天明の米高騰と令和の米高騰🍚べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(26)三人の女
天明の米高騰と令和の米高騰
こんにちは
猫好き父さんです
なんか
状況的に今と似ていて
刺さるところが多かった回でしたね
しかし
天明は飢饉まで発展するので
大河ドラマみたいに
単なる米の価格高騰では済まないですね
ところで
蔦重がていを迎えに行くシーンは
なんで
日光の輪王寺だったんですかねえ???
遠くない?
う~ん、謎だ。
あらすじ
冷夏による米の不作で、米の値が昨年の倍に上昇。奉公人も増え、戯作者たちが集まる耕書堂では、米の減りが早く蔦重(横浜流星)も苦労していた。そこに蔦重の実母、つよ(高岡早紀)が店に転がり込み、髪結いの仕事で店に居座ろうとする。一方、江戸城では、意次(渡辺謙)が高騰する米の値に対策を講じるも下がらず、幕府の体たらくに業を煮やした紀州徳川家の徳川治貞(高橋英樹)が幕府に対して忠告する事態にまで発展する…。
出演
【出演】横浜流星,染谷将太,橋本愛,福原遥,桐谷健太,宮沢氷魚,高岡早紀,生田斗真,高橋英樹,渡辺謙,高橋克実,原田泰造,木村了,中川翼,伊藤淳史,【語り】綾瀬はるか,【出演】飯島直子,古川雄大ほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
「おていさんは、俺が俺のためだけに目利きした、俺のたった一人の女房でさ」
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) July 6, 2025
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天明の米不足とは
天明の米不足とは、江戸時代後期、天明年間(1781年~1789年)に日本全国を襲った深刻な食料危機のことで、特に米の不足が顕著でした。この米不足は、自然災害の多発と当時の社会経済状況が複合的に絡み合って発生し、広範囲にわたる餓死者と社会不安を引き起こしました。
原因
天明の米不足の主な原因は以下の通りです。
異常気象と自然災害の多発:
冷害: 天明2年(1782年)以降、特に東北地方を中心に数年間にわたる厳しい冷害(天明の大飢饉)が発生しました。夏でも気温が上がらず、稲が十分に育たない状態が続きました。
浅間山の大噴火(天明3年/1783年): 浅間山が大規模な噴火を起こし、大量の火山灰が広範囲に降り注ぎました。これにより、農作物に甚大な被害が出て、特に東日本で米の収穫量が激減しました。
水害・干ばつ: 冷害だけでなく、地域によっては洪水や干ばつも発生し、農業生産に追い打ちをかけました。
当時の社会経済的要因:
商品経済の発達と投機: 江戸時代中期には商品経済が発展し、米も商品として流通するようになっていました。凶作の情報が流れると、米問屋や商人による買い占め・売り惜しみといった投機的行為が横行し、米価が高騰しました。
流通の不備: 現代のような効率的な物流システムが確立されていなかったため、特定の地域で米が不足しても、他の地域からの迅速な供給が困難でした。
農村疲弊: 幕府や藩による年貢の取り立てが厳しく、農民の生活はもともと苦しい状況にありました。凶作が続くと、生活が立ち行かなくなり、農村を離れる者も増えました。
幕府の対応の遅れ: 幕府の対応が後手に回り、効果的な飢饉対策を打ち出せなかったことも被害を拡大させた一因とされます。
影響
天明の米不足は、日本社会に甚大な影響を与えました。
多数の餓死者: 米が手に入らなくなり、人々は草木や樹皮などを食料としましたが、それでも間に合わず、全国で多くの餓死者が出ました。特に、食料の乏しい農村部での被害は深刻でした。
人口減少: 餓死だけでなく、栄養失調や疫病の蔓延により、日本の人口は一時的に大きく減少しました。
社会不安の増大: 米価高騰と食料不足は、庶民の不満を爆発させ、都市部で打ちこわしが頻発しました。また、農村部では一揆が頻発し、社会秩序が大きく乱れました。
幕府・藩への不満: 幕府や藩の統治能力に対する不信感が高まり、後の幕藩体制の動揺につながる一因となりました。
経済の混乱: 米価の不安定化は、経済全体にも大きな混乱をもたらしました。
その後の影響
天明の米不足は、江戸幕府に大きな教訓を与え、その後の政治に影響を与えました。老中松平定信による寛政の改革では、飢饉対策として備蓄米制度(囲米・社倉・義倉)の強化や、農村復興策などが重視されることになります。
この大飢饉は、現代の日本においても、食料安全保障や防災、環境変動への対応などを考える上で、歴史的な教訓として語り継がれています。
田沼意次の対応
天明の米不足(天明の大飢饉)に対する田沼意次の対応は、後世の評価として「遅れを取った」「不十分であった」とされることが多いです。彼の政治は重商主義的な経済政策を推進し、幕府財政の再建や殖産興業に力を入れていましたが、それが必ずしも飢饉対策に直結しなかった側面があります。
具体的な対応策としては、以下のようなものが挙げられます。
米の流通促進と価格操作の試み:
天明4年(1784年)に、米仲買人以外にも米の販売を自由化し、米の流通を促進することで米価の安定を図ろうとしました。
天明6年(1786年)には、米の消費を抑えるため酒造を半減させる法令を出したり、江戸町奉行が米の小売価格に安価な公定価格を定めたりするなど、直接的な米価操作も試みました。
倹約令の再発布:
明和期以降の幕府財政の赤字基調に対応するため、明和8年(1771年)に7年間の倹約令を発布していましたが、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)にも、さらに厳しい7年間の倹約令を再発布しました。これは、財政支出の削減を目的としたもので、飢饉対策というよりは財政再建の一環でした。
新財源の創出と大名への融資:
幕府財政の立て直しのため、商人からの献金や株仲間からの運上金(営業税)徴収を強化するなど、米以外の財源確保に努めました。
大名への資金繰り問題が深刻化する中で、大名の救済と幕府財政支出の削減、新財源創出を兼ねた施策も試みましたが、商人たちの融資に対する強制力がなかったため、貸し渋りが起こり実効性が低いまま中止となりました。
評価と結果:
田沼意次のこれらの対応は、飢饉の規模があまりに甚大であったことや、彼の政策が根本的に商業重視であったため、十分な効果を発揮したとは言えません。むしろ、彼の政策が農村の疲弊を招き、救荒作物の作付面積を減少させたことが、飢饉の被害を拡大させたという批判もあります。
飢饉への対応の遅れや不十分さが、民衆の不満を増大させ、江戸市中での打ちこわしや農民一揆の頻発につながりました。そして、天明6年(1786年)の将軍徳川家治の死去をきっかけに、田沼意次は失脚することになります。
その後、老中となった松平定信は、天明の大飢饉の教訓から、備蓄米制度(囲い米など)の強化や農村復興を重視する「寛政の改革」を進めることになります。
天明の米高騰と令和の米高騰(懸念される事態)
はい、天明の米高騰と令和の米高騰(懸念される事態)を、米の値段に焦点を当てて、その原因別に比較します。
天明の米高騰(1780年代)
価格高騰の直接的な原因
絶対的な供給不足:
複数年にわたる大規模な冷害: 稲が実らず、収穫量が壊滅的に減少しました。作付面積はあっても、物理的に米が育たない状況でした。
浅間山の大噴火: 火山灰が広範囲に降り積もり、農作物の生育を阻害し、収穫を不可能にしました。
これにより、市場に出回る米の「量そのもの」が激減しました。
不十分な流通と投機:
前近代的な流通網: 豊作の地域があっても、不足している地域へ迅速かつ大量に米を輸送するインフラ(道路、運河、輸送手段)が未発達でした。
商人による買い占め・売り惜しみ: 凶作の情報が流れると、米商人や富裕層が将来的な価格高騰を見越して米を買い占め、市場への放出を制限しました。これにより、供給量がさらに絞られ、価格が人為的に吊り上げられました。
政府の管理能力の限界: 幕府や藩による価格統制や流通管理の仕組みが未熟で、投機的な動きを抑えきれませんでした。
結果としての米価
米の価格は暴騰し、庶民には手が届かない水準にまで達しました。
飢餓が広がり、多くの人々が餓死しました。米は単なる食料ではなく、「命綱」としての価格を持っていました。
令和の米高騰(2023年産米を巡る懸念・報道)
価格高騰の直接的な原因
品質の低下と高品位米の供給不足:
記録的な猛暑: 2023年夏の記録的な猛暑により、稲の高温障害(特に白未熟粒の多発)が発生しました。
上位等級米の減少: 白未熟粒が増えると、検査で一等米や二等米といった上位等級の評価が得られにくくなります。結果として、消費者が求める「見た目が良く、食味の良い」米の流通量が相対的に減少しました。
これにより、市場に出回る米の「質」が影響を受け、「高品質な米」の希少価値が高まり、その価格が上昇する要因となりました。米全体の「量」が劇的に不足しているわけではありませんが、消費者が重視する「品質」の供給が減ったことがポイントです。
生産コストの上昇:
燃料費の高騰: 稲作に必要な農業機械の燃料、乾燥機の燃料などの価格が世界情勢の影響で高騰しています。
肥料価格の高騰: 肥料の原料価格高騰やサプライチェーンの混乱により、肥料代が上がっています。
資材費の上昇: 農機具、農薬、包装資材なども値上がりしており、これらが生産者のコスト負担を増やし、販売価格への転嫁を促しています。
流通コストの上昇:
輸送費・人件費の高騰: 生産者から小売店までの輸送コスト、精米や包装、販売にかかる人件費なども全体的に上昇しており、これらのコストが最終的な販売価格に上乗せされています。
作付面積の減少傾向:
長期的な米消費量の減少に伴い、国内の米の作付面積は縮小傾向にあります。これにより、需給バランスが供給サイドに傾きやすく、価格が上昇しやすい構造があります。
結果としての米価
主に高品質な米の価格が上昇傾向にあります。
消費者が米の選択をする際に、価格と品質のバランスを考慮する必要が出てきています。
天明期のような**「飢餓につながる絶対的な米不足」には至っていません**。スーパーから米が消える、一般市民が米を買えなくなるという状況ではありませんが、家計への負担増は懸念されます。
原因の比較まとめ
原因項目 | 天明の米高騰 | 令和の米高騰(懸念) |
生産量・供給量 | 絶対的な減少(物理的に米が育たない) | 高品質米の相対的な減少(高温障害)、作付面積減 |
気象変動の種類 | 冷害、火山灰、水害・干ばつなど | 記録的な猛暑(高温障害)、その他異常気象の多発 |
流通・経済構造 | 前近代的、投機が横行、政府管理能力不足 | 近代的、コスト上昇転嫁、複雑なサプライチェーン |
価格変動の性質 | 命に関わるレベルの暴騰、餓死者多数 | 品質重視の価格上昇、家計負担増 |
食料の多様性 | 非常に限定的(米が主食) | 多様(米以外にも多くの選択肢) |
社会への影響 | 社会秩序の崩壊(打ちこわし、一揆、人口減少) | 家計への影響、消費者・生産者の意識変化、農業政策の見直し圧力 |
このように比較すると、両者の「米不足」や「高騰」は、その背景にある社会構造、科学技術レベル、そして影響の質が大きく異なっていることがわかります。天明期が「量的な絶対不足」と「前近代的な経済・社会システム」に起因する生存危機であったのに対し、令和の懸念は「品質への影響」と「現代のコスト構造」に起因する経済的影響が主であると言えます。
紀尾井町(きおいちょう)
紀尾井町(きおいちょう)という地名は、江戸時代にこの地に広大な屋敷を構えていた三つの有力な武家の頭文字を取って名付けられました。
その三家とは、以下の通りです。
紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)
尾張徳川家(おわりとくがわけ)
彦根井伊家(ひこねいいけ)
徳川御三家である紀州徳川家と尾張徳川家、そして譜代大名の筆頭として幕府の要職(特に大老)を多く輩出した彦根井伊家が、江戸城に近いこの重要な地に屋敷を構えていました。
明治時代に入り、これらの広大な武家屋敷跡地が再編されるにあたり、明治5年(1872年)にそれぞれの家名の頭文字を組み合わせて「紀尾井町」という町名が誕生しました。
現在、この紀尾井町には、東京ガーデンテラス紀尾井町(紀州徳川家屋敷跡)、ホテルニューオータニ(彦根井伊家屋敷跡)、上智大学(尾張徳川家屋敷跡の一部)などが立っており、往時の広大な屋敷の面影を今に伝えています。
徳川治貞(とくがわ はるさだ)
徳川治貞(とくがわ はるさだ)は、江戸時代中期の大名で、紀州藩(紀伊和歌山藩)の第9代藩主です。彼の治世は、藩政改革に尽力し、財政再建と民政の安定に貢献した「名君」として高く評価されています。
生涯と家督相続
出自: 享保13年(1728年)生まれ。紀州藩第6代藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として江戸で生まれました。宗直は8代将軍徳川吉宗の弟にあたるため、治貞は吉宗の甥にあたります。
養子縁組: 幼少期に、紀州藩の支藩である伊予西条藩(愛媛県)の松平頼邑(まつだいら よりさと)の養子となり、西条藩主となります。
紀州藩主へ: 安永4年(1775年)に、本家の紀州藩主であった徳川重倫(しげのり)が藩政の混乱から隠居したため、養子として紀州藩主の座を継ぎました。将軍徳川家治から偏諱を賜り「治貞」と名乗りました。
藩政改革と主な業績
治貞が紀州藩主となった当時、藩財政は多額の借金に苦しみ、人心も乱れていました。彼は、祖父である8代将軍徳川吉宗の享保の改革にならい、自ら率先して藩政改革に取り組みました。
徹底した倹約の実行:
自らも粗衣粗食を旨とし、質素倹約を徹底しました。冬でも火鉢の数を制限したという逸話も残っています。
藩士にも倹約を奨励し、無駄な支出を削減しました。
その結果、隠居するまでに10万両もの財産を蓄えたとされ、「倹約殿様」とも呼ばれました。
人材登用と綱紀粛正:
身分にとらわれず、有能な人材を積極的に登用し、藩の要職に配置しました。
藩士の規律を引き締め、武芸を奨励することで、藩全体の士気の向上を図りました。
民意の反映と民政の安定:
安永7年(1778年)には、和歌山城の京橋口に「訴訟箱(目安箱に類似)」を設置しました。これは、藩政に対する意見や不満を広く募るためのもので、当時の大名としては珍しい、民意を直接吸い上げる仕組みでした。
藩の財政が健全化したことで、飢饉などの非常時にも藩庫を開いて米や金銭を施すことが可能となり、天明の大飢饉の際にも、他の藩に比べて領内の混乱を抑えることができたと伝えられています。
文化・教育の奨励:
本草学者の小野蘭山(おの らんざん)や国学者の本居宣長(もとおり のりなが)を招いて教育を奨励するなど、学問・文化の振興にも力を入れました。本居宣長の代表作『古事記伝』は、治貞に献上されたものです。
評価
徳川治貞は、その実直な人柄と堅実な政治手腕により、**「紀州の麒麟(きりん)」**と称され、肥後藩(熊本藩)の名君・細川重賢(ほそかわ しげかた)と並び称されるほどの名君の誉れ高い人物でした。派手な改革を行ったわけではありませんが、地道で堅実な施策を積み重ね、紀州藩の財政と民政を立て直した功績は大きく評価されています。
寛政元年(1789年)に62歳で死去するまで、約15年間藩主を務めました。
日光山輪王寺(にっこうさんりんのうじ)
日光山輪王寺(にっこうさんりんのうじ)は、栃木県日光市にある天台宗の門跡寺院です。日光東照宮、日光二荒山神社とともに「日光の社寺」として世界遺産に登録されており、日光山全体の信仰の中心を担う存在です。
輪王寺の歴史
輪王寺の歴史は非常に古く、奈良時代の天平神護2年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)によって開山された「四本龍寺(しほんりゅうじ)」を起源とします。勝道上人は、男体山の登頂に成功し、日光を霊場として開きました。
平安時代には、弘法大師空海や慈覚大師円仁(えんにん)といった高僧も来山し、天台宗の寺院として発展しました。
鎌倉時代には源頼朝からの寄進などもあり、関東の一大霊場として栄えます。
そして、江戸時代には徳川家康が神として日光東照宮に祀られることになり、日光山全体が徳川幕府からの手厚い庇護を受け、再び大いに繁栄します。この時期に、後水尾上皇の皇子が住職となり、「輪王寺宮」の号を賜ったことから、寺名が「輪王寺」と改められました。以後、**皇族が住職を務める「門跡寺院」**としての格式を持つことになります。
輪王寺の見どころ
輪王寺は、広大な日光山全体の総称でもありますが、特に以下の主要な建物や庭園が見どころです。
三仏堂(さんぶつどう)
輪王寺の本堂であり、東日本最大の木造建築物です。正保4年(1647年)に徳川家光の寄進により造営されました。内部には、日光三山(男体山、女峰山、太郎山)の本地仏とされる、巨大な千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音の三体の仏像が祀られています。2020年(令和2年)4月には大規模な修理を終え、その美しい姿を取り戻しました。
大猷院(たいゆういん)
三代将軍・徳川家光の霊廟です。家康を深く尊敬していた家光の遺言により、日光東照宮を見守るように、控えめながらも豪華絢爛な造りとなっています。国宝に指定されている拝殿・相の間・本殿をはじめ、二天門、夜叉門、唐門など、見事な装飾が施された門が連なります。特に、東照宮とは異なる「金と黒」を基調とした落ち着いた色彩が特徴で、315基の灯籠も印象的です。
逍遥園(しょうようえん)
江戸時代初期に作庭された、池泉回遊式の日本庭園です。秋には美しい紅葉の名所として知られ、多くの観光客を魅了します。四季折々の景観が楽しめます。
宝物殿・輪王寺文庫
日光山に伝わる歴史的・美術的価値の高い什宝(じゅうほう)約3万点を収蔵しており、その一部が常時公開されています。国宝1点、重要文化財51件など、貴重な文化財を見ることができます。
相輪橖(そうりんとう)
徳川家光の命により、天海僧正が造営した青銅製の巨大な塔婆です。伝教大師(最澄)の教えが刻まれており、比叡山延暦寺とのつながりを示しています。
アクセス
日光山輪王寺は、日光東照宮や二荒山神社と隣接しており、まとめて世界遺産エリアとして観光できます。
JR日光駅または東武日光駅よりバス:
東武バス「世界遺産巡り循環バス」で約10分、「勝道上人像前」バス停下車、徒歩すぐ。
または「神橋」または「西参道」バス停下車、徒歩約5分。
車:
日光宇都宮道路 日光ICより約10分。
有料駐車場が周辺に多数あります。
日光山輪王寺は、日本の歴史と文化、そして美しい自然が調和した、ぜひ訪れてほしい場所の一つです。
前回までのべらぼう
江戸の町民は浅間山の大噴火にどのように対応したのか?🌋べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(25)灰の雨降る日本橋
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