朝からラブシーンは良いけど蛇は苦手だなあ🐍【連続テレビ小説】ばけばけ [新] 第1週「ブシムスメ、ウラメシ。」(1)
朝からラブシーンは良いけど蛇は苦手だなあ
こんにちは
猫好き父さんです
朝ドラのラブシーン
特にキスくらいは
もう珍しくはないから
いいんだけど
蛇は苦手なんだよねえ
あらすじ
この世はうらめしい。けど、すばらしい。没落士族の娘・松野トキ(髙石あかり)と外国人の夫・ヘブン(トミー・バストウ)。怪談を愛し、何気ない日常の日々を歩んでいく夫婦の物語。明治のはじめ。小学生のトキ(福地美晴)は、父・司之介(岡部たかし)と母・フミ(池脇千鶴)、祖父・勘右衛門(小日向文世)と、世をうらみ、貧しい日々を送っていた。司之介はトキにいい暮らしをさせたいと一大決心をする。出演
【出演】髙石あかり,トミー・バストウ,小日向文世,池脇千鶴,岡部たかし,渡辺江里子,木村美穂,福地美晴,岡部ひろき,小山愛珠,中川聖一郎,髙田幸季
【作】ふじきみつ彦
【音楽】牛尾憲輔
「耳なし芳一(みみなしほういち)」は、明治時代の文豪、**小泉八雲(こいずみ やくも、ラフカディオ・ハーン)の有名な怪奇文学作品集『怪談(Kwaidan)』**に収録されている物語で、日本の有名な怪談・伝説の一つです。
舞台は、源平合戦の最終決戦地である**壇ノ浦(現在の山口県下関市)**にゆかりのある阿弥陀寺(現在の赤間神宮の前身)とされています。
👂 『耳なし芳一』のあらすじ
1. 芳一の才能
昔、壇ノ浦の近くにある**阿弥陀寺(あみだじ)に、芳一という名の盲目の琵琶法師が住んでいました。芳一は琵琶の弾き語りの名手で、特に『平家物語』の「壇ノ浦の合戦」**の段を語らせると、鬼神も涙を流すと言われるほどの腕前でした。
2. 亡霊からの依頼
ある夜、住職が留守のとき、鎧を着た武者のような男が突然芳一の前に現れます。その武者は、**「高貴なお方」**の御殿で琵琶の弾き語りをしてほしいと芳一を連れて行きます。
芳一は、そこで大勢の貴人(きじん)たちが集う座敷で演奏を披露しますが、物語が佳境に入るにつれて、聴衆が声を上げてすすり泣くなど、尋常ではない反応に驚きます。芳一は連夜の演奏を頼まれ、決して他言しないよう釘を刺されます。
3. 怨霊の正体
芳一が毎夜、無断で出かけて明け方に帰ってくることを不審に思った住職は、寺男たちに後をつけさせます。寺男たちが目撃したのは、大雨の中、芳一が平家一門の墓地で、無数の**鬼火(おにび)**に囲まれながら、亡くなった安徳天皇の墓前で琵琶を弾き語る異様な光景でした。
芳一が琵琶を弾いていたのは、壇ノ浦で滅びた**平家一門の邪悪な怨霊(おんりょう)**の集会だったのです。住職は、このままでは芳一が怨霊に命を取られてしまうと案じます。
4. お経の書き忘れ
住職は、怨霊は**「お経が書かれた部分の人間を認識できない」という性質を知っていたため、芳一を守るために、全身に『般若心経』**の経文を書きつけることにします。
しかし、急いでいたため、**耳(耳介)だけにお経を書き忘れてしまいます。**住職は芳一に、今夜再び怨霊が来ても、絶対に返事をせず、じっと動かずにいるよう厳しく言い聞かせます。
5. 耳なし芳一の誕生
その夜、再び武者が芳一を迎えに来ますが、全身に経文が書かれているため、怨霊には芳一の姿が見えません。武者がいくら呼びかけても返事がないため、怨霊は諦めて帰ろうとしますが、お経が書かれていない「耳」だけが二つ、宙に浮かんで見えることに気づきます。
武者は、「ここに芳一が来た証拠として」と、芳一の両耳を力ずくで引きちぎり、血だるまになった耳を持って立ち去ってしまいました。
6. その後
明け方、芳一の惨状を見た住職は、自分の書き忘れが原因だと深く詫び、芳一を手厚く介抱します。
この出来事以降、怨霊につきまとわれることはなくなり、芳一の琵琶の腕前は一層評判になり、彼は**「耳なし芳一」**と呼ばれるようになったということです。
🌟 作品の意義
この物語は、**芸の才能(琵琶)**が亡霊の関心を引いて命を危険に晒す原因となる一方で、**信仰の力(経文)**がその命を守るという構造を持ちます。
特に、**「経文を全身に書いたのに、ごく一部である耳を書き忘れたために、そこだけが亡霊に切り取られる」**という設定のユーモラスでありながら恐ろしい描写は、この物語を日本の怪談文学の古典として確立させています。
丑の刻詣り(うしのこくまいり)
丑の刻詣り(うしのこくまいり)は、古くから日本に伝わる呪いの儀式(呪詛)の代名詞です。特定の人間に災いや死をもたらすことを目的に、夜中に神社に参拝し、藁人形に釘を打ち付けるという行為を指します。
もともとは、心願成就のための願掛けの一種でしたが、中世以降、特に江戸時代にかけて**「人を呪い殺すための儀式」**という恐ろしいイメージが定着し、怪談や能(謡曲『鉄輪(かなわ)』)などの題材として広く知られるようになりました。
📅 丑の刻とは
「丑の刻」は、かつて日本で使われていた時刻の単位(十二辰刻)の一つです。
時刻: 現在の時間でいうと、およそ午前1時から午前3時の間を指します。
丑三つ時(うしみつどき): 丑の刻をさらに四等分した三番目の時間帯で、およそ午前2時から午前2時半頃にあたり、「草木も眠る」と言われるほど静寂な、人ならざるものが現れる時間とされていました。
方角: 十二支は方角も表し、丑(北北東)と寅(東北東)の間、すなわち**東北(鬼門)**は、鬼が出入りする不吉な方角と信じられていました。この時間にこの方角を向いて呪うことで、鬼の力を借りるという考えがあったとされます。
👹 丑の刻詣りの作法
広く知られている典型的な作法は、以下の要素で構成されます。
時間と場所: 丑の刻(午前1時~3時)に、人に見られないようひそかに神社の御神木(または大鳥居)へ向かいます。
装束(白装束):
**白装束(しろしょうぞく)をまとう:死者や神に仕える者が着る装束で、「自分は常の世の者ではない」「生きたまま鬼になる」**という決意を示すとされます。
鉄輪(かなわ): 火鉢などに使う鉄製の輪である**五徳(ごとく)**を逆さにして頭に被る。
灯火: 鉄輪の三本の足にろうそくを立て、火を灯す。
その他: 口に櫛やくしをくわえる、顔や身体を朱や白粉で塗る、高下駄を履くなど、地域や時代によって様々な説があります。
呪詛の道具:
藁人形(わら人形):呪い殺したい相手に見立てた人形。
五寸釘(ごすんくぎ):藁人形を打ち付けるための大きな釘。
金槌(かなづち):釘を打ち込むための槌。
儀式:
呪う相手の生年月日などを書いた紙を藁人形に貼り付け、それを御神木に五寸釘で打ち付けます。
釘を打つ場所(頭、胸、手足など)によって、相手が病む場所が異なると信じられていました。
🚨 満願と禁忌
満願: この儀式を7日間(またはそれ以上)人に見られることなく続けると、呪いが成就し、相手が死に至ると信じられていました。
禁忌: 儀式の途中で誰かに見られてしまうと、呪いの効力が失われるだけでなく、呪いが自分自身に跳ね返ってくるとされていました。
⛩️ 関連する場所
丑の刻詣りの場所として特に有名になったのは、**京都の貴船神社(きふねじんじゃ)**です。
これは、貴船明神が「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に降臨したという伝承があったため、古くから丑の刻の参詣が心願成就の願いを叶えるものとして行われていたことに由来します。その後、能の『鉄輪』などの影響で、呪詛の場所としても定着しました。
黒船(アメリカ東インド艦隊)
ペリーが率いて1853年(嘉永6年)に浦賀に来航した黒船(アメリカ東インド艦隊)は、計4隻でした。
「黒船」とは、船体に防水・防腐のためにコールタールやピッチが塗られていたため、黒く見えたことに由来する、当時の日本人がつけた呼称です。
来航した4隻の船名は以下の通りです。
🚢 1853年(嘉永6年)第1次来航時の4隻
艦名 (USS) | 艦種 | 動力 |
サスケハナ (Susquehanna) | 蒸気外輪フリゲート艦 | 蒸気機関+帆走 |
ミシシッピ (Mississippi) | 蒸気外輪フリゲート艦 | 蒸気機関+帆走 |
プリマス (Plymouth) | 帆走スループ艦 | 帆走のみ |
サラトガ (Saratoga) | 帆走スループ艦 | 帆走のみ |
このうち、サスケハナ号とミシシッピ号は、当時の日本では珍しい蒸気船であり、日本に大きな衝撃を与えました。特に、ペリー提督が座乗していたのがサスケハナ号です。
⚓ 1854年(嘉永7年)第2次来航時の艦隊
翌1854年(嘉永7年)に日米和親条約締結のため再来航したペリー艦隊は、船の数を増やし、計7隻(後に9隻まで増加)を率いてきました。
この時、旗艦はサスケハナ号から新鋭のポーハタン号に変更されています。
艦名 (USS) | 艦種 | 動力 |
ポーハタン (Powhatan) | 蒸気外輪フリゲート艦 | 蒸気機関+帆走 |
サスケハナ (Susquehanna) | 蒸気外輪フリゲート艦 | 蒸気機関+帆走 |
ミシシッピ (Mississippi) | 蒸気外輪フリゲート艦 | 蒸気機関+帆走 |
サラトガ (Saratoga) | 帆走スループ艦 | 帆走のみ |
マセドニアン (Macedonian) | 帆走フリゲート艦 | 帆走のみ |
バンダリア (Vandalia) | 帆走スループ艦 | 帆走のみ |
サザンプトン (Southampton) | 帆走補給艦 | 帆走のみ |
※プリマス号は第2次来航には不参加でした。
明治維新における松江藩(出雲国松江藩)
明治維新における松江藩(出雲国松江藩)の状況は、以下の通りです。
松江藩は親藩である越前松平家(結城秀康の血筋)が治める藩であり、幕末の動乱期には、倒幕派(薩摩・長州)に対して明確な佐幕(幕府側)の姿勢をとっていました。
1. 幕末の藩の動向
佐幕派としての行動
10代藩主の**松平定安(まつだいら さだやす)**は、幕末期に佐幕派として京都や大坂の警備を務めるなど、積極的に幕府を支える立場をとりました。
特に、薩摩・長州以外の藩としては異例の軍艦(「八雲丸」)を購入するなど、軍備増強にも力を入れていました。
勤王への転向と曖昧な態度
慶応4年(1868年)、王政復古後に新政府から**山陰道鎮撫使(ちんぶし)**として西園寺公望(さいおんじ きんもち)一行が松江に派遣されます。
藩は新政府軍への恭順の意を示すため、家老が責任をとって切腹するなど、厳しい対応を迫られました。
その後、藩主の定安は曖昧な態度に終始し、新政府側からも倒幕に消極的と見なされていました。この消極的な姿勢が、後に**「松江県」が「島根県」に改称される**一因になったとも言われています。
隠岐騒動
慶応4年(1868年)、松江藩の預地であった隠岐(おき)で、藩の役人(郡代・代官)の不正に対する島民の不満が爆発し、農民が中心となって役人を追放し自治政府を樹立するという事件(隠岐騒動)が発生しました。
松江藩は軍事的な弾圧を試みましたが、新政府側(薩摩・長州や鳥取藩)の介入により撤退を余儀なくされました。この結果、隠岐は松江藩の支配を離れました。
2. 明治維新後の藩の終焉と県への移行
版籍奉還と知藩事
明治2年(1869年)に版籍奉還(はんせきほうかん)が行われ、松平定安は藩主から松江藩知事(知藩事)となりました。
松平家は明治新政府において、旧藩主として華族(伯爵)に列しました。
廃藩置県
明治4年(1871年)7月、廃藩置県(はいはんちけん)により松江藩は廃止され、その藩領は松江県となりました。
松平定安は知藩事を免官となりました。
島根県への統合
同年11月には、松江県は周辺の広瀬藩・母里藩を合併し、新しい島根県が誕生しました。
その後、県域の再編(鳥取県の合併と分離など)を経て、明治14年(1881年)に現在の島根県の区域が確定しました。
3. 文化的な影響
藩は消滅しましたが、松江藩の残した文化は地域に残りました。
茶の湯(不昧流): 7代藩主・**松平治郷(まつだいら はるさと/不昧公)が茶人としても名高く、彼によって栄えた「不昧流(ふまいりゅう)」**の茶の湯の文化は、現在でも松江に深く根付いています。
松江城: 廃藩置県後、松江城も廃城令により競売にかけられ、天守以外の建物は取り壊されましたが、地元の旧藩士や豪農の尽力によって天守は買い戻され、現在までその姿を残しています(国宝)。
松江藩は、明治維新において「倒幕に消極的」な佐幕派(幕府側)の立場をとったため、藩全体が厳しい処分を受けることはありませんでしたが、武士(藩士)個人レベルでは、時代の変化に対応できず苦境に立たされました。
「対応できなかった武士」のその後は、多くの藩士と同様に、主に以下の状況に直面しました。
1. 士族として特権を失い、生計に苦しむ
明治政府は藩士の身分を「士族」としましたが、武士の特権や俸禄(給与)は順次廃止されました。
俸禄の廃止と金禄公債: 家禄(給与)が廃止され、代わりに一時金(金禄公債)が支給されましたが、生活費には到底足りませんでした。
困窮と廃業: 松江藩士も他の藩士と同様に、武士としての技能(剣術、学問など)しか持たない者が多く、商売や農作業などの新しい生業にすぐには転換できませんでした。このため、家計が困窮し、職を失う**「士族の没落」**は松江藩士にも共通する問題でした。
松江城の解体: 明治8年(1875年)の廃城令により、松江城の櫓や御殿などが取り壊され、その城地管理や警備を担っていた旧藩士の活躍の場も失われました。
2. 新しい道に進んだ武士
一方で、新しい時代に適応し、職業を転換した士族もいました。
行政官・教育者への転身: 比較的エリート層や能力の高い藩士は、新しい県庁(松江県、後に島根県)の役人や、学校の教師、警察官などに転身しました。
新産業への参入: 江戸時代に松江藩が奨励した産業(木綿、たばこ、ハゼの実を利用したロウソク、鉄山経営など)があったため、それらの分野に転身したり、新しい商業を始めたりする者もいました。
軍人・警察官: 軍隊や警察などの武力組織に、旧武士としての経験を活かして入る者もいました。
3. 幕末の藩の姿勢による「格差」
松江藩は戊辰戦争で中立的、あるいは消極的な佐幕の立場をとったため、戦勝藩(薩摩、長州など)のように維新後の新政府で要職に就く人材が少なく、他の藩よりも士族の再就職や生活再建の機会が少なかった可能性があります。
その結果、松江藩の士族は、藩の政治的な立ち位置が明確な薩長土肥などと比べ、新政府からの恩恵を受けにくく、自助努力による生活再建がより求められる厳しい状況に置かれたと言えます。
松江藩における維新後の教育機関
松江藩においては、明治維新後、旧藩校の改変や、身分を問わず教育を受けられる新しい学校の設立が積極的に進められました。
藩校中心の教育から、近代的な教育制度への移行は以下の通りに行われました。
1. 旧藩校の近代化・継承
松江藩の藩校(武士の子弟のための学校)は、維新後も教育の中心となりました。
藩校「修道館」の改変:
松江藩の藩校は「修道館」と呼ばれていました。
明治維新後(明治初期)には、この修道館に「兵学校」が設けられ、また皇漢学・洋学・医学などを学ぶための「南寮」「北寮」「西寮」が新設されるなど、時代に合わせた教育内容への転換が図られました。
その後、修道館は近代の学校制度の変遷を経て、尋常中学修道館(後身の一つは現在の島根県立松江北高等学校など)へと改称・発展していきました。
2. 身分を問わない学校の設立
藩士の子弟だけでなく、広く庶民を対象とした学校の設立も計画・実行されました。
郷校(ごうこう)の計画と設立:
松江藩は、庶民教育のための寺子屋を統括する目的で、郷校の設置を計画し、数か所で試験的に実施しました。
女学校の創設:
松江藩では、維新直後に女学校の設立が計画され、実行に移されました。これにより、子女にも教育の機会が与えられました。
小学校の開校(学制発布後):
明治5年(1872年)に明治政府が近代的学校制度である「学制」を発布すると、松江でも翌明治6年(1873年)4月20日に最初の小学校である雑賀小学校(雑賀町の洞光寺に設置)が開校しました。これを皮切りに、松江市内の各町に小学校が次々と開かれました。
師範学校の設立:
明治8年(1875年)には教員養成機関である「小学教員伝習所」が設けられ、翌明治9年(1876年)には松江師範学校となり、後の島根大学教育学部の前身の一つとして、近代日本の教育を担う人材を輩出しました。
このように、松江藩のあった松江地域では、明治維新直後から旧藩校を近代化しつつ、身分を問わない小学校や女学校などの新しい教育機関が整備されていきました。
🎬『ばけばけ』タイトルバック公開
— 朝ドラ「ばけばけ」公式|9月29日(月)放送開始 (@asadora_bk_nhk) September 28, 2025
トキとヘブン、二人の何気ない日常を切り取った映像と、主題歌「笑ったり転んだり」をノンクレジット版でお楽しみ下さい。#ハンバートハンバート #髙石あかり #トミー・バストウ #川島小鳥#ばけばけ pic.twitter.com/jhklrlSPgT