋文化は最先端であり、それを積極的に取り入れる姿勢。
モダンでおしゃれなこと: 垢抜けていて、洗練されているという肯定的な意味合い。
進歩的であること: 時代を先取りするような、先進的な価値観を持つこと。
「ハイカラ」から「バンカラ」へ
「ハイカラ」が西洋文化の受容と流行を象徴する言葉だった一方で、その反動として、あるいは対比として「バンカラ」という言葉も生まれました。「バンカラ」は、乱暴な学生を指す「蛮カラ」が語源と言われ、西洋の流行に流されず、質素で剛健な日本的気質を重んじる姿勢や、あえて垢抜けないスタイルを貫くことを指しました。
「ハイカラ」と「バンカラ」は、明治から大正にかけての日本の文化や価値観の多様性を示す象徴的な言葉となりました。
現代の「ハイカラ」
現代では「ハイカラ」という言葉を使う機会は少なくなりましたが、レトロな雰囲気の中にもモダンさや西洋風の要素が感じられるものに対して使われることがあります。例えば、大正ロマンを感じさせる建物や衣装、喫茶店などを「ハイカラな雰囲気」と表現することもありますね。
函館の赤レンガ倉庫群
函館の赤レンガ倉庫群は、函館観光の代表的なスポットの一つですね。正式名称は「金森赤レンガ倉庫」といい、函館港に面して建ち並ぶ歴史的な建造物群です。
歴史と背景
金森赤レンガ倉庫の歴史は、明治時代にまで遡ります。
明治時代初期: 函館は日本で最初に開港した港の一つであり、国際貿易港として栄えました。多くの物資が海外から輸入され、また日本各地へ送られる中継地として重要な役割を担っていました。
金森洋物店: 明治2年(1869年)に函館で創業した「金森洋物店」が、海運業や倉庫業を営むようになり、明治19年(1886年)には営業倉庫として現在の赤レンガ倉庫の原型が作られました。
火災と再建: 函館は過去にたびたび大火に見舞われており、現在の赤レンガ倉庫の建物は、明治40年(1907年)の大火後に再建されたものです。この再建の際に、耐火性のあるレンガ造りになったため、現在のような「赤レンガ倉庫」の景観が形成されました。
観光施設への転換: 時代とともに倉庫としての役割は変化しましたが、その歴史的価値と美しい景観が評価され、昭和63年(1988年)に商業施設としてリニューアルオープンしました。
現在の金森赤レンガ倉庫
現在は、複数の倉庫がそれぞれ異なるテーマの商業施設として活用されており、函館観光には欠かせないスポットとなっています。
主な施設は以下の通りです。
金森洋物館(かねもりようぶつかん)
輸入雑貨や函館ならではのお土産品、ファッションアイテムなどを扱うショップが集まっています。
レトロな雰囲気の中でショッピングを楽しめます。
BAYはこだて
レストランやカフェ、スイーツショップなどが充実しており、食事や休憩に最適です。
函館港を眺めながら食事ができるレストランもあります。
函館オルゴール堂など、個性的なお店も入っています。
函館ヒストリープラザ
函館の歴史や金森倉庫の歴史に関する展示があります。
イベントスペースとしても利用され、様々な催し物が開催されます。
ビアホールやレストランもあります。
金森ホール
コンサートやイベント、結婚式など、多目的に利用されるホールです。
赤レンガの趣ある空間で、様々なイベントが開催されています。
魅力と楽しみ方
美しい景観: 函館港を背景に建ち並ぶ赤レンガの建物は、異国情緒あふれる美しい景観を作り出しています。特に夕暮れ時やライトアップされた夜景はロマンチックで、写真撮影の人気スポットです。
ショッピング: 函館土産の定番品から、オリジナルグッズ、おしゃれな雑貨まで、様々なお店があり、お土産探しやウィンドウショッピングを楽しめます。
グルメ: 海鮮料理、函館ラーメン、スイーツなど、函館ならではの美味しいものが味わえるお店が揃っています。
クルーズ: 倉庫群のすぐ近くから函館港を巡るクルーズ船が出ており、海上から赤レンガ倉庫や函館の街並みを眺めることができます。
周辺散策: 函館山ロープウェイ乗り場や元町公園、八幡坂など、他の観光スポットからも近く、周辺を散策するのもおすすめです。
金森赤レンガ倉庫は、函館の歴史と文化を感じながら、ショッピングやグルメ、美しい景観を楽しめる、魅力的な観光地です。
2024年度の市区町村魅力度ランキング
2024年度の市区町村魅力度ランキングは、株式会社ブランド総合研究所が毎年発表している「地域ブランド調査2024」の結果として公開されました。この調査は、全国の消費者を対象に、各地域への興味や評価などを多角的に質問して集計されるものです。
2024年度 市区町村魅力度ランキング トップ10
2024年度の市区町村魅力度ランキングで1位に輝いたのは、函館市でした。函館市は5年ぶり7度目の首位獲得となります。
| 順位 | 市区町村 | (前年順位) |
| 1位 | 函館市 | (3位) |
| 2位 | 札幌市 | (1位) |
| 3位 | 京都市 | (2位) |
| 4位 | 横浜市 | (7位) |
| 5位 | 小樽市 | (5位) |
| 6位 | 福岡市 | (19位) |
| 7位 | 鎌倉市 | (4位) |
| 8位 | 石垣市 | (14位) |
| 9位 | 金沢市 | (6位) |
| 10位 | 神戸市 | (8位) |
ランキングの主なポイント
函館市が返り咲き: 函館市は、歴史的な街並みやグルメ、美しい夜景など、観光資源の豊かさが改めて評価され、首位を奪還しました。
北海道勢の強さ: トップ10には函館市、札幌市、小樽市と、北海道の3都市がランクインしており、北海道全体の高い魅力度が反映されています。北海道は都道府県魅力度ランキングでも16年連続1位を獲得しています。
神奈川県の躍進: 横浜市が大きく順位を上げ4位、鎌倉市も7位にランクインするなど、神奈川県の都市の魅力度上昇が目立ちます。
特に、箱根町(12位、前年18位)、横須賀市(27位、前年38位)、茅ケ崎市(30位、前年47位)など、神奈川県内の複数の市町村で魅力度が上昇しています。
静岡県の健闘: 都道府県別では静岡県が過去最高の9位に上昇しており、その要因として20代からの評価が高まっていること、特に「ドラマや映画・アニメなど」による接触度が増加していることが挙げられています。
沖縄の離島も健闘: 石垣市が8位と大きく順位を上げ、宮古島市も17位(前年21位)に上昇するなど、沖縄の離島も引き続き高い人気を誇っています。直行便の増加なども後押ししていると見られています。
福井県の急上昇: 福井県は新幹線開業効果もあり、魅力度が大幅に上昇し、市区町村でも福井市がランクアップしています。
調査概要
調査名称: 地域ブランド調査2024
調査対象: 全国の市区町村(および都道府県)
調査方法: インターネット調査
回答者: 20代~70代の男女
調査項目: 魅力度、観光意欲度、居住意欲度、情報接触度など、全89項目
このランキングは、各地域の観光誘致や移住促進の取り組みにおいて重要な指標とされており、今後の地域活性化策にも影響を与えると考えられています。
ペリー提督日本遠征記
マシュー・C・ペリー提督が率いるアメリカの黒船艦隊は、日米和親条約締結後の1854年(安政元年)4月に、下田港とともに開港された**箱館(現在の函館)**に寄港しました。この際、ペリーは箱館の港やその周辺の様子を高く評価したことが、『ペリー提督日本遠征記』に記されています。
箱館港への絶賛エピソード
ペリーが箱館の港を絶賛した具体的なエピソードは以下のような点から読み取れます。
天然の良港としての評価:
ペリーは、箱館港が大型艦船の停泊に適した水深の深い天然の良港であることを高く評価しました。艦隊が安全に停泊でき、風浪の影響を受けにくい構造は、捕鯨船の補給基地や太平洋航路の中継地を求めていたアメリカにとって非常に魅力的に映ったでしょう。
『ペリー提督日本遠征記』には、箱館の港が「世界でも有数の優れた港の一つである」といった趣旨の記述があるとされています。これは、彼が世界各地の港を見てきた経験に基づいた評価であり、その言葉から箱館港の優れた地理的条件が窺えます。
美しい景観と自然環境:
ペリーの部下たちは、箱館の美しい景観にも感銘を受けたと伝えられています。特に函館山からの眺めや、周囲の海岸線が「風光絵の如く、それ以上美しい風景は他になかった」とまで称賛された記録が残っています。艦上にいる者さえ、周囲の景色に飽きることがなかったと記されています。
捕鯨船の乗組員が上陸して休養する上で、穏やかで美しい自然環境は重要な要素でした。
住民の友好的な態度:
ペリー艦隊が寄港した際、箱館の人々は幕府から「女と子供は外に出すな」「外出はするな」「海に近寄るな」といったお触れが出されていたにもかかわらず、好奇心旺盛な町民たちは海浜に出たり、異国の水兵に話しかけたりするなど、物見高く友好的な態度を示しました。
また、艦隊の乗組員のうち、亡くなった2名の水兵を、松前藩が鄭重に埋葬してくれたことに対し、ペリーは深く感謝し、好意を抱いたとされています。このような住民や現地の対応も、ペリーが箱館に良い印象を持った一因と考えられます。
特設市場での買い物体験:
ペリーは箱館での滞在中、沖之口番所に設けられた特設市場で買い物を楽しみました。特に「三段重ね漆塗りの重箱」などを購入し、大満足であったと記されています。文化的な交流の場としても、箱館はペリーにとって好ましい場所だったようです。
影響
ペリーの箱館への高い評価は、その後の日本の開国と国際貿易において、箱館(函館)が重要な役割を担うことにつながりました。実際に、箱館は横浜や長崎とともに、日本の近代化の窓口として大きく発展していくことになります。
ペリーが「HAKODADI」と記したことで、当時の箱館弁がそのまま伝わったというエピソードも興味深いですね。このような細かな記録からも、彼らが箱館という地に対し、深い関心を寄せていたことが伺えます。
「和洋折衷」の建築様式
函館の歴史的建造物に見られる、1階が和風で2階が洋風という「和洋折衷」の建築様式は、函館特有の興味深い特徴です。このスタイルが生まれた理由については、いくつかの説があります。
1. 港からの見栄えを意識した説(景観重視)
最も有力な説の一つが、港から街並みを見た時の「見栄え」を意識したというものです。
函館の西部地区は、函館山から港に向かってなだらかな坂道が続く地形です。
開港以来、多くの外国船が函館港に出入りするようになり、外国の船乗りや貿易商の目に触れる機会が増えました。
当時の日本人は、西洋に対して進んだ文明という憧れや、対等な貿易相手として見られたいという意識を持っていました。
そのため、海から見上げた際に、坂道の奥に建つ家々の2階部分がよく見えることを利用し、2階を洋風にすることで、街全体が近代化された西洋建築が立ち並ぶ発展した都市であるかのように見せたかったという狙いがあったとされています。
この説は、当時の国際港としての函館が、外国人に対してどのように自らをアピールしたかったかを示すものとして、説得力があります。
2. 生活様式と防火対策の融合説(実用性重視)
和洋折衷建築が普及した背景には、実用的な理由も挙げられます。
1階の和風部分: 当時の日本の商家の生活様式は、土間や座敷があり、引き戸で開閉する和風の作りが一般的で、商売を行う上でも便利でした。慣れ親しんだ生活様式を変える必要がなく、使い勝手が良いという理由から、生活の中心となる1階は伝統的な和風が好まれました。
2階の洋風部分: 採光や通風に優れた洋風の窓(上げ下げ窓など)や、外部からの視線を遮りつつも開放感のあるバルコニーなどは、洋館の魅力でした。また、来客用の部屋や書斎、応接間など、洋風の空間が必要となる場面も増えていました。
防火対策: 函館は大火に見舞われることが多かったため、延焼防止のために、外壁を下見板張りのような防火性の高い洋風の構造にすることが推奨された側面もあります。漆喰仕上げやレンガ造りを模した洋風のデザインは、耐火性を意識したものでもありました。
3. ロシア極東都市ウラジオストクの影響説
明治11年(1878年)に開拓使長官一行がロシアのウラジオストクを訪問した際、函館支庁の官吏など函館の政財界関係者も同行していました。ウラジオストクにも、函館と同様に坂が多く、海から見た時に2階部分が目立つ建築様式が見られたことから、その街並みに影響を受けた可能性も指摘されています。
まとめ
函館の1階が和風、2階が洋風という和洋折衷建築は、
国際貿易港として「ハイカラ」な印象を与えたいという景観戦略
従来の和風の生活様式を維持しつつ、西洋の機能性やデザインを取り入れたいという実用性
たび重なる大火を経験した上での防火対策の意識
海外の港町の建築様式からの影響
といった複数の要因が複合的に作用して生まれた、函館ならではの独自の建築文化と言えるでしょう。これらの建物は、函館の開港と国際交流の歴史を物語る貴重な遺産として、今も街の景観に彩りを与えています。
函館大火
函館は、その歴史の中でたび重なる大火に見舞われてきた街です。特に明治時代以降、近代的な都市へと発展していく過程で、何度も大規模な火災が発生し、そのたびに街は壊滅的な被害を受けながらも復興を遂げてきました。これらの大火は、函館の街づくりや建築様式に大きな影響を与えています。
函館大火の主な特徴と要因
函館の大火は、その発生頻度と被害の大きさから「火の街・函館」とも呼ばれていました。主な特徴と要因は以下の通りです。
強風: 函館は海に面しており、特に冬から春にかけては強い季節風や低気圧による暴風が吹き荒れます。一度火災が発生すると、この強風にあおられて火の勢いが急速に拡大し、大規模な延焼につながりました。
木造建築の密集: 明治時代以前の函館の建物は、ほとんどが木造で密集して建てられていました。これは火災が広がりやすい最も大きな要因でした。
防火意識の低さ(初期): 初期には、現代のような組織的な消防体制や防火意識が十分に確立されていなかったことも、被害を拡大させる一因となりました。
水源の不足: 一部の地域では、消火活動に必要な水源の確保が困難だったことも挙げられます。
函館の主要な大火
特に被害が甚大だった大火をいくつかご紹介します。
1. 明治12年(1879年)大火
概要: 函館の近代史における最初の大規模な大火の一つとされています。
被害: 約2,000戸が焼失し、街の中心部が大きな被害を受けました。
2. 明治40年(1907年)大火
概要: **「明治の大火」**として知られ、函館の街に壊滅的な被害をもたらしました。
被害: 死者約100人、焼失家屋約1万2千戸という甚大な被害でした。函館港の主要施設や多くの商店、住宅が灰燼に帰しました。
影響: この大火の後、函館の復興にあたっては、防火意識が飛躍的に高まりました。特に、主要な道路の拡幅や、燃えにくいレンガ造りや土蔵造りの建物への転換が推奨されるようになります。現在見られる金森赤レンガ倉庫も、この大火後の再建によって現在の姿になりました。また、和洋折衷建築の普及にも影響を与えたとされています。
3. 大正10年(1921年)大火
概要: 明治40年の大火に匹敵する、あるいはそれ以上の規模の被害を出した大火です。
被害: 死者2000人以上、焼失家屋約2万戸と、函館史上最大の被害を出したと言われています。
影響: この大火を受け、函館市はさらに徹底した防火都市計画を進めることになります。防火帯の設置、耐火建築の奨励、近代的な消防施設の整備などが強化されました。
4. 昭和9年(1934年)函館大火
概要: **「昭和の大火」**として知られ、戦前の函館の街に決定的な打撃を与えました。函館の歴史上、最も死者数が多かった大火です。
被害: 死者約2,166人、焼失家屋約1万1千戸と、人的被害が特に大きかったのが特徴です。病院が焼失したことで、負傷者の手当が難しくなったことも被害拡大の一因となりました。
影響: この大火は、その後の函館の都市計画に非常に大きな影響を与えました。
大規模な区画整理と道路拡幅: 燃え広がりにくい都市構造を目指し、幹線道路の拡幅や区画整理が大規模に進められました。
耐火建築の義務化・奨励: 主要な幹線道路沿いには、耐火性のある鉄筋コンクリート造りの建物の建設が義務付けられ、現在の函館の街並み(特に大門地区など)の基盤が作られました。
防火水槽や防風林の設置: 消火用水の確保や延焼防止のための設備が強化されました。
函館大火が街に与えた影響
これらの大火は、函館市民に甚大な被害と悲しみをもたらしましたが、同時に街の復興と進化の原動力ともなりました。
都市計画の近代化: 大火の経験が、防火に強い都市構造へと街を変えていく契機となりました。広い道路や耐火建築の導入は、現代の函館の街並みを形作る上で不可欠でした。
建築様式の変化: 赤レンガ倉庫や、和洋折衷の防火建築など、函館独特の景観が形成される背景には、大火の経験がありました。
市民の防災意識: 函館市民の防災意識は高く、コミュニティレベルでの防火活動や助け合いの精神が育まれてきました。
函館の街を歩くと、その美しい景観の裏に、度重なる災害を乗り越えてきた人々の努力と知恵が息づいていることを感じられるでしょう。
函館式三方式地上式消火栓
函館市は、歴史的に度重なる大火に見舞われてきた経験から、独自の防災対策を講じてきました。その一つが、市内中心部で見られる函館式三方式地上式消火栓です。これは、一般的な消火栓とは異なる特徴を持つ、函館ならではの消火栓として知られています。
函館式三方式地上式消火栓とは
一般的な消火栓が地下式であるのに対し、函館式三方式地上式消火栓は文字通り地上に設置されているのが最大の特徴です。そして、「三方式」という名称が示す通り、一度に3本(またはそれ以上)のホースを接続できるようになっています。
通常の消火栓は1つまたは2つの吐水口(ホースを繋ぐ口)を持つことがほとんどですが、函館式はより多くのホースを同時接続できることで、以下のようなメリットがあります。
迅速な消火活動: 複数の消防隊が同時に放水できるため、初期消火や大規模火災において、より多くの水量を迅速に投入することが可能になります。
効率的な運用: 限られた消火栓の設置数で、より広範囲への対応や、複数方向からの放水が可能となります。
函館式消火栓が生まれた背景
函館式三方式地上式消火栓が考案され、導入された背景には、函館の過酷な大火の歴史が深く関係しています。
度重なる大火の経験: 明治40年(1907年)や昭和9年(1934年)など、函館は過去に壊滅的な被害をもたらす大規模な火災を何度も経験してきました。特に昭和9年の大火では、約2,000人もの死者を出し、街の大部分が焼失しました。
消火活動の課題: これらの大火では、強風にあおられて火の手が瞬く間に広がり、消火栓の数が不足したり、迅速な放水ができなかったりといった課題が浮き彫りになりました。特に、冬季には積雪で地下式消火栓が埋もれてしまい、使用できないという問題も発生していました。
防災意識の高まり: 甚大な被害を経験した函館市は、防火都市としての再建を強く意識し、より効率的で迅速な消火活動を可能にするためのインフラ整備が急務となりました。
このような背景から、積雪時でも確実に使用でき、かつ大量放水が可能な「三方式地上式消火栓」が独自に開発され、導入されることになったのです。
函館式消火栓の現在の状況
函館式消火栓は、主に大火の被害が大きかった市街地中心部に現在も多数設置されています。函館の街を歩くと、その特徴的な赤い姿を目にすることができます。
しかし、現代の消防技術の進化や、都市インフラの整備、防火建築の普及などにより、新たな消火栓の設置や更新においては、必ずしも函館式三方式に限定されるわけではありません。それでも、函館の歴史と防災への強い意識を示す象徴として、その存在は特別なものとなっています。
観光客にとっては、函館の防災意識の高さや、過去の歴史を知る上でのユニークな手がかりともなっています。
日本最古のコンクリート電柱
日本最古のコンクリート電柱は、北海道函館市に現存しており、函館山の麓にある函館市元町にあります。
日本最古のコンクリート電柱の概要
この電柱は、**明治34年(1901年)**に函館電灯(現在の北海道電力の前身の一つ)によって建てられたもので、現在もその姿を見ることができます。一般的に電柱というと木製が主流だった時代に、なぜコンクリート製が採用されたのか、その背景には函館の地理的・歴史的要因が大きく関わっています。
コンクリート電柱が採用された理由
函館大火への対策:
函館は歴史的に度重なる大火に見舞われてきた街です。特に木造建築が密集していたため、一度火災が発生するとあっという間に延焼し、多くの電柱も焼失する被害が出ていました。このため、防火性・耐火性に優れたコンクリート製の電柱が、火災に強いインフラとして注目されました。燃えにくいコンクリート製にすることで、電力供給の安定化を図る狙いがありました。
木材の確保と耐久性:
当時、電柱用の良質な木材を安定的に確保することは容易ではありませんでした。また、木製の電柱は腐食や虫害に弱く、耐久性が低いという問題がありました。これに対し、コンクリートは耐久性に優れ、腐食や虫害の心配が少ないため、長期的な視点で見ればメンテナンスコストの削減にもつながると考えられました。
函館電灯の先進性:
函館電灯は、明治27年(1894年)に北海道で初めて電灯事業を開始した会社であり、常に新しい技術や設備を積極的に導入する先進性を持っていました。このような企業文化が、当時としては珍しかったコンクリート電柱の採用に繋がったとされています。
現存する電柱
この日本最古のコンクリート電柱は、函館市元町、具体的には旧函館区公会堂やハリストス正教会の近くの坂道に立っています。一見すると普通の電柱に見えるかもしれませんが、よく見ると現在の電柱とは異なる、当時の技術が詰まった独特のフォルムをしています。
現在でも現役の電柱として電力供給に貢献しているかどうかは定かではありませんが、その歴史的価値から大切に保存されており、函館の近代化と防災への取り組みを示す貴重な遺産となっています。函館観光の際には、ぜひこの歴史的な電柱を探してみてはいかがでしょうか。
函館の銀座通り(現在の正式な地名ではありませんが、かつて商業の中心地として栄えた通り)には、その歴史を物語る興味深いコンクリート建築物が多数存在します。これらの建物は、函館が大火の歴史を持つがゆえに、耐火性を重視した復興のシンボルとして建てられました。
函館銀座通りの歴史的コンクリート建築物の特徴と背景
大火からの教訓と不燃化への転換:
函館は明治40年(1907年)と大正10年(1921年)、そして昭和9年(1934年)に壊滅的な大火を経験しました。特に大正10年の大火後、函館の復興においては、木造建築の密集による延焼を防ぐため、不燃化が喫緊の課題となりました。そこで、鉄筋コンクリート造りやレンガ造りといった耐火性の高い建築物が奨励され、銀座通りもその先駆けとなりました。
日本におけるコンクリート建築の初期段階:
大正10年(1921年)の大火後の復興期は、日本ではまだ鉄筋コンクリート造りの技術が本格的に普及し始めたばかりの時期でした。関東大震災(1923年)後に鉄筋コンクリート造りが一般化する以前に、函館は大規模な火災を経験したことで、いち早くこの新しい技術を取り入れた地域の一つとなりました。そのため、銀座通りに残るコンクリート建築には、当時の技術的な試行錯誤や、大正モダンの意匠が見られるものが多いのが特徴です。
主要な建築物とその変遷:
旧丸井今井百貨店函館支店(現:函館市地域交流まちづくりセンター)
建築年: 1923年(大正12年)に鉄筋コンクリート造りの3階建てとして建設。1930年(昭和5年)に5階建てに増築されました。
特徴: 当時の百貨店建築らしく、モダンで堂々とした外観が特徴です。内部には、東北以北で現存する最古の手動式エレベーターがあり、現在もスタッフの操作で乗ることができます。昭和9年の大火で内部が延焼しましたが、その後再建され、長年デパートとして親しまれました。
現状: 現在は「函館市地域交流まちづくりセンター」として活用されており、市民や観光客が利用できる交流拠点となっています。
旧百十三銀行本店(現:SEC電算センタービル)
建築年: 大正10年(1921年)の大火後に再建されたと考えられます。
特徴: 銀行建築らしい重厚感のあるデザインが特徴で、曲線で仕上げられた玄関部や柱、窓のデザインなどに当時のモダンな意匠が見られます。「洗い出し工法」で仕上げられ、石造りのような質感を持っています。
現状: 現在は民間企業(株式会社エスイーシー電算センター)のオフィスとして利用されています。
その他、多くの商店や事務所ビル:
銀座通りには、上記以外にも、大火後に建てられた鉄筋コンクリート造りや鉄筋コンクリートブロック造りの商店や事務所ビルが点在しています。これらは、派手さはないものの、耐火性を重視した設計と、当時の建築様式を示す貴重な遺産となっています。一部は現存しないものもありますが、現存するものはそれぞれの時代を映す鏡のような存在です。
函館におけるコンクリート建築の重要性
函館は、日本最古のコンクリート電柱や、日本初の鉄筋コンクリート寺院である東本願寺函館別院本堂(大正4年/1915年竣工)など、日本のコンクリート建築の歴史において非常に重要な場所です。
銀座通りの歴史的コンクリート建築物は、函館が大火のたびに復興を繰り返し、新しい技術を積極的に取り入れながら発展してきた証とも言えます。これらの建物は、函館の近代史を語る上で欠かせない存在であり、街歩きの中でその重厚な佇まいやディテールをじっくりと観察するのも、函館の楽しみ方の一つです。
旧函館区公会堂
旧函館区公会堂は、北海道函館市元町にある、国の重要文化財に指定されている歴史的建造物です。函館を象徴する洋風建築の一つとして、多くの観光客を魅了しています。
画像は公式からの引用です
概要と歴史
竣工: 明治43年(1910年)
経緯: 明治40年(1907年)の函館大火によって、住民の集会所であった「町会所」と「商業会議所」が焼失してしまったため、その再建として建設が計画されました。建設費約5万8千円のうち、当時函館の豪商であった初代相馬哲平が5万円という巨額を寄付したことで、実現しました。
用途: 当初は市民の集会所、商業会議所の事務所として利用されましたが、翌明治44年(1911年)には、皇太子(後の大正天皇)が北海道を行啓した際に宿泊所として利用され、その後も皇室関係者が函館滞在時に利用する迎賓館としての役割も果たしました。
文化財指定: その歴史的価値と建築意匠の高さが評価され、昭和49年(1974年)に国の重要文化財に指定されました。
大規模な保存修理: 平成30年(2018年)から大規模な保存修理工事のため休館していましたが、令和3年(2021年)4月にリニューアルオープンし、当時の美しい姿を取り戻しました。
建築様式と特徴
旧函館区公会堂は、当時の日本で流行した「擬洋風建築」の代表例であり、特に「アメリカのコロニアル様式(植民地様式)」を取り入れています。
外観:
左右対称の美しいデザイン: 正面から見て左右対称の端正なファサード(建物の正面)が特徴です。
色使い: 外壁は鮮やかな**ブルーグレー(青灰色)とイエロー(黄色)**に塗り分けられており、このツートンカラーは19世紀後半にアメリカで流行したヴィクトリアン様式の影響を受けたものです。
バルコニー: 2階には広々としたバルコニーが配されており、そこからは函館港や函館の街並みを一望できます。この景観の良さも公会堂の大きな魅力の一つです。
コリント様式の柱頭飾り: 2階のバルコニーを支える柱には、古代ギリシャ建築の「コリント様式」を模した柱頭飾りが施されており、華やかさを添えています。
屋根: 桟瓦葺きの屋根で、屋根窓も備えています。
内部:
大広間: 2階にある約130坪(約430平方メートル)もの広大な大広間は、柱がない「つり天井」という特殊な構造で、音響効果に優れているため、コンサートや舞踏会、講演会などに利用されてきました。
貴賓室: 皇室関係者が使用した「御座所」「御寝室」「御召替室」「御食堂」などが再現されており、当時の調度品が展示されています。
ハイカラ衣裳館: 館内には、明治・大正時代のドレスや燕尾服をレンタルできる「はこだてハイカラ衣裳館」があり、レトロな衣装を身につけて建物内外で記念撮影を楽しむことができます。
立地と景観
旧函館区公会堂は、函館山の麓にある「基坂(もといざか)」を上り詰めた高台に位置しています。この立地のおかげで、公会堂のバルコニーからは函館港や函館市街の美しい景色が広がり、訪れる人々を魅了します。
函館の歴史と文化、そして当時のモダンな建築様式を肌で感じることができる、非常に価値の高い観光スポットです。
中区配水池
函館市の中区配水池は、函館の水道システムにおいて非常に重要な役割を担ってきた歴史的な施設です。
中区配水池の概要と歴史
所在地: 北海道函館市元町1-3
竣工: 明治43年(1910年)
設計: ウィリアム・H・バートン(英国人技師)
中区配水池は、函館市が近代水道を整備する際に、その中核施設として建設されました。函館市は、度重なる大火に見舞われた経験から、消火用水の安定供給と市民の衛生環境改善のため、近代的な上水道の導入を急務としていました。
その設計を担ったのが、横浜の水道施設設計なども手掛けた英国人技師ウィリアム・H・バートンです。彼は、日本の水処理技術や土木技術に大きな影響を与えた人物として知られています。
中区配水池の役割と特徴
水の貯留と供給:
水源から送られてきた水を一時的に貯留し、各家庭や施設に安定した水圧で供給するための施設です。函館山の中腹に位置することで、高低差を利用して自然に水を供給できる仕組みになっています。
配水池の構造:
石造りの重厚な外観が特徴で、当時としては非常に高度な土木技術が用いられています。内部は複数の槽に分かれており、水の管理がしやすい構造となっています。
大火からの復興の象徴:
明治40年(1907年)の大火の後、函館は防火都市としての復興を目指しました。その中で、安定した消火用水の供給は最重要課題の一つであり、中区配水池の建設は、この復興計画の要でした。実際に、この配水池から供給される水が、その後の大火の消火活動にも貢献しました。
歴史的景観の一部:
現在は、配水池としての本来の機能に加え、その歴史的価値と石造りの美しい外観から、函館山の麓の景観の一部としても親しまれています。周辺には旧函館区公会堂やハリストス正教会など、他の歴史的建造物も多く点在しており、観光客の散策コースにもなっています。
現在の中区配水池
中区配水池は現在も、函館市の水道施設として現役で稼働しており、市民の生活を支える重要なインフラであり続けています。普段は一般公開されていませんが、その歴史的な価値と存在感は、函館の近代史を語る上で欠かせない建造物の一つです。
函館の歴史散策をする際には、ぜひこの中区配水池も注目してみてください。その重厚な石造りの姿は、大火を乗り越え、近代都市へと発展した函館の強さを物語っています。
笹流ダム(ささながれだむ)
函館市の「笹流ダム(ささながれだむ)」は、函館の歴史と深い関わりを持つ、非常にユニークで重要な土木遺産です。函館市民の重要な水源として、現在も現役で活躍しています。
笹流ダムの概要と歴史
竣工: 大正12年(1923年)
場所: 函館市赤川町
形式: バットレスダム(扶壁式中空鉄筋コンクリートダム)
笹流ダムは、函館市が近代的な上水道を整備する中で建設された主要な水源施設です。函館は度重なる大火に見舞われてきた歴史があり、安定した消火用水の確保と市民生活の衛生環境改善が喫緊の課題でした。その中で、このダムは市民の「水がめ」として重要な役割を担うことになります。
笹流ダムの最大の特徴:バットレスダム
笹流ダムの最も特筆すべき点は、そのダムの形式です。笹流ダムは、日本で最初に建設されたバットレスダムであり、現在日本にわずか6基しか現存しない非常に珍しい形式のダムの一つです。
バットレスダムとは?
水圧を受ける壁面(遮水壁)を、格子状の補助的な壁(扶壁、英語でbatress)で支える構造のダムです。通常の重力式コンクリートダムがその重さで水圧を支えるのに対し、バットレスダムは水圧を扶壁で分散させるため、コンクリートの使用量を大幅に節約できるという特徴がありました。
なぜ採用されたのか?
大正時代、コンクリートはまだ高価な建築材料でした。そのため、コンクリートの使用量を抑えつつ、堅牢なダムを建設できるバットレス形式が、当時の経済状況や技術的な制約の中で合理的と判断されました。また、このダムの設計は、後に東京の小河内ダムなどを手掛けることになる小野基樹が担当しています。
笹流ダムの評価と影響
土木遺産としての価値:
その希少性と歴史的価値から、2001年には「土木学会選奨土木遺産」に、2009年には「経済産業省の近代化産業遺産」として認定されています。他のバットレスダムが補強や改築でその特徴的な姿を失う中、笹流ダムは当時の姿を色濃く残している点で非常に貴重です。
美しい景観:
バットレスダム特有の格子状の外観は、まるで中世ヨーロッパの城壁や水道橋のような独特の美しさを持ち、威圧感が少なく、周囲の自然と調和したリズミカルな景観を作り出しています。2005年には「ダム湖百選」にも選ばれています。
現在の笹流ダム
笹流ダムは、完成から100年以上が経過した現在も、函館市民の重要な水源として機能し続けています。
市民の憩いの場:
ダムの前庭広場は芝生が広がる公園として整備されており、春には桜、秋には紅葉が美しいことでも知られ、函館市民の憩いの場となっています。ピクニックや散策を楽しむことができます。
見学可能:
毎年4月第3土曜日から11月23日までの期間は、午前9時から午後5時(10月1日~11月23日は午前8時30分から午後4時30分)まで一般開放されており、ダムを間近で見学することができます。ダムの上部も歩くことができ、貯水池の美しい水面を間近に見ることが可能です。
函館の市街地から車で20分ほどの場所にあり、アクセスも比較的便利です。函館の歴史的な防災インフラや、珍しい土木建築に興味がある方には、ぜひ訪れてほしいスポットです。
ブラタモリ、函館②
— 浅野里香 | NHKアナウンサー (@Asano_Rika_) July 26, 2025
函館は札幌勤務中に何度も行った場所♪
いくぞ〜北の出会い旅で
吉幾三さんと旅したり、
春になったら桜を見に行ったり…🌸
電柱もしっかり写真におさめてた😆📷 #ブラタモリ#ラッピは絶対食べる pic.twitter.com/nzKDKCVMMU
























