これで解った!京都 国宝・三十三間堂!😎ブラタモリ 京都 国宝・三十三間堂SP▼超拡大版!なぜ800年守られた?
これで解った!京都 国宝・三十三間堂!
こんにちは
猫好き父さんです
またまたきました
国宝
です
国宝あやかりたい!
京都 国宝・三十三間堂
毎度盛りだくさんというか
スペシャル超拡大版だと
げっぷがでそうです
しかし
なんで面白いんですかね
ブラタモリ
学びなおしです
画像は公式からの引用ですブラ三十三間堂
旅の舞台は京都・三十三間堂。千体の観音像がズラリと並ぶ圧巻の寺は、仏像と本堂すべてが国宝!平安時代に創建され、約800年もの間、火災や地震、戦乱など数々の危機からどう守られたのか?観音像の耐震構造や、究極の地盤改良など、驚きの知恵と工夫に迫る。さらに秀吉の“京の大仏”が三十三間堂を守ることにつながったという意外な歴史も!?そしてタモリも言葉を失うほど美しい、夜空に輝く幻想的な観音像の姿を特別公開!
出演
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
三十三間堂
京都の三十三間堂は、正式名称を**蓮華王院(れんげおういん)**といい、国宝に指定されている歴史ある仏堂です。
その最大の魅力は、本堂に安置された1001体の千手観音像が並ぶ、圧倒的な空間です。
歴史と正式名称
正式名称: 蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)
創建: 平安時代後期の1164年(長寛2年)、後白河上皇が平清盛に命じて建立されました。
名前の由来: 堂内の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれるようになりました。この「33」という数字は、観音菩薩が衆生を救うために33の姿に変化するという仏教の教えに基づいています。
1001体の千手観音像
本堂の中央には、湛慶(たんけい)作の国宝・千手観音坐像が安置されています。その左右には、等身大の国宝・千体千手観音立像が10段の階段上に整然と並んでおり、その光景は壮観の一言です。
これらの観音像は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて作られたもので、一つひとつ表情や姿が少しずつ異なり、それぞれに個性があります。
また、観音像の左右には、千手観音を守護する二十八部衆や風神・雷神像が配置されており、これらもすべて国宝に指定されています。
通し矢(大的全国大会)
三十三間堂は、江戸時代から行われてきた「通し矢」でも有名です。これは、本堂の軒下を端から端まで矢を射通す弓術の競技で、多くの弓士が記録に挑戦しました。
現在では、毎年1月中旬に「大的全国大会」として、新成人を対象とした弓道の全国大会が開催されています。
アクセス
バス: JR京都駅から市バス(100・206・208系統)で「博物館三十三間堂前」下車すぐ。
電車: 京阪電車「七条駅」から徒歩約7分。
徒歩: JR京都駅から徒歩約20分。
地盤改良
三十三間堂が建立された平安時代には、現代のようなセメントや鉄筋を使った地盤改良技術は存在しませんでしたが、古来の知恵に基づいた独自の工夫が施されていました。
「版築(はんちく)」工法
発掘調査などから、三十三間堂の建設にあたっては、地盤を固めるために「版築」と呼ばれる工法が用いられていたことが分かっています。
この工法は、土を何層にも重ねて突き固めることで、強固な基礎を築くというものです。三十三間堂では、質の異なる2種類の土を数センチの厚さで交互に突き固めることで、建物の重さを支える強固な地盤が作られました。
免震効果
この版築工法で作られた人工の地盤は、現代の免震構造と類似した効果を持っていると考えられています。土の層が地震の揺れを吸収し、建物への影響を軽減する役割を果たしていたとされています。
この地盤の工夫に加え、揺れを吸収する「羽目板」や、柱と梁を緩やかに接合するといった建物の構造上の工夫も相まって、三十三間堂は幾多の地震を耐え抜いてきました。
過去には仏像が転倒するような被害はあったものの、本堂自体が倒壊することなく現存しているのは、当時の優れた地盤改良と建築技術の賜物と言えるでしょう。
応仁の乱は、1467年から1477年までの約11年間にわたって、主に京都を舞台に繰り広げられた内乱です。室町幕府の将軍家の後継者争いや、有力守護大名である細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の対立が複雑に絡み合い、全国の武士を巻き込んだ大規模な戦争に発展しました。
建造物が破壊された理由
応仁の乱で京都の多くの寺社仏閣が焼失した主な理由は、以下の通りです。
市街地が主戦場となったため: 両軍は京都の中心部に陣を構え、互いの本陣や屋敷を攻防の場としました。市街戦が頻繁に行われ、多くの建物が戦闘の巻き添えになりました。
放火による焼き討ち: 敵対する陣営の拠点を焼き払うことが戦術として用いられました。また、長引く戦乱の中で、略奪や放火を行う足軽(下級兵士)の統制が取れなくなり、無差別な破壊が進みました。
長期にわたる戦乱: 戦争が11年という長期間に及んだため、一度焼失した建物が再建されることもなく、京都の町は荒廃しました。公家や町人たちは戦火を避けて地方へ避難し、都の文化や秩序は崩壊しました。
応仁の乱は、京都の歴史的な景観と文化財に甚大な被害をもたらし、室町幕府の権威を決定的に失墜させ、戦国時代の幕開けとなりました。
【小学生でもわかる応仁の乱】乱が起きた理由がわからない?戦国時代のきっかけとなった大乱を流れで解説!
この動画は、小学生にもわかるように応仁の乱の原因と流れを解説しています。
末法思想
末法思想とは、仏教の教えが時代とともに衰退していくという考え方です。仏教の開祖であるお釈迦様の入滅後、時代が**「正法」「像法」「末法」**の三段階に分かれて進んでいくとされます。
時代の区分
正法(しょうぼう) 釈迦の教えが正しく伝わり、修行によって悟りを開くことができる時代です。お釈迦様の入滅後500年〜1000年続くとされます。
像法(ぞうぼう) 教えの形は残っているものの、修行によって悟りを開くことが困難になる時代です。正法の後に1000年続くとされます。
末法(まっぽう) 教義だけが残り、人々が悟りを開くことが不可能になる時代です。像法の後、1万年続くとされ、世の中が乱れ、災害や戦乱が頻発すると考えられました。
日本における末法思想
日本には平安時代後期にこの思想が広まりました。特に1052年が末法元年にあたると考えられており、この時期は実際に天災や戦乱が相次いでいました。
末法思想が広まったことで、人々は自力で悟りを開くことを諦め、阿弥陀仏の救済を信じて極楽浄土へ生まれ変わることを願う「浄土信仰」が盛んになりました。これを受けて、空也や源信といった僧侶が浄土信仰を広め、後に法然が浄土宗を開くなど、日本仏教の発展に大きな影響を与えました。
後白河法皇が三十三間堂を建立した目的
後白河法皇が三十三間堂を建立した目的は、主に仏教的な信仰心と国家の安泰を願うことにありました。
建立の背景
三十三間堂の正式名称は「蓮華王院」で、後白河法皇が自身の持仏堂として、武士の平清盛の協力を得て1164年に創建しました。当時、後白河法皇は院政を行っており、自身の権威を内外に示すためにも、壮大な寺院の建立を計画したと考えられています。
建立の目的
仏教信仰: 後白河法皇は熱心な仏教徒で、特に観音信仰に深く帰依していました。千手観音は、千の手と千の眼で衆生を救済するとされることから、その力を借りて国家の安寧を願いました。
国家安泰と鎮護: 院政期に入り政治的に不安定な世の中において、千体の観音像を安置することで、仏の力によって国や人々を護り、戦乱や天災を鎮めようとしました。
千体の観音像が並ぶ三十三間堂は、当時の人々に仏教の慈悲と荘厳さを強く印象づけ、後白河法皇の信仰心と政治的権威を象徴する重要な建造物となりました。
千手観音
千手観音は、正式には「千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)」と呼ばれます。その名前と姿には、仏の広大な慈悲と救済の力が込められています。
なぜ「千手」観音と呼ばれるのか
千手観音の「千本の手」は、**「無数の救いの手」**を象徴しています。これは、どのような衆生(生きとし生けるもの)であっても、一人も漏らさず救済しようとする観音菩薩の広大で無限の慈悲を表しています。
ただし、実際に千本の手を持つ仏像は非常に稀で、日本のほとんどの千手観音像は42本の手で表されています。これは、以下の仏教的な思想に基づいています。
両脇の40本の手:私たちのいる世界を25の迷いの世界に分けた「二十五有(にじゅうごう)」を救済すると考えられています。
25(世界)×40(手)=1000(救済):この計算から、42本の手が千本分の救済の力を持ち、すべての人を救うことを表現しているのです。
手に持っているもの(持物)
千手観音の手に持っている道具や武器は「持物(じもつ)」と呼ばれ、それぞれに人々を救うための意味があります。
宝剣(ほうけん): 智慧の力で人々の煩悩を断ち切る。
宝珠(ほうじゅ): 人々の願いを叶える。
宝弓(ほうきゅう)と宝箭(ほうせん): 迷える人々を正しい道に導く。
錫杖(しゃくじょう): 悪や災難を払い、人々の苦しみを救う。
羂索(けんさく): 投げ縄のような形で、迷いや苦しみから人々を救い上げる。
これらの持物は、千手観音が人々の多様な悩みや苦しみに応じて、最適な方法で救済することを象徴しています。それぞれの掌には「眼(まなこ)」が描かれており、その眼で苦しむ人々を見つけ、手で救いの手を差し伸べるとされています。
三十三間堂に安置されている千手観音像は、後白河法皇が創建した平安時代後期のものと、火災後に再建された鎌倉時代のもので、様式に違いが見られます。
平安時代の仏像(長寛仏)
後白河法皇の創建(1164年)当時に作られ、火災を免れた124体がこれにあたります。
特徴: 平安時代に流行した仏師・定朝(じょうちょう)の様式を継承しています。全体的にふっくらとしていて、丸みを帯びたやわらかで穏やかな表情をしています。
作風: 貴族的な美しさを追求した、優雅で和やかな雰囲気が特徴です。
鎌倉時代の仏像
1249年の火災で焼失した仏像を再興するために、1251年から16年かけて造られました。これらの像の多くは、大仏師・湛慶(たんけい)とその弟子たちによって制作されました。
特徴: 平安時代の様式を踏襲しつつも、より写実的で力強い表現が加わっています。
作風: 鎧をまとった武士のような、質実剛健で堂々とした姿が特徴です。特に、玉眼(ぎょくがん)という水晶をはめ込んだ目が用いられていることが多く、目が生きているかのように力強く、表情豊かに見えます。
この時代による様式の違いは、千体観音像をよく見ると、表情や衣のひだの表現などに表れており、それぞれの時代の仏像制作の特色を知る上で興味深い点です。
現世利益(げんせりやく)
「現世利益(げんせりやく)」とは、仏や神様を信仰することで、この世において得られるご利益のことです。具体的には、病気の治癒、商売繁盛、学業成就、無病息災、子宝など、私たちが生きている間に現実的な形で受けられる恩恵を指します。
「現世利益」と「来世利益」
仏教では、現世利益と対照的に「来世利益(らいせりやく)」という考え方もあります。
現世利益: 今生きているこの世での幸福や豊かさを求めるご利益です。
来世利益: 死後、苦しみのない世界(極楽浄土など)へ生まれ変わることを願うご利益です。
日本の仏教では、古くから両方の考え方が存在しますが、特に末法思想が広まった平安時代後期以降、阿弥陀如来を信じて極楽浄土へ生まれ変わることを願う来世利益の信仰が盛んになりました。一方で、厄除けや病気治癒などの現世利益は、庶民の間で広く信仰され続けました。
現代の「現世利益」
現代においても、多くの人が現世利益を求めています。例えば、受験シーズンに学問の神様として有名な神社へお参りしたり、商売繁盛を願って七福神を祀ったりするのも、現世利益を求める行動の一例です。
現世利益を説く主な宗派や仏様
真言宗・天台宗:密教では、修行によって仏と一体となり、現世での幸福を実現できると説きます。
日蓮宗:法華経を信仰することで、現世でのご利益が得られると説きます。
観音菩薩や不動明王:これらの仏様は、人々の願いを聞き入れて、現世利益をもたらすと広く信じられています。
三十三間堂の防火対策
三十三間堂は、過去に大規模な火災を経験したことから、現代の技術と伝統的な知恵の両方を用いた厳重な防火対策が講じられています。
過去の火災から学ぶ
三十三間堂は、創建からわずか85年後の1249年に、大規模な火災で本堂が焼失し、多くの仏像も失われました。この教訓から、再建時には防火対策がより重視され、現代でも文化財を守るための対策が最優先されています。
現代の防火・消火システム
スプリンクラー設備の設置: 2011年に、重要文化財保護のための特別なスプリンクラー設備が本堂内に設置されました。これは、仏像や建材を傷つけないよう、霧状の水を噴射するタイプのものです。
監視カメラと熱センサー: 本堂内外に設置された高感度カメラと熱センサーが、24時間体制で不審な火気や温度異常を監視しています。
自動火災報知設備: 火災を早期に検知するための自動報知システムが、京都の消防署と直結しています。
伝統的な防火対策
周辺の定期的な清掃: 寺院の敷地内にある枯れ葉や落ち葉をこまめに清掃し、燃えやすいものをなくす努力が続けられています。
定期的な消防訓練: 消防署と連携し、定期的に防災訓練や避難訓練を実施することで、万が一の事態に備えています。
これらの対策は、仏像や建物を傷つけず、火災を早期に発見・鎮火することを目的としており、伝統と最新技術を融合させた、文化財保護の模範事例となっています。
三十三間堂の国王指定について
三十三間堂が国宝に指定されたのは、建物の国宝指定は1952年、仏像群の国宝指定も古いものは1900年代初頭から進められてきました。
1001体の千手観音立像すべてが「国宝」として一括指定されたのが2018年でした。これには、以下の2つの理由があります。
1. 「国宝」指定制度の変遷
日本の文化財保護制度は時代とともに変化してきました。
明治時代: 当時は現在の「重要文化財」にあたるものも「国宝」と呼ばれていました。三十三間堂の本堂や一部の仏像もこの旧制度で「国宝」に指定されています。
戦後(文化財保護法): 1950年に「文化財保護法」が制定され、現在の「国宝」「重要文化財」の明確な区別ができました。三十三間堂の本堂は1952年に国宝に、大仏群も段階的に国宝に指定されていきました。
2. 仏像の修復・調査に長い年月がかかったため
三十三間堂の1001体の観音像は、それぞれが個別の文化財であり、非常に長い期間をかけて修理と調査が行われてきました。
1973年~2018年: 1001体の観音像は、約45年という長い年月をかけて修理が行われました。
2018年: 修復が完了したことを機に、仏像の歴史的・美術的価値が改めて評価され、1001体すべてが「木造千手観音立像」としてまとめて国宝に指定されました。
このように、時間がかかったのは、膨大な数の文化財を一つひとつ丁寧に調査し、修復するのに長い歳月を要したためです。
三十三間堂の「木造千手観音立像」が国宝に
この動画は、1001体の観音像が国宝に指定された際のニュースを報じています。
豊臣秀吉が建立した大仏と大仏殿
三十三間堂の北側に位置する豊臣秀吉が建立した大仏と大仏殿は、現在の京都市東山区にある方広寺にありました。
方広寺の大仏と大仏殿
創建の目的: 秀吉は、東大寺の大仏が戦火で焼失したことに代わるものとして、巨大な大仏と大仏殿を建立することで、自身の権威を内外に示そうとしました。
規模: 大仏殿は東大寺の大仏殿を上回る規模で、高さ約49メートル、間口約88メートル、奥行き約54メートルと推定されており、当時の日本では最大級の木造建築でした。大仏の高さも東大寺大仏をしのぐ約19メートルでした。
歴史と焼失:
初代大仏: 1595年に完成したものの、翌年の慶長伏見地震で大破。
再建と「国家安康」: 秀吉の死後、子の豊臣秀頼によって再建が進められましたが、1614年に完成した梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が徳川家康の怒りを買い、大坂の陣のきっかけの一つとなりました。
最終的な焼失: 大仏と大仏殿はその後も再建と焼失を繰り返し、1798年の落雷によって焼失し、以降同じ規模のものは再建されませんでした。
現在、方広寺の境内には、大仏殿の土台の一部であった巨大な石垣や、有名な「国家安康」の銘文が刻まれた梵鐘が残っています。また、大仏殿があった場所は「大仏殿跡緑地公園」として整備されています。
大仏餅
京都の方広寺にあった「大仏餅」は、現在、京菓子の老舗「甘春堂」によって復活・販売されています。これは、一度は姿を消した名物を、歴史的な文献に基づいて現代に蘇らせたものです。
「大仏餅」の歴史と消滅
「大仏餅」は、豊臣秀吉が方広寺に大仏殿を建立した**安土桃山時代(1595年頃)**に、門前で売られ始めたのが起源とされています。
当時の人気: 「都名所図会」などの江戸時代の文献にも記されており、煮ても溶けず、焼くと香ばしい餅として、京都の町衆や観光客に大いに親しまれていた名物でした。
消滅の背景: 大仏殿は幾度もの火災や地震で焼失し、やがてその門前も賑わいを失い、「大仏餅」を売っていた店も昭和17年頃に廃業してしまいました。
幻の名物の復活ストーリー
大仏餅が姿を消してから約50年後、甘春堂の職人が、古文書に残された大仏餅の記述と、当時の製法をヒントにその復元を試みました。
製法へのこだわり: 文献にある「煮ても溶けず、焼くと香ばしい」という特徴を再現するため、原材料のもち米や製法にこだわり、餅を杵と石臼で丁寧につきました。
焼き印の復元: 餅の表面に押された「京大佛」の焼き印も、文献に残る絵図を参考に再現しました。
こうして、かつて方広寺の参道で愛された「大仏餅」が、甘春堂の銘菓として見事に復活を遂げました。今では、当時と同じく柔らかな白い餅の中にあんこが包まれ、歴史の面影を感じさせる一品として人気を集めています。
画像は公式からの引用です
徳川家康と三十三間堂と方広寺
三十三間堂と徳川家康
徳川家康が直接三十三間堂の創建や再建に関わった記録は残っていませんが、江戸時代を通して徳川家が寺社を保護する中で、三十三間堂もその庇護を受けていました。
「通し矢」と家康の関与: 三十三間堂の軒下で行われた「通し矢」は、江戸時代に盛んになった武士の競技です。徳川幕府三代将軍の家光が、雨や飛んでくる矢から建物を守るために、軒に鉄板を付け加えたという記録があります。これは、三十三間堂が幕府によって保護されていたことを示しています。
伏見城の血天井: 三十三間堂の廊下の天井には「血天井」と呼ばれる板があり、関ヶ原の戦いの前哨戦で伏見城が落城した際に、徳川家の家臣が自刃した床板を供養のために移築したと伝えられています。これは、徳川家が三十三間堂とのつながりを深く持っていたことを示す象徴的な出来事です。
方広寺と徳川家康
一方、方広寺については、家康が積極的に「守った」というよりも、むしろ政治的な目的で利用したという背景があります。
豊臣秀吉の建立: 方広寺の大仏殿と大仏は、豊臣秀吉が豊臣家の威信をかけて建立したものです。
「鐘銘事件」と豊臣家滅亡: 秀吉の死後、豊臣秀頼が再建した大仏殿に納める梵鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」という言葉がありました。徳川家康はこれを、自分の名前である「家康」を分断して呪詛し、豊臣家の繁栄を願うものだと難癖をつけました。これが、大坂の陣の直接的なきっかけとなり、豊臣家滅亡へとつながりました。
このため、方広寺は家康にとって豊臣家を滅ぼすための口実を提供する場所であり、秀吉が築いた権威の象徴を打ち破るための対象であったと考えられています。
結論として、三十三間堂は徳川幕府の保護政策の一環として大切に維持されたのに対し、方広寺は徳川家康が豊臣家を滅ぼすための政治的な舞台として利用されたという、全く異なる背景を持つ歴史的遺産です。
通し矢(とおしや)
「通し矢(とおしや)」とは、京都の三十三間堂の軒下で行われた、弓道の技術を競う伝統的な競技です。
競技の概要
場所: 三十三間堂の南端から北端までの約120メートルの軒下で、的に向かって矢を射るものです。
ルール: 決められた時間(主に24時間)内に、どれだけの数の矢を射通すかを競いました。
歴史的背景
通し矢は、江戸時代に特に盛んになり、紀州藩や尾張藩などの各藩の弓術家たちが記録更新をかけて挑みました。この競技は、単に弓術の腕前を競うだけでなく、武士としての名誉をかけた真剣勝負でした。
最高の記録
通し矢の最高記録は、紀州藩の和佐大八郎が貞享3年(1686年)に樹立したものです。彼は24時間で13,053本の矢を放ち、そのうち8,133本を射通すという、驚異的な記録を残しました。これは、約6秒に1本のペースで矢を放ち続けた計算になります。
現代の通し矢
現在、三十三間堂で当時の通し矢は行われていません。代わりに、毎年1月には「大的全国大会」が開催されています。これは、新成人を対象とした弓道の全国大会で、矢を射る距離は60メートルと、当時の通し矢の半分になっています。
🚶京都・三十三間堂をブラブラ🕶️#ブラタモリ
— NHK京都 (@nhk_kyoto) September 19, 2025
「京都 国宝・三十三間堂SP
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三十三間堂の仏像と本堂すべてが国宝✨
約800年もの間、火災や地震、戦乱など
数々の危機を乗り越え守られてきた
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20(土)[総合]後7:30放送予定https://t.co/7fa2ZveQEj






















