東大に行きたい!😎ブラタモリ 加賀百万石と東大▼奇跡の赤門&大名庭園!前田家が残した“宝”
東大に行きたい!
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東大
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ブラ東大
今回の舞台は東京大学▼江戸時代の加賀藩の大名屋敷跡に作られた東大本郷キャンパスで、加賀百万石の前田家が残した“宝”に迫る!スタートは東大のシンボル・赤門から。そもそもなぜ赤い?徳川将軍家との驚きの関係&奇跡的に残されたワケとは。江戸時代から交通の要衝だった三差路に東大発展の礎あり!夏目漱石ゆかりの三四郎池は、大名庭園の痕跡!池が東大にとって宝となった理由とは?さらに学内でも知る人ぞ知る迎賓館まで!
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
加賀藩(かがはん)
加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀国(現在の石川県)、能登国(現在の石川県)、越中国(現在の富山県)を治めた藩です。正式な名称は**金沢藩(かなざわはん)ですが、一般にはその広大さから「加賀百万石」**という通称で広く知られています。
加賀百万石の由来と藩の規模
加賀藩の石高(こくだか)は、江戸時代を通じて100万石を超え、大名の中では徳川将軍家を除いて最も大きな規模を誇りました。これは、現在の石川県と富山県を合わせた広大な領地からくるもので、この莫大な生産力が「加賀百万石」の呼び名の由来となっています。
藩主:前田家
加賀藩の藩主は、織田信長の家臣であり、豊臣秀吉の五大老の一人であった**前田利家(まえだ としいえ)**を祖とする前田家が務めました。
前田家は、徳川家康に次ぐ大名として、常に徳川幕府から警戒されていました。そのため、前田家は武力で対抗するのではなく、文化や学問、産業の振興に力を注ぐことで、藩の存続を図りました。
栄えた文化と産業
莫大な財力を背景に、加賀藩は独自の文化を花開かせました。
工芸: 加賀友禅(きもの)、九谷焼(陶磁器)、金沢漆器、金沢金箔(きんぱく)など、優れた伝統工芸が発展しました。
庭園: 兼六園(けんろくえん)は、水戸の偕楽園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つとして、前田家の文化水準の高さを示しています。
学問: 藩校「明倫堂(めいりんどう)」が設立されるなど、学問も奨励されました。
このように、加賀藩は、その強大な経済力と文化的な繁栄によって、江戸時代の日本で特別な地位を築きました。現在の石川県金沢市には、藩主の居城であった金沢城や、多くの武家屋敷、茶屋街が残り、当時の歴史と文化を今に伝えています。
加賀藩が現在の東京大学本郷キャンパスがある場所に江戸屋敷を構えた理由
加賀藩が現在の東京大学本郷キャンパスがある場所に江戸屋敷を構えたのは、主に徳川幕府からの監視と、その対策としての「外様大名」の処世術が深く関係しています。
強大な外様大名への監視
加賀藩の藩主である前田家は、徳川家康の時代から徳川家とは対等な立場ではなく、家臣でもない**「外様大名」**でした。にもかかわらず、その石高は100万石以上と、徳川御三家(尾張・紀州・水戸)をはるかに凌ぐ、全国最大でした。
幕府は、これほど強大な勢力を持つ前田家が謀反を起こすことを警戒していました。そのため、江戸に置く大名屋敷の場所は、幕府が厳重に管理していました。本郷の地は、江戸城から比較的近く、かつ本郷台地という見晴らしの良い場所にあり、幕府にとっては前田家の動向を監視しやすい場所だったのです。
加賀藩の処世術
前田家は、幕府の警戒心を和らげるために、武力ではなく、文化や学問、財力に力を入れることで、藩の安泰を図りました。
文化的な側面: 立派な庭園(現在の三四郎池)や、豪華な御守殿門(現在の赤門)を造営し、武力ではなく、文化的な豊かさを誇示しました。これは「私たちは幕府に刃向かう気はありません」というメッセージを込めていたと考えられています。
財力的な側面: 将軍家から嫁を迎え入れることで、姻戚関係を結び、徳川家との結びつきを強固にしました。この婚姻は、莫大な費用をかけて行われ、前田家の財力を示すとともに、幕府への忠誠心を示すものでもありました。
このように、加賀藩は、幕府の監視下に置かれつつも、その立場を逆手にとり、文化と財力で徳川幕府との共存を図った結果、本郷の地に大規模な藩邸を構えることになったのです。
日光御成道(にっこうおなりみち)
日光御成道(にっこうおなりみち)は、江戸時代に徳川将軍が日光東照宮へ参拝するために整備された専用の街道です。中山道や日光街道のような一般の旅行者が使う街道とは異なり、将軍と供の者だけが通行する特別な道でした。
整備の経緯とルート
この道は、徳川家康が没し、その遺体が日光に改葬された後に、三代将軍家光が日光東照宮を参拝するために整備されました。
起点:江戸城
終点:日光東照宮
主な経由地:川口、岩槻、幸手などを経て、日光街道に合流します。
将軍が通行する際は、沿道の村々が通行路の清掃や警備を行い、厳重な警護体制が敷かれました。
宿場と特徴
日光御成道には、将軍一行が休憩や宿泊をするための「御成(おなり)御殿」が設けられました。これは通常の宿場とは異なり、豪華な造りになっていました。
規模と頻度: 日光御成道は、将軍の参拝にのみ使われたため、通行は非常に稀でした。そのため、宿場も限定されており、一般の街道のように賑わうことはありませんでした。
文化財: 街道沿いには、当時の御成御殿の跡地や、道標などが今も残されており、歴史的な遺構として大切にされています。
日光御成道は、将軍の権威を示す象徴的な街道であり、日本の歴史の中で特別な存在でした。
本郷追分(ほんごうおいわけ)
三差路(さんさろ)というキーワードと、東京大学、江戸時代という文脈から、この言葉は東京大学本郷キャンパスがある地域の歴史的な重要性を表現していると考えられます。具体的には、本郷キャンパスの東側にある**本郷追分(ほんごうおいわけ)**と、それが果たした役割を指している可能性が高いです。
本郷追分とは
本郷追分は、江戸時代から重要な交通の分岐点(追分)でした。
中山道: 本郷追分は、江戸から京都や信濃方面へと向かう主要な街道である中山道の始点にあたります。
日光御成道: 将軍が日光東照宮へ参拝するために使われた日光御成道も、この場所から分岐していました。
岩槻街道(日光街道支線): 岩槻方面へと向かう道も、ここから分かれていました。
このように、本郷追分は、複数の主要街道が交わる、まさに「交通の要衝」でした。
東大発展の礎としての役割
この交通の要衝であった場所に、東京大学が発展した背景には、いくつかの理由が考えられます。
広大な敷地: 加賀藩という日本最大の大名の江戸屋敷があったため、広大な土地が利用可能でした。交通の便が良い場所にこれほどの敷地があったことは、大学を建設する上で非常に大きな利点でした。
情報と人の集積地: 交通の要衝であることから、江戸時代から多くの人や情報が行き交う場所でした。このような知的交流の土壌は、学問の中心地となる大学の発展に適していました。
文化的な土壌: 周辺には寺社や、加賀藩邸に代表される大名屋敷が立ち並び、文化的にも豊かな地域でした。この地の歴史と文化が、大学の知的な雰囲気を形成する一助となったと考えられます。
したがって、「江戸時代から交通の要衝だった三差路に東大発展の礎あり」という言葉は、東京大学が、本郷追分という歴史的に重要な場所に位置し、その地の持つ地理的・文化的な特性が、大学の発展の基盤となったことを示していると言えるでしょう。
東京大学
東京大学は、東京都文京区本郷に本部を置く、日本を代表する国立大学です。
歴史と概要
東京大学は、1877年(明治10年)に、旧江戸幕府の昌平坂学問所、開成所、医学所を統合して設立されました。日本で最も古い近代的な高等教育機関の一つであり、当初は法、理、文の3学部で構成されていました。
その後、帝国大学令により「帝国大学」と改称され、京都帝国大学など他の帝国大学が設立された後も、日本の高等教育の中心としての役割を担い続けました。第二次世界大戦後、「東京大学」に戻り、今日に至ります。
特徴
最高峰の学術研究機関:
東京大学は、あらゆる学問分野において、世界的に見ても高い水準の研究活動を行っています。ノーベル賞受賞者やフィールズ賞受賞者など、多くの著名な研究者を輩出しています。
多様な学部と研究科:
教養学部、法学部、経済学部、文学部、教育学部、理学部、工学部、農学部、医学部、薬学部、歯学部など、幅広い分野にわたる学部と大学院研究科を擁しています。特に、前期課程(1、2年次)は全員が教養学部に所属し、後期課程(3、4年次)で専門の学部に進むという「進学振り分け」制度が特徴です。
社会への影響力:
政治、経済、学術、文化など、多岐にわたる分野で、日本のリーダーとして活躍する人材を多数輩出しており、日本の社会に大きな影響力を持っています。
主なキャンパス
本郷キャンパス:文京区にあり、法、文、経、教育、理、薬、工、農の各学部の本拠地です。
駒場キャンパス:目黒区にあり、主に前期課程(1、2年次)の学生が学びます。
柏キャンパス:千葉県柏市にあり、先端科学技術の研究拠点となっています。
東京大学は、日本の学術の中心であり、多くの学生や研究者が「東大」を目指しています。
赤門(あかもん)
東京大学のシンボルとして知られる「赤門(あかもん)」は、現在の東京大学本郷キャンパスにある門の一つで、その由来には悲しい歴史が関わっています。
由来と歴史
赤門は、江戸時代に加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の第13代藩主である**前田斉泰(まえだ なりやす)**が、1827年(文政10年)に、将軍家から嫁を迎える際に造営されたものです。
当時の江戸幕府の武家諸法度には、将軍の娘(お姫様)が大名家に嫁ぐ際、その大名家の正門を朱色に塗ることが義務付けられていました。この門を「御守殿門(ごしゅでんもん)」と呼び、格式の高さを示すものでした。
赤門は、前田斉泰に嫁いだ、第11代将軍徳川家斉の娘である溶姫(ようひめ)のために造られたものです。当時、この門をくぐることを許されたのは、溶姫とそのお付きの者だけで、他の人々が通ることはできませんでした。
現代の赤門
その後、赤門は関東大震災や戦火をくぐり抜け、現在も当時の姿をほぼとどめています。
重要文化財: 1961年(昭和36年)には、国の重要文化財に指定されました。
場所: 東京大学の本郷キャンパスの入口の一つとして、多くの学生や観光客が行き交う場所となっています。
赤門は、単なる大学の門ではなく、将軍家と大名家の結びつき、そして当時の武家の格式を今に伝える、歴史的な建造物なのです。
赤門存続危機
東京大学のシンボルである赤門は、歴史の中でいくつかの存続危機に直面しました。
1. 明治時代の解体危機
明治維新後、加賀藩邸が国の所有となり、東京大学の敷地となった際、赤門はほかの建造物とともに、その歴史的価値が認識されずに解体される危機にありました。しかし、一部の文化人や識者の働きかけにより、その歴史的・美術的価値が認められ、辛うじて保存されることになりました。
2. 関東大震災(1923年)
1923年(大正12年)に発生した関東大震災では、東京大学本郷キャンパス内の多くの建物が倒壊または焼失しました。しかし、赤門は堅牢な造りであったため、軽微な被害にとどまり、この大災害を乗り越えることができました。
3. 第二次世界大戦
第二次世界大戦中の東京大空襲では、東京大学周辺も大きな被害を受けました。多くの建物が焼失しましたが、赤門は奇跡的に戦火を免れ、その姿を現在に伝えることができました。
これらの危機を乗り越え、赤門は日本の近代化と激動の歴史を見守り続けてきた貴重な文化遺産として、今もその場所に堂々と建っています。
東京大学が加賀藩の跡地にできた理由
東京大学が加賀藩の跡地にできたのは、明治時代の**廃藩置県(はいはんちけん)**という歴史的な出来事が深く関係しています。
歴史的な経緯
江戸時代の加賀藩邸:
江戸時代、現在の東京大学本郷キャンパスがある場所は、加賀藩前田家の上屋敷でした。加賀藩は「百万石」と言われる日本最大の大名家だったため、その屋敷も広大で、敷地内には三四郎池のような立派な庭園や、赤門のような格式高い門が造られていました。
明治維新と廃藩置県:
1868年の明治維新後、日本は近代国家へと向かう大きな変革期を迎えます。1871年には廃藩置県が断行され、それまでの藩はすべて廃止され、土地や財産は国のものとなりました。これにより、加賀藩邸も国の所有となります。
東京大学の設立:
明治新政府は、欧米に倣った近代的な大学を設立する必要がありました。国が所有する膨大な土地の中から、その規模と立地条件から、広大な加賀藩邸跡が新設される大学の敷地として最適だと判断されました。
このように、東京大学は、江戸時代から続く加賀藩の広大な敷地と、明治維新という時代の大きな転換期が重なることで、その地に設立されることになったのです。現在も、赤門や三四郎池(育徳園心字池)は、その歴史的な名残として大切にされています。
三四郎池
三四郎池は、東京大学の本郷キャンパス内にある池で、正式名称を**育徳園心字池(いくとくえん しんじいけ)**といいます。明治時代に夏目漱石の小説『三四郎』に登場したことで、広く「三四郎池」と呼ばれるようになりました。
歴史と名前の由来
三四郎池は、江戸時代に加賀藩主の前田家が所有していた上屋敷の庭園の一部でした。この庭園は「育徳園」と呼ばれ、池の形が漢字の「心」の字に似ていることから、心字池の名が付けられました。
明治時代にこの地が東京大学の敷地となった後も、庭園は保存され、学生や教職員の憩いの場となりました。夏目漱石が東京大学の英文学講師をしていた頃、この池の周辺を散策することが多く、その経験をもとに小説『三四郎』を執筆しました。
小説の主人公である小川三四郎とヒロインの里見美禰子がこの池のほとりを散策するシーンが描かれたことから、いつしか学生たちの間で「三四郎池」と呼ばれるようになり、その愛称が定着しました。
特徴
三四郎池は、都会の中心にある大学のキャンパスとは思えないほど、緑豊かで静かな空間です。池の周囲には木々が生い茂り、四季折々の美しい景色を楽しむことができます。特に、紅葉の時期には多くの人々が訪れます。
池には、カルガモやコイ、カメなどが生息しており、都会のオアシスとして、学生や近隣住民に親しまれています。
三四郎池は、東京大学の本郷キャンパスがある本郷台地の谷間に、自然に形成された池です。人工的に掘って作られたものではなく、地形を巧みに利用して作られました。
地形と池の形成
本郷台地は、かつて武蔵野台地の東端に位置しており、台地の端にはいくつもの谷が入り組んでいました。三四郎池のある場所も、そうした谷筋の一つでした。
江戸時代初期、この土地は加賀藩の藩主である前田家の上屋敷となりました。前田家は、この自然の谷筋を、見事な日本庭園へと改修しました。
谷間の利用: 谷の低い部分に水を溜め、池を形成しました。これは、地形を最大限に生かした造園技術の例です。
庭園としての整備: 谷の斜面を巧みに利用して築山(つきやま)を築き、灯籠や石橋、植栽を配置することで、池泉回遊式庭園として完成させました。
このように、三四郎池は、もともとあった本郷台地の自然な谷を、前田家が庭園として整備したことで誕生したものです。自然の地形と、江戸時代の高度な造園技術が融合して生まれた、歴史的な庭園と言えます。
懐徳館庭園
懐徳館庭園は、東京大学本郷キャンパス内にある旧前田侯爵家本邸の庭園です。現在は東京大学の施設となっており、一般には非公開ですが、特別な機会にのみ公開されることがあります。
歴史と概要
懐徳館は、加賀藩主であった前田家が、東京の本邸として建設したものです。庭園は、1929年に竣工した懐徳館(旧前田侯爵邸洋館)とともに造られました。
懐徳館庭園は、**池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)**という様式で造られており、大きな池を中心に、その周囲を歩いて景色を楽しむことができます。庭園内には、池や築山、灯籠、そして四季折々の植物が配置されており、都心にありながらも静かで風情のある景観を保っています。
また、庭園のすぐ隣には、重要文化財に指定されている**懐徳館(旧前田侯爵邸洋館)**があり、庭園と一体となって、大正から昭和初期にかけての華やかな貴族文化を今に伝えています。
特徴と意義
格式高い庭園: 旧大名家の庭園であり、その造りは非常に格式が高く、都心に残された貴重な歴史的遺産です。
非公開の特別な空間: 通常は、東京大学のイベントや特別行事などで利用されており、一般の人が自由に立ち入ることはできません。そのため、年に数回開催される特別公開の機会は、多くの人にとって貴重な体験となります。
文化財としての価値: 懐徳館とともに、日本の近代建築と庭園の歴史を語る上で重要な存在となっています。
懐徳館庭園は、東京大学の歴史と、加賀藩前田家の文化、そして近代日本の風景を伝える、静かで美しい空間です。
NHK総合『ブラタモリ』が、8/23(土)から2週連続で東京大学を舞台に放送されます。
— 東京大学 | UTokyo (@UTokyo_News) August 22, 2025
東京大学本郷キャンパスに眠る「宝」を、ていねいに探訪いただけました。お楽しみに!
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