歴史探偵 新選組エピソード・ゼロ
新選組エピソード・ゼロ
画像は公式からの引用ですこんにちは
猫好き父さんです
猫好き父さんが新鮮組に興味をもったのは
渋沢栄一さんが
新選組と係わりがあったというのが
大河ドラマで解ってからかなあ
その存在が映画とかドラマの中だけでなく
真実味を帯びました
新選組エピソード・ゼロ
近藤勇はじめ土方歳三など多摩の農民たちがなぜ時代を動かしたのか?“新選組”誕生までの足跡を追う。幕末史の中でも絶大な人気を誇る「新選組」。新選組は江戸時代の身分制度が大きく動揺したことから生まれた。近藤勇は農民出身だったが理想の武士像を心に抱き、自己流の「士道」を貫こうとした。番組では近藤が新選組という組織を作り上げるまでを徹底調査。新選組の生き方、幕末の「武士」とは何だったのかを追っていく。
出演
【司会】佐藤二朗,片山千恵子,【出演】多摩大学客員教授・歴史研究家…河合敦,【リポーター】木村穂乃
新選組(しんせんぐみ)
新選組(しんせんぐみ)は、江戸時代末期(幕末)に京都で活動した武装組織です。動乱の京の治安維持と、反幕府勢力の取り締まりにあたり、その活躍と悲劇的な最期から、現在も多くの人々に愛される歴史上の集団です。
1. 概要と結成の経緯
| 項目 | 詳細 |
| 活動時期 | 江戸時代末期(幕末) |
| 主な活動場所 | 京都 |
| 役割 | 京都の治安維持、尊王攘夷派などの不逞浪士の取り締まり(事実上の幕府の警察組織) |
| 身分 | 会津藩御預(おあずかり)(京都守護職・松平容保の支配下) |
| 前身 | 浪士組 → 壬生浪士組(みぶろうしぐみ) |
| 結成 | 1863年(文久3年)。将軍徳川家茂の上洛警護のために集められた浪士組の一部が、京都に残留して組織されました。当初は芹沢鴨、近藤勇、新見錦らが局長を務めました。 |
2. 主要なメンバー(三巨頭と隊長たち)
新選組は、近藤勇と土方歳三を中心とする試衛館(しえいかん)派が主導権を握り、組織を拡大・強化していきました。
| 役職 | 人物 | 特徴 |
| 局長 | 近藤 勇(こんどう いさみ) | 新選組のリーダー。天然理心流の剣術家。農民出身ながら武士に憧れ、人望が厚く、組織の精神的な柱となった。 |
| 副長 | 土方 歳三(ひじかた としぞう) | 新選組を実質的に動かした「鬼の副長」。冷徹な判断力と規律で組織を統率し、戦場では指揮官として活躍した。 |
| 一番隊組長 | 沖田 総司(おきた そうじ) | 新選組最強の剣士と称される天才剣士。人当たりの良い性格とは裏腹に、剣の腕は超一流であった。病弱(労咳/結核)のため、戊辰戦争の最中に若くして亡くなった。 |
| その他幹部 | 永倉 新八(二番隊組長)、斎藤 一(三番隊組長)、原田 左之助(十番隊組長)、山南 敬助(副長助勤)など。 |
3. 主な活動と功績
新選組の名を世に知らしめたのは、以下の大事件です。
池田屋事件(1864年/元治元年)
長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派の浪士たちが、京都に放火し、要人を暗殺するクーデターを計画していることを突き止めました。
近藤勇らが少人数で池田屋に討ち入り、志士たちを多数討ち取り、計画を未然に防ぎました。この功績により、新選組は一躍有名になり、幕府から正式に認められました。
禁門の変(1864年/元治元年)
池田屋事件の報復として長州藩が京都御所に向けて武力蜂起した際、会津藩とともに幕府方として鎮圧に出動し、活躍しました。
4. 衰退と終焉
新選組は幕府の忠臣として活動しましたが、時代は倒幕へと大きく傾いていきます。
鳥羽・伏見の戦い(1868年/慶応4年)
戊辰戦争の緒戦。新政府軍(薩摩・長州など)に敗北し、新選組は京都から江戸へ撤退しました。
主要メンバーの戦死・最期
近藤勇は、新政府軍に捕らえられ、板橋で処刑されました。
土方歳三は、旧幕府軍の指揮官として転戦し、蝦夷地(現在の北海道)の五稜郭の戦いで戦死しました。
病に伏せていた沖田総司も、その直前に亡くなりました。
新選組は、最後まで徳川家への忠誠を貫き通した武士集団として、幕末の歴史に強烈な足跡を残しました。
近藤勇が新選組(しんせんぐみ)を結成するまでの道のりは、江戸で開いた道場「試衛館」での仲間との出会いから始まり、将軍警護のための上洛を経て、京都で反幕府勢力に対峙する中で確立されました。
新選組結成は、大きく分けて**「浪士組への参加」→「壬生浪士組(前身)」→「新選組への改名と主導権確立」**という3段階で進みました。
1. 試衛館の仲間と浪士組への参加
試衛館(しえいかん)での出会い
近藤勇は、江戸で天然理心流(てんねんりしんりゅう)という剣術の道場「試衛館」の四代目を継いでいました。この道場には、後の新選組の核となる人物たち、すなわち土方歳三、沖田総司、永倉新八、斎藤一らが入門し、近藤と義兄弟の契りを結ぶなど、強固な人間関係を築いていました。
浪士組(ろうしぐみ)の募集
1862年(文久2年)、幕府は、将軍徳川家茂(いえもち)が朝廷と攘夷(じょうい)について協議するために京都へ上洛するにあたり、その警護を目的として、江戸であふれていた**浪士(浪人)**を募集しました。
上洛
近藤勇は「武士になりたい」「徳川将軍家を守りたい」という強い志を抱き、試衛館の仲間たち(近藤派)と共に、この浪士組(総勢約200名)に参加し、1863年(文久3年)に京都へ向かいました。
2. 壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の結成
浪士組の分裂
京都到着後、浪士組の結成を発案した清河八郎が、浪士たちを集めて「将軍警護ではなく、天皇のために攘夷を実行すべきだ」と主張し、浪士組を反幕府勢力に変えようとしました。
これに対し、近藤勇は「我々の責務は将軍の警護であり、幕府への忠誠を貫く」として清河の策略に異を唱えました。
京都残留と再出発
清河八郎に従い江戸へ帰還することになった浪士組の中で、近藤勇や水戸藩出身の**芹沢鴨(せりざわかも)**ら、徳川家への忠誠を誓う者たち約24名が京都に残留しました。
壬生浪士組の発足
彼らは京都の壬生村に屯所(宿所)を置き、京都守護職を務める会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)の庇護のもとで治安維持活動にあたり始めました。これが「壬生浪士組」、すなわち新選組の直接的な前身です。
3. 「新選組」の誕生と主導権の確立
「新選組」の名を拝命
壬生浪士組は、1863年8月の**「八月十八日の政変」で京都御所の警備にあたり、その働きを会津藩に認められました。この功績により、彼らは松平容保から、会津藩の軍制中の部局名にちなんだ「新選組」**という隊名を賜りました。
芹沢鴨の粛清と近藤体制の確立
発足当初、局長は芹沢鴨、近藤勇、そして新見錦の複数制でしたが、芹沢鴨は酒に酔っての狼藉や度重なる蛮行で京都の治安を乱し、会津藩からも問題視されていました。
近藤勇は、副長の土方歳三らと協力し、会津藩の密命を受けて芹沢鴨と平山五郎を暗殺(粛清)しました。
近藤勇、単独局長へ
この粛清により、近藤勇が新選組の唯一の局長としての地位を確立しました。これにより、土方歳三、沖田総司をはじめとする試衛館一門が組織の中核を占めることとなり、新選組は強力な規律(局中法度)を持つ戦闘集団として、本格的に活動を開始することになります。
近藤勇は、自身の剣の腕とカリスマ性、そして「武士になりたい」という強い願いを土方歳三の卓越した組織力と組み合わせることで、幕末最強の武装集団「新選組」を創り上げました。
天然理心流(てんねんりしんりゅう)は、江戸時代後期に創始された武術の流派で、特に新選組の局長近藤勇をはじめ、土方歳三、沖田総司、井上源三郎ら、新選組の中核を担った多くの隊士が学んでいたことで知られています。
1. 流派の概要と歴史
創始者: 近藤内蔵之助(こんどう くらのすけ)
創始時期: 寛政年間(1789年~1801年)頃
内容: 剣術を中心に、居合術、柔術、棒術(棍法)、活法、気合術などを含む総合的な武術です。
特徴:
古武道(鹿島神道流、竹内流などの系統)の要素を受け継ぎながら、実戦で「勝つ」ことを重視した稽古が特徴です。
単なる剣術だけでなく、柔術的な「柄砕(つかくだき)」などの技法も伝承されており、組み打ちや護身術にも対応していました。
2. 剣術の特徴と「実戦」への志向
天然理心流の剣術は、当時の他の主要な流派(江戸三大道場などで教えられた流派)とは一線を画す、実戦向きで朴訥(ぼくとつ)な剣法が特徴です。
太い木刀の使用: 稽古には重く太い木刀を使用しました。これは、本物の刀の重さに慣れ、力と根(精神力)を鍛えることを重視していたためとされます。
「気」の重視: 気合をもって相手の気を奪い、一瞬の隙をついて技を施す、といった精神的な要素も稽古の中心でした。
「撃殺稽古」: 力と根が尽きるまで切り結び、最後に止めを刺すという、現代の剣道とは異なる、真剣勝負を想定した稽古を重視していました。
地域性: 江戸の中心地で流行した華やかな剣術流派と異なり、武州多摩地方(現在の東京都多摩地域)の農村部を中心に広がり、近藤勇もこの地の農民出身でした。このことから、天然理心流は時に「芋道場」などと揶揄されることもありましたが、その実践的な強さは幕末の動乱期に証明されました。
3. 新選組と天然理心流
天然理心流は、新選組の精神的・技術的基盤となりました。
近藤勇は、天然理心流の三代目・近藤周助の養子となり、四代目宗家を継ぎました。
試衛館(しえいかん)は近藤勇が開いた道場で、天然理心流の道場として機能していました。ここで土方歳三、沖田総司、井上源三郎といった新選組の主要メンバーが近藤勇の下で剣術を磨きました。
彼らの強さは、京都での尊王攘夷派浪士の取り締まり(特に池田屋事件)で遺憾なく発揮され、新選組が「幕末最強の剣客集団」と呼ばれる一因となりました。
渋沢栄一と新選組
日本の実業家として名高い渋沢栄一と新選組には、意外にも幕末の京都で接点がありました。
渋沢栄一は、新選組と「協力して任務にあたった」という形で関わり、特に局長の近藤勇、副長の土方歳三と面会しています。
1. 任務における協力
渋沢栄一と新選組が直接的に関わったのは、渋沢が幕臣(一橋慶喜に仕えた後、幕府の陸軍奉行支配調役)として京都にいた時期です。
元見廻組隊士の捕縛事件
1867年(慶応3年)頃、渋沢栄一は、幕臣の地位にあった元京都見廻組隊士の大沢逸平という人物を捕縛する任務を命じられました。
渋沢の役割: 渋沢は捕縛隊の責任者として、大沢が潜伏していた京都・紫野大徳寺へと向かいます。
新選組の協力: この捕縛任務において、治安維持組織である新選組が渋沢に協力し、護衛として数名の隊士が出動しました。
近藤・土方との面会: 渋沢は出動前に、新選組の屯所(駐屯所)で局長の近藤勇と会い、任務について打ち合わせを行っています。近藤は多忙のため、副長の土方歳三を護衛として同行させました。
「友達」発言: 晩年、渋沢栄一は、土方歳三の名前が書物に出てきた際に、「土方歳三は、私の友達だ」と語ったという逸話が残されています。これは、立場や思想が異なっても、京都の動乱の中で共に厳しい任務をこなした者同士の連帯感からくる言葉だと解釈されています。
2. 渋沢が受けた新選組の印象
渋沢栄一は、面会した近藤勇について、世間が抱く「無鉄砲な猪武者」というイメージとは異なり、「意外にも温厚な人物で、物事がよくわかる人」だったと後に回想しています。
これは、新選組が単なる乱暴者の集団ではなく、近藤勇という優れたリーダーと、土方歳三の冷徹な組織運営によって成り立っていたことを示す貴重な証言です。
3. 親族・渋沢成一郎の関わり
渋沢栄一の従弟で、同志でもあった渋沢成一郎(幼名:喜作)は、新選組と深く関わることになります。
彰義隊の結成: 成一郎は一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えた後、旧幕府方の中心的な組織である彰義隊を結成し、頭取(隊長)を務めました。
箱館戦争での共闘: 戊辰戦争の終盤、彰義隊の敗北後、成一郎は榎本武揚ら旧幕府軍に合流。新選組副長土方歳三らと共に、箱館(函館)の五稜郭の戦いで新政府軍と最後まで戦いました。
このように、渋沢栄一自身は一時的な協力関係でしたが、その親族は土方歳三と共に最後まで幕府への忠義を貫いたという、深い関わりがありました。
\“新選組”誕生までの足跡を追う/#歴史探偵
— NHK京都 (@nhk_kyoto) October 14, 2025
「新選組エピソード・ゼロ」
近藤勇はじめ土方歳三など
多摩の農民たちが
なぜ時代を動かしたのか?
新選組の生き方と
幕末の「武士」とは
何だったのかを徹底調査します🔍
15(水)【総合】午後10:00放送予定https://t.co/Cs646ibJTO pic.twitter.com/hNrz1H8yeb
知らないことだらけの五稜郭😎ブラタモリ 函館・五稜郭▼“幕末の要塞”なぜ星形に?新選組土方歳三の最期
かっこいいぞ!“鬼の副長”土方歳三💛『青天を衝け』第24回の放送は今週の日曜日ですよ。
もう少し早く来ると思ってたぞ💛青天を衝(つ)け(20)「篤太夫、青天の霹靂(へきれき)」


















