これで解った!平安神宮😎ブラタモリ 京都・平安神宮▼復興の象徴として誕生!京都に何をもたらした?
これで解った!平安神宮
こんにちは
猫好き父さんです
そのとき感じた疑問とか
新たに解ったこととか
いろいろ楽しかったです
やはり良いですねえ
ブラタモリ
ブラ平安神宮
今回の舞台は京都・平安神宮!実は明治時代に誕生したこの神宮は、衰退した京都を立て直すための壮大な計画の一環だった?平安京にあった建物を再現した社殿、琵琶湖疏水の水を活用した壮大な庭園に込められた思いとは?さらにタモリが人力車で町をめぐり、京都の町が近代化する礎となった電車や文化施設が生まれたワケ、復興のカギとなった意外な仕組みを解明!京都三大祭の1つ”時代祭”が受け継いできた京都の人々の誇りとは?
出演者
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
は、京都府京都市左京区岡崎に位置する、明治時代に創建された歴史ある神社です。1895年(明治28年)に、平安遷都1100年を記念して建てられました。かつての平安京の正庁である「朝堂院」を約8分の5の規模で再現した壮大な社殿が特徴で、国の重要文化財にも指定されています。
大鳥居と鮮やかな社殿
参道にそびえる高さ約24メートルの大鳥居は、岡崎のランドマークとして有名です。境内に入ると、朱塗りと緑の瓦のコントラストが美しい「大極殿」や「応天門」が目を引き、まるで平安時代にタイムスリップしたかのような圧倒的なスケール感を味わえます。
広大な日本庭園「神苑」
社殿を取り囲むように、総面積約1万坪におよぶ広大な池泉回遊式庭園「神苑(しんえん)」が広がっています。国の名勝にも指定されており、春の「紅しだれ桜」、初夏の「カキツバタ」や「花菖蒲」、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季折々の美しい日本情緒を堪能できます。
歴史と御祭神
平安京を開いた第50代「桓武天皇」と、平安京最後の天皇である第121代「孝明天皇」が御祭神として祀られており、京都の開運・厄除けのパワースポットとしても信仰を集めています。また、毎年10月22日に開催される京都三大祭りの一つ「時代祭り」の中心的役割を担う神社としても知られています。
平安神宮の建立に深く関わっているのは、1895年(明治28年)に京都の岡崎(現在の平安神宮周辺)で開催された「第四回内国勧業博覧会」です。
当時の京都は、明治維新による東京奠都(事実上の首都移転)によって人口が激減し、産業も衰退して「いずれ狐や狸の棲家になる」とまで言われるほどの危機にありました。そこから街を復興させるための大プロジェクトの集大成として、「平安遷都1100年記念祭」と、この「内国勧業博覧会」の誘致が同時に進められたのです。
第四回内国勧業博覧会とは?
内国勧業博覧会は、明治政府が国内の産業奨励(殖産興業)のために主催していた、今でいう「国家規模の巨大な見本市・万博」のようなものです。
それまでの第1回〜第3回はすべて東京の上野で開催されていましたが、京都の政財界や市民による熱心な誘致運動の結果、初めて地方(京都)での開催が実現しました。
博覧会と平安神宮の深い関係
博覧会の最大の目玉(シンボル)として建設されたのが、平安京の正庁を再現した「大極殿(だいごくでん)」などの建築群でした。
博覧会の期間中は「歴史や文化を伝える記念建造物」として組み込まれ、博覧会が終了した後に、それらの建物をそのまま残して「平安神宮」として正式に創建されました。つまり、博覧会の会場の一部が、現在の平安神宮の境内そのものになったのです。
京都の近代化を加速させた「博覧会の遺産」
この博覧会は、日清戦争の最中という緊迫した状況下での強行開催でしたが、4ヶ月の期間中に約113万人もの来場者が訪れ、大成功を収めました。さらに、この博覧会をきっかけに京都の街は一気に近代化へ舵を切ることになります。
日本初の路面電車の開業
全国からやってくる大量の観光客を京都駅から博覧会会場(岡崎)まで運ぶため、日本で初めての一般営業用「京都電気鉄道(チンチン電車)」がこの年に開業しました。
電化へのシフト
会場内の「機械館」を動かす動力源として、完成したばかりの琵琶湖疏水を利用した水力発電の電気が使われました。それまでの石炭による蒸気機関から「電力の時代」への幕開けを世に知らしめる象徴となりました。
インフラと観光都市への基盤
周辺の道路や宿泊施設、さらに琵琶湖疏水周辺の整備が一進められ、現在の「観光都市・京都」のインフラがこの博覧会によって形作られました。
ちょっとした歴史の逸話:
この博覧会の美術館では、洋画家の黒田清輝がフランスから持ち帰った裸体画『朝妝(ちょうしょう)』を出品し、「風紀を乱す」として大騒動(裸体画論争)が巻き起こるなど、文化的な面でも新しい時代の到来を告げる話題に事欠かない一大イベントでした。
明治維新に伴う「東京奠都(とうきょうてんと・事実上の首都移転)」は、当時の京都の人々にとって、単なる政治の仕組みの変更ではなく、「街の存亡の危機」そのものでした。
千年以上続いた「都」としてのプライドと、それを支えていた経済基盤が根底から崩れ去った瞬間から、第四回内国勧業博覧会による奇跡の復活劇までの流れを紐解いてみましょう。
1. 天皇の東京移住(東京奠都)の背景
1868年(明治元年)、明治天皇は一連の儀式を終えた後、「東幸(とうこう)」として江戸(東京)へ向かわれました。当初、これは「一時的な行幸(お出かけ)」として京都の市民に説明されていました。千年もの間、天皇とともに歩んできた京都の人々が猛反発し、暴動が起きるのを恐れた明治政府による「方便」だったのです。
しかし翌1869年(明治2年)、天皇は再び東京へ向かい、そのまま皇居を旧江戸城へと移されました。太政官(政府機関)もすべて東京へ移転。法律上「遷都(都を移す)」という宣言こそ明確になされなかったものの、事実上の首都は完全に東京へと移り、京都は「天皇のいない街」になってしまいました。
2. 京都を襲った壊滅的な経済的ダメージ
この移住が京都に与えた経済的打撃は、現在の感覚を遥かに超える凄まじいものでした。
凄まじい人口激減(街の空洞化)
天皇の移住に伴い、皇族、公家(貴族)、その家臣や奉公人、さらに政府関係者が一斉に東京へ引っ越しました。当時の京都の人口(約30万人弱)のうち、実に数万人規模の知識層・富裕層がわずか数年で姿を消したと言われています。
伝統産業の完全なマヒ(最大顧客の喪失)
京都の主力産業だった「西陣織」や「京人形」「京高台寺蒔絵」などの高級工芸品は、宮廷や公家という「究極のハイエンド層」の需要で成り立っていました。彼らがいなくなったことで注文は激減。職人たちは仕事を失い、街には失業者が溢れかえりました。
地価の暴落と商業の停滞
富裕層が去った広大な公家屋敷は荒れ果て、地価は暴落。一時は「京都はタヌキやキツネの棲家になる」「このまま廃墟になるのではないか」と本気で囁かれるほど、経済は完全に冷え切ってしまいました。
3. 「このままでは死ぬ」京都の逆襲と近代化
この絶望的な状況を打破するため、京都の政財界や市民が立ち上がりました。ここで取られた戦略が、「古い都の殻を破り、最先端の技術で産業都市に生まれ変わる」という驚くべき方向転換です。
当時の京都府知事・槇村正直や、実業家の山本覚馬(新島襄の義兄)らが中心となり、以下のような日本初の試みが次々と実行されました。
| 施策・プロジェクト | 経済への影響と目的 |
京都博覧会の定期開催 (明治5年〜) | 日本で最初期の博覧会を毎年開催。西陣織などの技術をアピールし、国内外のバイヤーや観光客を呼び込む起爆剤とした。 |
琵琶湖疏水(そすい)の建設 (明治23年完成) | 琵琶湖から京都へ水を引く大工事。水運の復活だけでなく、日本初の商業用水力発電所を建設し、工場への電力供給を可能にした。 |
| 舎密局(せいみきょく)の設立 | 理化学の専門機関を作り、海外の最新技術を導入。伝統的な染色技術(西陣織など)に化学染料を取り入れ、産業を近代化した。 |
4. 集大成としての「第四回内国勧業博覧会」
これらの血の滲むような近代化の努力が実を結び、1895年(明治28年)、ついに「第四回内国勧業博覧会」の誘致に成功します。
京都の人々にとって、この博覧会は単なるイベントではありませんでした。
「天皇がいなくなって30年、私たちはここまで自力で復興し、日本最先端の電気とインフラを持つ街になった」という、東京(国)に対する強烈なプライドの証明だったのです。
この博覧会会場のシンボルとして、かつての栄光である平安京をオマージュした「平安神宮(大極殿)」が建てられたのは、まさに「伝統の継承」と「近代化の成功」を同時に世界へ見せつけるためでした。
歴史の皮肉と幸運:
天皇が東京へ移ったからこそ、京都は必死に「日本初」の近代化インフラ(水力発電や路面電車)を整備せざるを得ませんでした。もしあのまま首都であり続けていたら、景観を守るためにこれほどドラスティックな大改革はできなかったかもしれません。
東京奠都(事実上の首都移転)によって衰退の危機にあった京都を救った、日本史上空前の大プロジェクトが「琵琶湖疏水(びわこそすい)」の建設です。
これは単に水を引くだけの工事ではなく、日本で初めての「電気の力」を使って街を丸ごとアップデートする、明治の一大イノベーションでした。
1. 琵琶湖疏水:若きエンジニアの無謀と言われた挑戦
1881年(明治14年)、第3代京都府知事に就任した北垣国道(きたがき くにみち)は、京都復活の命綱として琵琶湖から水を引く大計画を掲げました。
しかし、当時のお金で約125万円(当時の京都府の年間予算の約2倍)という巨額の費用がかかるため、周囲からは「できるわけがない」「京都を破産させる気か」と猛反対を受けます。さらに、この国家級プロジェクトの総責任者に抜擢されたのは、大学を卒業したばかりの弱冠21歳の若き技術者、田辺朔郎(たなべ さくろう)でした。
当時の日本は、お雇い外国人(海外の専門家)に頼るのが当たり前の時代でしたが、田辺は「これからは日本人の力でインフラを作らねばならない」と、すべて日本人の手で設計・施工を行いました。
工事を支えた三大技術革新
日本初のシャフト(縦坑)工法:長大な「第一トンネル」を掘る際、山の頂上から垂直に2本の深い穴を掘り、そこから両側へ向かって掘り進める最先端工法を採用。これにより、工期を劇的に短縮しました。
日本初の本格的なコンクリート使用:当時はまだ珍しかったセメントを国内(深川)から調達し、トンネルの入り口や水路の壁面に使用。日本のコンクリート建造物の先駆となりました。
1885年に着工し、5年近くの歳月をかけ、多くの殉職者を出しながらも1890年(明治23年)に第一疏水が完成。この時、京都に流れてきた水が、街の運命を180度変えることになります。
2. 蹴上発電所の誕生:アメリカでのひらめきと大逆転
実は、最初の計画段階では「水力発電」は予定されていませんでした。当初の目的は、「水運(舟で物資を運ぶ)」「水車(工場の動力)」「灌漑(農業)」「防火」の4つだったのです。
しかし、工事の途中で田辺朔郎と北垣知事がアメリカへ視察に赴いた際、誕生したばかりの「水力発電」という未知のテクノロジーを目撃します。
「これからは水車で直接機械を回す時代じゃない。水を電気に変えて、電線で街中に送る時代だ!」と確信した二人は、急遽設計を変更。1891年(明治24年)、京都の蹴上(けあげ)に日本初の商業用水力発電所「蹴上発電所」を建設しました。
インクライン(傾斜鉄道)の誕生
水力発電によって大量の電気が生まれたことで、副産物としてユニークな乗り物が誕生しました。蹴上の急斜面は舟が通れないため、舟を台車に載せ、電気の力(ケーブルカーの原理)で斜面を上り下りさせる「インクライン」が作られたのです。これにより、大津〜京都間の物流が劇的にスピードアップしました。
3. 「電気」が京都の産業に与えた4つの衝撃
蹴上発電所が生み出した電力は、経済が死にかけていた京都の産業を完全に蘇らせました。
① 西陣織の完全復活とオートメーション化
それまで職人が手足を使って1台ずつ織っていた西陣織の織機(ジャカード織機)に、電気モーターが導入されました。これにより工場は一気に機械化され、生産性が爆発的に向上。世界的な高級絹織物ブランドとしての地位を不動のものにしました。
② 日本初の路面電車(京都電気鉄道)の運行
前述の「第四回内国勧業博覧会」に合わせて、1895年に日本初のチンチン電車が開業できたのは、この蹴上発電所の電気があったからです。人々の移動手段を革新し、観光都市としての基盤を造りました。
③ 24時間操業を可能にした「電灯」の普及
それまではガス灯や石油ランプだった街や工場に、明るい電灯が灯りました。これにより夜間の作業が可能になり、各種製造業の生産力が一飛躍を遂げました。
④ 新たな近代産業(島津製作所など)の台頭
電気が身近になったことで、京都には「科学技術」をベースにした新しい企業が育ち始めました。現在も精密機器で世界的に有名な「島津製作所」などが、この時期の京都の科学熱・電気熱の中で大きく成長していくことになります。
明治維新で最大の危機に瀕した京都は、琵琶湖疏水という「水の恵み」を「電気のエネルギー」へと変換することで、日本で最も先進的なインフラを持つモダン都市へと生まれ変わりました。
平安神宮を訪れた際、周囲を流れる岡崎の美しい水路(疏水)は、当時の京都人たちが命をかけて街を蘇らせようとした、情熱の跡そのものなのです。
琵琶湖疏水が平安神宮にもたらした「水以外のもの」――それは、「琵琶湖の固有種や絶滅危惧種が生息する、タイムカプセルのような独自の生態系」です。
一見、美しく整えられた日本庭園に見える平安神宮の「神苑(しんえん)」ですが、実は琵琶湖の水が流れ込んだことによって、琵琶湖の古い生態系がそのまま引っ越してきて守られるという、驚くべき奇跡が起きています。
1. 琵琶湖では激減した「幻の魚」が生き残る場所
神苑の池には、琵琶湖疏水を通じて運ばれてきた琵琶湖の魚たちが数多く生息しています。
その筆頭が、国の絶滅危惧種であり、滋賀県でも絶滅危惧Ⅰ類に指定されている「イチモンジタナゴ」(関西では「ぼてじゃこ」とも呼ばれます)です。
本家で消え、京都で生き残る逆転現象
琵琶湖の本湖では、開発による護岸工事や外来魚(ブラックバスやブルーギルなど)の繁殖、さらに水質変化によって、イチモンジタナゴはほとんど姿を消してしまいました。
神苑が「聖域」になった理由
明治時代に疏水から神苑の池に流れ着いた彼らの祖先は、外来魚の侵入が少なかった神苑の静かな池を気に入りました。タナゴは卵を二枚貝(カラスガイなど)の体内に産み付ける特殊な生態を持っていますが、神苑の池にはその貝も疏水から一緒に運ばれ、豊かに育っていました。
その結果、「本家・琵琶湖では絶滅寸前なのに、京都の平安神宮の池には今もひっそりと生き残っている」という、極めて貴重な「タイムカプセル」のような生態系が誕生したのです。現在は平安神宮と琵琶湖博物館などが協定を結び、この貴重な遺伝子を守るための保全活動も行われています。
2. 水路が運んだ、その他の「琵琶湖の生きたお土産」
イチモンジタナゴ以外にも、疏水は多くの生き物や植物を岡崎の地へと運びました。
多様な淡水魚や貝類
モツゴやヨシノボリ、そしてタナゴの繁殖に欠かせないドブガイやカラスガイなどの貝類も、疏水という「生命のハイウェイ」を通ってやってきました。
水辺の植物や昆虫
神苑を彩る初夏のカキツバタや花菖蒲、水生植物の周囲には、疏水を伝ってやってきたトンボなどの昆虫も定着し、豊かな里山の風景を京都の街中に作り出しました。
3. 造園の天才・小川治兵衛の計算と「水の変化」
神苑を作庭した明治の名造園家・7代目小川治兵衛(植治)は、この琵琶湖疏水の水を庭園に引き込む際、単に「池を満たす」ためだけではなく、水に「動きと音」を与えて庭に変化をもたらしました。
豊かな水量だからできた「三条サクラ」などの演出
それまでの京都の庭園は、地下水や雨水に頼るものが多く、どうしても水が淀みがちでした。しかし、琵琶湖疏水は圧倒的な水量と水圧を持っています。治兵衛はその勢いを利用して、神苑の中に贅沢な滝を組み込み、せせらぎの音を響かせ、池の水を常に循環させました。
「水鏡」の美しさ
常に新鮮な水が供給されるため水質が安定し、有名な「泰鳳館(たいほうかん)」や、池に架かる「泰平閣(橋殿)」が水面に美しく映り込む、鏡のような景観を作り出すことに成功しました。
まとめ
琵琶湖疏水が平安神宮に運んだもの。それはただの水ではなく、「琵琶湖の生命そのもの」であり、職人が手を入れた日本庭園の中に「野生の奇跡」を融和させるという、近代京都ならではのダイナミックな変化でした。
平安神宮の神苑を歩く機会があれば、その池の底で、130年以上前に滋賀から旅してきた幻の魚たちの末裔が今も泳いでいる姿を、ぜひ想像してみてください。
博覧会のなごり
平安神宮が建つ「岡崎エリア」は、1895年の第四回内国勧業博覧会の跡地そのものであり、現在も京都を代表する文化・芸術の一大拠点となっています。
博覧会のパビリオンが建ち並んでいた広大な敷地は、のちに近代的な施設へと姿を変え、博覧会の記憶や建物の面影を今に伝えています。周辺の主要な文化施設と、そこに見られる「博覧会のなごり」をご紹介します。
博覧会当時の「美術館」が建っていたまさにその場所に、1933年(昭和8年)に「京都市美術館」として開館した、現存する日本最古の公立美術館建築です。2020年に大規模リニューアルされ、現在の名称になりました。
博覧会のなごり:当時の博覧会で大評判となった「美術展」の精神を引き継ぐ形で建てられました。和洋折衷の「帝冠様式」と呼ばれる建築様式は、岡崎エリアの歴史的な景観を象徴しています。
京都の文化芸術の発信地であるこの多目的ホールの敷地には、博覧会当時、最大のパビリオンである「工業館」が建てられていました。
博覧会のなごり:博覧会終了後、敷地は「岡崎公園」として整備され、大正時代には勧業博覧会の記憶を伝える「京都市勧業館(初代)」が建てられました。その後、日本を代表する建築家・前川國男の設計によって「京都会館」が誕生し、現在はロームシアター京都として近代建築の価値を残しながら活用されています。
平安神宮の応天門からまっすぐ南に位置するこの図書館は、博覧会当時は「府県売店」などの商業施設が並んでいたエリアに位置しています。
博覧会のなごり:博覧会閉幕からまもない1909年(明治42年)、明治の宮廷建築家・武田五一の設計によって建てられました。阪神・淡路大震災で建物は大きな被害を受けましたが、美しい外観の正面の「壁面(ファサード)」だけを保存・修復する形で現在の近代的な建物に改築され、明治の面影を今に伝えています。
京都府立図書館の向かい、疏水に面した場所に建つこの美術館の周辺は、博覧会当時は「動物館」や「水産館」が置かれていた場所にあたります。
博覧会のなごり:この場所のすぐ近くに博覧会で設置された「動物館」は、のちに日本で2番目の歴史を持つ「京都市動物園」として東側に移転・開園しました。博覧会がもたらした「市民の学びと娯楽の場」という役割が、形を変えて周囲の施設へと受け継がれています。
街のあちこちに見つかる「博覧会の記憶」
施設以外にも、平安神宮の周辺を散策すると、当時の熱気を伝える記念碑や遺構に出会うことができます。
大鳥居のそばの「チンチン電車」のモニュメント
博覧会へのアクセスとして開業した日本初の路面電車(京都電気鉄道)の記念碑が、岡崎公園の周辺にひっそりと佇んでいます。
琵琶湖疏水沿いの「祝門」跡
博覧会のメインゲートが置かれていた付近は、現在の神宮道と二条通が交わるあたりです。当時の写真と見比べると、博覧会の敷地がいかに広大で、現在の平安神宮の参道と一体化していたかがよく分かります。
かつて全国から110万人以上が集まった見本市会場は、130年の時を経て、美しい緑とモダンな建築が調和するアートな街へと進化を遂げました。
美術館めぐりとあわせて、明治の人々が描いた「新しい京都」の空気感を感じに歩いてみるのはいかがでしょうか。気になる展示や行ってみたい施設はありましたか?
毎年10月22日に京都で開催される「時代祭り(時代まつり)」は、葵祭り、祇園祭りと並ぶ「京都三大祭り」の一つです。
このお祭りは、数千人が日本の各時代の歴史的な衣装に身を包み、京都の街(京都御所から平安神宮まで)を練り歩く「生きた歴史絵巻」のような壮大なパレードが特徴です。
そして、この時代祭りは平安神宮の創建と100%地続きで誕生した、平安神宮のための祭礼でもあります。その概要と、平安神宮との深い関わりについて紐解いてみましょう。
1. 時代祭りとは?
時代祭りの最大の見どころは、約2キロメートルに及ぶ「時代風俗行列」です。
明治維新から始まり、江戸、安土桃山、室町、吉野(南北朝)、鎌倉、藤原(平安中期)、延暦(平安初期)へと、時計の針を過去へと巻き戻していく構成になっています。
本物への圧倒的なこだわり
行列で使われる約1万点に及ぶ衣装、祭具、髪型などは、すべて京都の伝統工芸職人たちの徹底的な歴史考証によって再現された「本物」です。ただの仮装行列ではなく、京都の職人技を披露する「動く伝統工芸展」としての側面を持っています。
歴史を彩った主役たちが登場
織田信長や豊臣秀吉、坂本龍馬といった歴史上の英雄はもちろん、紫式部や清少納言、静御前、常盤御前といった歴史を彩った高名な女性たちも登場し、華やかに祭りを彩ります。
2. 平安神宮と時代祭りの「深い関わり」
時代祭りと平安神宮は、切っても切れない「表裏一体」の関係にあります。そもそもこのお祭りが始まった理由そのものが、平安神宮にあるからです。
① 始まりは「平安神宮の誕生祝い」
1895年(明治28年)、平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建された際、その誕生を盛大に祝う記念行事として始まったのが時代祭りです。つまり、平安神宮の御鎮座記念祭がこのお祭りの正体です。第一回目は、平安神宮が完成した翌日の10月25日に開催されました(第二回以降は、桓武天皇が794年に平安京へ都を移した記念日である「10月22日」に変更されました)。
② 行列の本質は「神様へ京都の発展を見せる旅」
時代祭りの行列は単なるパレードではなく、神道の重要な儀式(神幸祭・還幸祭)です。
平安神宮の御祭神である「桓武天皇」と「孝明天皇」の御霊(おみたま)が鳳輦(ほうれん・神様が乗る乗物)に移され、年に一度、住まいである平安神宮を出て京都の街を巡ります。
旅の目的:「遷都のあとも、京都の街はこれほど平和に、立派に発展していますよ」という市民の姿を神様に見ていただき、これからの京都の繁栄と人々の幸せを祈願するためです。
ルート:朝に平安神宮を出発した神様は、かつての皇居である「京都御所」へ向かいます。そこで、各時代に扮した市民の行列(お供)を従えて、午後から再び我が家である「平安神宮」へと還っていきます。
③ 祭りを支える「市民のプライド」
時代祭りを主催しているのは、京都市民によって組織された「平安講社(へいあんこうしゃ)」という団体です。
東京に首都が移り、元気をなくしていた京都の人々が、「平安神宮を中心に、もう一度京都を盛り上げよう!」と一致団結して立ち上げた組織が、今もエリア(組)ごとに分かれてそれぞれの時代の行列を担当し、衣装の維持や運営を行っています。
まとめ
時代祭りとは、東京奠都という危機を乗り越えた京都の人々が、「私たちの街の歴史と伝統はこれほど素晴らしい」というプライドをかけて平安神宮に奉納した、情熱の結晶です。
平安神宮の大極殿(本殿)へと吸い込まれるように還っていく行列のゴールシーンは、まさに神様と市民が一体になる、このお祭りのクライマックスと言えます。
【電車と人力車も登場】
— NHK PR (@NHK_PR) June 19, 2026
今夜7:30からの総合テレビ #ブラタモリ は「京都・平安神宮 なぜ明治時代に誕生?」。キーワードは「琵琶湖疏水」「庭園」「時代祭」です。タモリさんのコメントを読む➡️ https://t.co/NLi2bjCzcr




















