娘も自立の道を歩む💛【連続テレビ小説】風、薫る(120)第24週「環」
娘も自立の道を歩む
こんにちは
猫好き父さんです
環ちゃん
きちんと
育ちましたね
画像は公式からの引用です
あらすじ
シマケン(佐野晶哉)の家から帰宅したりん(見上愛)は、先に帰宅していた環(瀧七海)と向き合う。環は絵描きになりたいという夢をりん(見上愛)に打ち明ける。環がこれまで描きためてきた絵を見て、環の気持ちを聞いたりんは…。
出演者
【出演】見上愛,上坂樹里,佐野晶哉,瀧七海,若林時英,【語り】研ナオコ
原作・脚本
【脚本】吉澤智子,【原案】田中ひかる,佃良太
音楽
【音楽】野見祐二
環「お母さん、私、絵を仕事にしたいの。やらせてください。」
— 朝ドラ「風、薫る」公式 (@asadora_nhk) September 10, 2026
環の思いを理解したりん。
どうやって絵を仕事にするのかしっかり考えなさいと環に話し
応援することにしました。
👇母と娘の対話https://t.co/QNgP27T4i0#朝ドラ #風薫る
見上愛 瀧七海 pic.twitter.com/MYAwEt4fgQ
明治の女性画家
明治後期(1890年代末〜1910年代初頭)における「女性の絵描き(画家)」は、日本の美術界が西洋美術の本格的な導入と日本画の近代化を進める中で、「徐々に職業・表現者として認められ始めたものの、大きな社会的偏見や制約と戦う存在」でした。
1. 明治後期における女性画家の立場と社会的評価
- 「たしなみ」から「職業」への脱却明治初期までの女性にとっての絵画は、良妻賢母になるための「教養(お稽古事)」の域を出ませんでした。しかし明治後期になると、絵画で自立を目指す「職業画家」としての意識を持つ女性たちが登場し始めます。
- 文展(官展)の開設と女性画家の台頭(1907年〜)明治40(1907)年に文部省美術展覧会(文展)が始まったことは大きな転機でした。性別を問わず作品が出品・審査される場ができ、上村松園(うえむら しょうえん)や池田蕉園(いけだ しょうえん)らが続々と入選・受賞を果たしたことで、世間も「女性のプロ画家」の存在を無視できなくなりました。
2. 代表的な画家たち(日本画・洋画)
日本画(画壇で存在感を示した分野)
日本画の世界では、すでに江戸時代の伝統や家父長的な徒弟制度の中で修業を積んだ女性たちが成功を収め始めました。
- 上村松園(1875 - 1949):京都で活躍。格調高い美人画を描き、文展で高評価を得て「女性画家のパイオニア」としての地位を確立しました。
- 池田蕉園(1886 - 1917):東京で活躍。鏑木清方らとともに学んで繊細で叙情的な美人画を描き、当時のポップスター的な人気を博しました。
洋画(より高いハードルが存在した分野)
西洋画(油絵)は「新しい時代の美術」として関心を集めましたが、女性が学ぶには日本画以上のハードルがありました。
- ラグーザ玉(山内多々士 / 1861 - 1939):イタリア人彫刻家と結婚して渡欧し、本格的な油彩画技術を身につけた希少な存在。
- 女子洋画の先駆者たち:明治末期になると、太平洋画会研究所などに通う女性が増え、後の大正期における本格的な女性洋画家の隆盛へとつながっていきました。
3. 当時の女性画家たちが直面した「3つの大きな課題」
プロを目指す女性画家たちには、男性にはない過酷な障壁が立ちはだかっていました。
- ① 教育環境の格差(ヌードモデル問題)当時の公立の最高峰である「東京美術学校(現・東京藝術大学)」は女子の入校を拒否していました。そのため、女性は私塾や女子美術学校(1900年創立の「私立女子美術学校」など)で学ぶしかありませんでした。さらに、洋画の基本である「裸婦デッサン(人体写生)」を女性が観たり描いたりすることは「破廉恥」とされ、学習機会が大きく制限されていました。
- ② スキャンダリズムと「女流」というレッテル画壇や新聞メディアは、女性画家の作品そのものよりも「若く美しい女性画家」としてのルックスや、師匠・男性画家との恋愛模様をスキャンダラスに報じがちでした。また、「女流(女性独特の弱々しく繊細な絵)」と一括りにされ、正当な技術評価を受けにくい風潮がありました。
- ③ 結婚・家庭との両立「女性の幸福は結婚して家庭に入ること」とされた時代であり、絵を描き続けることは「家庭を顧みない我がまま」とみなされることが多くありました。独身を貫くか、理解のある画家同士で結婚(夫婦画家)するかといった選択を迫られました。
4. 収入と暮らし
一部のトップ画家(上村松園など)は、展覧会での受賞や展覧会出品作が高値で買われること、あるいは富裕層からの注文制作(床の間を飾る掛け軸など)によって、自立して家計を支えるほどの十分な収入を得ていました。
しかし、多くの駆け出しの女性画家は、挿絵(新聞や雑誌のイラスト)を描いたり、絵画教室を開いて教えたりすることで生活費を補うのが一般的でした。
明治後期の女性の絵描きは、制度的な不平等や社会の偏見に晒されながらも、自らの才能と表現欲求を糧に「画家」という専門職の道を切り拓いていった、女性の職業的自立のパイオニアたちでした。
明治の女性画家やイラストレーター
明治後期から大正初期にかけての新聞や雑誌の「挿絵(さしえ)」や「コマ漫画・風刺画(当時は『ポンチ絵』や『漫画』と呼ばれたもの)」は、女性画家やイラストレーターにとって、重要な表現の場であり貴重な収入源でした。
本格的な日本画や油彩画の画壇(展覧会)とは異なる、当時の印刷メディアにおける挿絵・漫画事情と女性の関わりについて解説します。
1. 新聞・雑誌挿絵の黄金期と女性の需要
明治30年代〜40年代は、日露戦争などを背景に『東京朝日新聞』『万朝報』などの大衆新聞や、『婦人画報』『婦人世界』『少女界』といった女性向け・少女向けメディアが爆発的に創刊された時代でした。
- 「コマ絵」と抒情画の流行記事や小説の余白を飾る小さなイラストは「コマ絵」と呼ばれ、読者の購買意欲をそそる重要な要素でした。特に女性誌や少女誌では、可憐で美しい少女やハイカラな女性のイラスト(後の抒情画・少女漫画のルーツ)が絶大な人気を誇りました。
- 女性ならではの感性が重宝された読者層が女性や子どもへと広がる中で、男性画家の描くお堅い絵よりも、女性画家の描く「着物の柄や洋装のトレンド、日常の繊細な表情」を捉えたイラストが強く求められるようになりました。
2. 挿絵・コマ絵で活躍した女性たち
- 池田蕉園(いけだ しょうえん)日本画家として文展で活躍する傍ら、泉鏡花らの小説の挿絵や、雑誌の表紙・コマ絵を数多く手掛けました。彼女の描く儚げでロマンチックな女性像は若者の間で大ブームとなり、ブロマイドのように買い求められました。
- 小林かいち、竹久夢二周辺の女性作家たち竹久夢二(男性ですが)に代表される「コマ絵」のムーブメントの中で、女性の画家や弟子たち、絵はがき作家たちがイラストレーションの世界に参入していきました。
3. 「漫画・風刺画」分野における女性の立ち位置
一方で、当時の「政治風刺漫画」や「ポンチ絵(ストーリー漫画の前身)」といった領域は、ほぼ男性画家の独壇場でした(北沢楽天や岡本一平などが活躍)。
- 「男社会」の壁当時の漫画は政治・社会風刺やユーモア、時にはノックダウン方式のエロ・グロ・ナンセンスを扱うことが多く、「良妻賢母」を求められる女性が踏み込むには社会的なハードルが極めて高い分野でした。
- 女性による「漫画的表現」の萌芽しかし、完全にゼロだったわけではありません。女性誌の誌面において、子供の愛くるしい失敗談や日常のクスッと笑える一コマを描いた「コマ絵」や「絵物語」の形で、後の日常系漫画や少女漫画に通じるキュートな表現を女性たちが描き始めていました。
4. 画家にとっての「挿絵仕事」の意味
- 貴重な経済的自立の手段本画(日本画の掛け軸や油絵)は売れるまでに時間がかかり、制作費もかさみます。一方、新聞や雑誌の挿絵は原稿料が即金または定期的に支払われるため、「絵を描いて食べていく(自立する)」ための最も現実的な手段でした。
- 画壇からの偏見(「挿絵画家」という蔑視)当時の芸術至上主義的な画壇では、「新聞や雑誌に印刷される絵を描くのは商業的で二流だ」という偏見(本画 vs 挿絵)が存在しました。特に女性が挿絵で人気が出ると、「芸術家ではなく単なる人気イラストレーターだ」と厳しく評価される葛藤もありました。
明治後期の「挿絵」や「コマ絵」は、高尚な「美術」の枠組みからは少し外れた場所にあったからこそ、女性たちが才能を発揮しやすく、大衆に愛されながら商業的に自立できた「現代の漫画家やイラストレーターの先駆け」と言える領域でした。


















