生き延びた後のほうが地獄だった🍄NHKスペシャル 原子雲の下を生き抜いて 長崎・被爆児童の80年
原子雲の下を生き抜いて 長崎・被爆児童の80年
こんにちは
猫好き父さんです
忘れてはいけないことなにの
忘れ去られようとしている
長崎を最後の被爆地にしなければ
いけません
内容
原爆によって児童約1500人のうち9割近くがなくなった長崎市・山里小学校。奇跡的に生き残った37人は、壮絶な被爆体験を手記に書き、世界で初めて出版された。NHKは、親や家族を失った児童のその後を記録してきた。「生き延びた後のほうが地獄だった」と語った人もいた。80~90代になった37人は、いま何を思うのか。語り始めたのは80年間、誰にも言えなかった思い…。かつての被爆児童たちの“いま”を見つめる。
NHK 総合 9日(土) 午後10:55
— NHKドキュメンタリー (@nhk_docudocu) August 8, 2025
NHKスペシャル 原子雲の下を生き抜いて 長崎・被爆児童の80年
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長崎市立山里小学校
長崎市立山里小学校は、1945年8月9日の原子爆弾投下により、爆心地から北へわずか600メートルという至近距離にあったため、壊滅的な被害を受けました。在籍児童約1581人のうち約1300人、教職員32人のうち28人の尊い命が奪われました。その悲劇を伝える被爆体験記は、様々な形で今に伝えられています。
書籍で読む被爆体験記『原子雲の下に生きて』
山里小学校の被爆体験を語る上で最も重要な記録の一つが、被爆した児童たちの手記をまとめた文集『原子雲の下に生きて』です。
概要: 自らも被爆しながら救護活動にあたった永井隆博士の発案により、奇跡的に生き残った子どもたちが綴った作文集です。家族を失った悲しみ、焼け跡での生活の苦しみ、そして未来への思いが、子どもたちのありのままの言葉で記されています。世界で初めて出版された被爆児童の手記集としても知られています。
内容: 肉親の死を目の当たりにした壮絶な体験、食べ物がなく飢えに苦しんだ日々、そして原爆によって変わり果てた故郷の姿などが克明に描かれています。
出版の意義: この本の印税によって、校内には犠牲になった子どもたちのための慰霊碑「あの子らの碑」が建立されました。
ウェブサイトで読む被爆体験記
長崎市の公式サイト内「あじさいワールド」にて、山里小学校の被爆体験記が公開されており、より手軽にその歴史に触れることができます。
長崎市公式サイト「山里小学校被爆体験記」: 被爆直後の校舎の様子、教職員や児童の被害状況、そして戦後の困難を極めた学校再開までの道のりが、当時の記録や手紙を交えて詳細に記されています。
岩永衣伊子先生の手紙: 当時、教鞭をとっていた岩永先生が、被爆当日の様子や子どもたちの安否を気遣う思いを綴った手紙も掲載されており、胸を打ちます。
現地で学ぶ被爆の記憶
山里小学校の敷地内には、今もなお戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるための施設や遺構が大切に保存されています。
山里小学校 原爆資料室: 校内に設置された資料室では、被爆当時の写真パネルや、熱線で溶けたガラス瓶、黒焦げになった梁など、数々の遺物が展示されています。見学には事前の問い合わせが必要です。
あの子らの碑: 前述の文集『原子雲の下に生きて』の印税で建立された、平和を祈る子どもたちの像です。毎年、慰霊祭が行われ、平和への誓いが新たにされています。
防空壕跡: 当時、教職員や地域住民が避難し、また作業中に命を落とした防空壕が被爆遺構として保存されています。
歌い継がれる記憶「あの子」
永井隆博士は、原爆で犠牲になった山里小学校の子どもたちを追悼し、「あの子」という歌を作詞しました。この歌は、今もなお山里小学校の児童たちによって大切に歌い継がれており、平和祈念式典などで斉唱されています。
長崎市・山里小学校の被爆体験記は、戦争の残酷さだけでなく、逆境の中で生き抜いた人々の強さと、未来への平和の願いを私たちに強く訴えかけます。これらの記録に触れることは、過去の悲劇を繰り返さないために、今を生きる私たちに何ができるのかを深く考えさせてくれるでしょう。
長崎原爆、その壊滅的な被害の全貌
1945年8月9日午前11時2分、長崎市に投下された一発の原子爆弾は、街を瞬時に破壊し、数多くの尊い命を奪いました。その被害は、熱線、爆風、そして放射線という三重の力によってもたらされ、長崎の街と人々に未曾有の惨禍を刻みつけました。
瞬時に奪われた多くの命と街
原子爆弾は長崎市北部の浦上地区、松山町の上空約500メートルで炸裂しました。投下されたプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」は、強烈な熱線と衝撃波を放ち、その直後には巨大なきのこ雲が立ち上りました。
人的被害:
死者: 1945年12月末までに、約7万4千人が死亡したと推定されています。これは当時の長崎市の人口約24万人の約3分の1にあたります。
負傷者: 約7万5千人が重軽傷を負いました。
爆心地から1km以内では、熱線や爆風、放射線によりほぼ全ての人が即死または短期間のうちに死亡しました。
物的被害:
建物の壊滅: 爆心地から半径約2.5kmの範囲が壊滅的な被害を受け、長崎市内の建物の**約36%**が全壊または全焼しました。
浦上天主堂の倒壊: 爆心地から北東へ約500mにあった東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂は、わずかな壁体を残してほぼ完全に破壊されました。
産業施設への打撃: 長崎の主要産業であった三菱重工業長崎兵器製作所や長崎製鋼所なども壊滅し、都市機能は完全に麻痺しました。
被害を甚大化させた三つの力
原子爆弾の被害は、単一の爆発力によるものではなく、複合的な要因によってその激しさを増しました。
熱線:
原子爆弾の炸裂とともに放たれた強烈な熱線は、地表の温度を数千度にまで到達させました。爆心地近くでは、人々は一瞬にして炭化し、石材の表面が溶けて泡立つほどの高温でした。遠方にいた人々も深刻な火傷を負い、黒い服を着ていた部分は特に被害が大きかったと言われています。
爆風:
熱線に続き、超音速の衝撃波である爆風が襲いました。爆風によって建物は根こそぎ倒壊し、人々は吹き飛ばされ、飛散したガラスや建物の破片が全身に突き刺さりました。頑丈な鉄筋コンクリートの建物でさえ、内部は完全に破壊されました。
放射線:
原子爆弾は、目に見えない大量の放射線を放出しました。これは通常兵器にはない原爆特有の非人道的な被害です。直接放射線を浴びた人々は、高熱や嘔吐、脱毛といった急性の放射線障害を発症し、多くが死亡しました。外傷がなくても内部被ばくによって命を落とす人が後を絶ちませんでした。
今なお続く苦しみ - 後障害
原爆の被害は、1945年8月9日だけで終わったわけではありません。生き残った被爆者(サバイバー)たちは、その後も長く続く健康被害に苦しめられています。
後障害: 白血病や甲状腺がん、肺がんなど、様々な種類のがんの発症率が高いことが統計的に明らかになっています。
精神的苦痛: 家族や友人を一瞬にして失った悲しみ、自らが被爆したことによる健康への不安、そして差別や偏見といった精神的な苦痛も、被爆者に重くのしかかり続けています。
長崎の原爆被害は、戦争がもたらす究極の非人道性を象徴する出来事として、その記憶は被爆遺構や被爆者の証言を通じて、今なお世界に平和の尊さを訴え続けています。