内容が濃すぎて消化不良😎ブラタモリ 奈良・東大寺SP▼78分拡大版!東大寺はじまりの秘密とは
内容が濃すぎて消化不良
こんにちは
猫好き父さんです
一転してアカデミックな内容
内容が濃すぎて消化不良です
これは
行って実際に確認しないと
いけないですね
画像は公式からの引用です
ブラ東大寺
今回は、奈良・東大寺が舞台の78分SP!1300年守り継がれる東大寺の“はじまりの秘密”に迫る。大仏造立に託した聖武天皇の思い、奈良時代から一度も途切れることなく続く修二会、そして日本の仏教に大きな足跡を残した鑑真和上の功績。唐招提寺も訪ね、東大寺との深い関係を探る。さらに貴重な国宝の数々も!見るものすべてが1300年の歴史を感じさせる!?旅の最後、夜の東大寺で出会った大仏の姿にタモリが息をのむ…
出演者
【出演】タモリ,【アナウンサー】佐藤茉那,【語り】あいみょん
【配信中】 #ブラタモリ 奈良・東大寺SP 78分拡大版!東大寺はじまりの秘密とは
— NHK大阪放送局 朝ドラ「ブラッサム」 9/28スタート (@nhk_osaka_JOBK) September 19, 2026
貴重な国宝の数々も!見るものすべてが1300年の歴史を感じさせる!?旅の最後、夜の東大寺で出会った大仏の姿にタモリが息をのむ...
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聖武天皇
聖武天皇(しょうむてんのう)は、奈良時代(8世紀半ば)に在位した第45代天皇です(在位:724年〜749年)。
東大寺の大仏(盧舎那仏)の建立や全国への国分寺・国分尼寺の建立を命じたことで知られ、仏教の力によって国家の安泰を図る「鎮護国家(ちんごこっか)」の思想を強く推し進めた人物です。
1. 聖武天皇の時代背景:相次ぐ災厄と社会の混乱
聖武天皇が治めた時期は、古代日本の歴史の中でも特に天災や疫病、政治的動乱が相次いだ激動の時代でした。
- 天然痘の大流行(735年〜737年):九州から全国へ拡大し、当時の政権を握っていた藤原四兄弟(不比等の子)が相次いで病死するなど、人口の数分の一が失われる未曾有の被害が出ました。
- 藤原広嗣の乱(740年):九州の太宰府で藤原広嗣が挙兵し、政権に対する大規模な反乱が勃発しました。
- 度重なる地震や飢饉:自然災害が相次ぎ、民衆の生活は困窮を極めました。
こうした社会不安に対し、聖武天皇は「自らの徳のなさのせいだ」と深く苦悩したとされています。
2. 主な政策と業績
混乱する国家を立て直し、人々の心を一つにまとめるために打ち出したのが、仏教を中心とした一連の国家的プロジェクトでした。
- 国分寺・国分尼寺の建立の詔(741年)全国各地に「国分寺(東大寺を総本山とする)」と「国分尼寺(法華寺を総本山とする)」を建てるよう命じ、地方から国家の安泰を祈らせました。
- 大仏造立の詔(743年)「生きとし生けるものすべてが共に栄えるように」という願いを込め、紫香楽宮(しがらきのみや)で巨大な盧舎那仏(大仏)の造立を開始しました。民間の宗教者として人気の高かった行基(ぎょうき)を登用し、民衆の力や寄付を集めて大工事を進めました。
- 頻繁な遷都(彷徨の都市)政治的緊張や災厄から逃れるため、平城京から恭仁京(くにきょう)、紫香楽宮、難波京へと目まぐるしく都を移し替えました(最終的に平城京へ帰還)。
3. 文化と後世への影響(正倉院)
- 天平文化(てんぴょうぶんか)聖武天皇の時代は、唐(中国)の文化や国際色豊かなシルクロードの文化が融合した華やかな「天平文化」が花開いた時期でもあります。
- 正倉院宝物の由来聖武天皇の没後、愛妻である光明皇后(こうみょうこうごう)は、天皇の遺品や愛用品を東大寺の正倉院に献納しました。これが現在までほぼ完璧な状態で伝えられている「正倉院宝物」であり、奈良時代の美術工芸や国際交流を知る超一流の文化財となっています。
聖武天皇は、相次ぐ危機の中で深く悩みながらも、仏教という壮大な理想を掲げて国を導こうとした、奈良時代を象徴する天皇です。
修二会(しゅにえ)
東大寺の修二会(しゅにえ)は、奈良の春の訪れを告げる伝統行事であり、一般には「お水取り(おみずとり)」の通称で広く知られています。
天平勝宝4年(752年)に東大寺を開山した実忠(じっちゅう)和尚によって創始されて以来、一度も絶えることなく続けられており、1250年以上の歴史を誇る不滅の法要です。
1. 行事の本来の目的(修二会とは)
一般には巨大な松明(たいまつ)が乱舞する「火の祭り」のイメージが強いですが、本質は「悔過(けか)」の法要です。
- 十一面悔過(じゅういちめんけか)二月堂の本尊である十一面観音の前にて、僧侶たちが人々に代わって日々の過ちや罪を懺悔(さんげ)し、天下泰平、五穀豊穣、国家の安泰、そして万民の幸福を祈願します。
- 練行衆(れんぎょうしゅう)選ばれた11名の僧侶(練行衆)が、毎年3月1日から14日までの2週間(前行を含めるとさらに長期間)、外界との連絡を絶ち、厳しい戒律のもとで深夜に及ぶ勤行に挑みます。
2. 見どころと象徴的な儀式
修二会は14日間にわたり様々な儀式が行われますが、特に有名なのが以下の2つです。
- お松明(おたいまつ)練行衆が夜の法要(二月堂)へ上堂する際、その足元を照らすために大きな松明が焚かれます。長さ約6〜8メートルもある巨大な松明が二月堂の舞台に並び、そこからダイナミックに火の粉が舞い落ちる光景は圧巻です。舞い散る火の粉を浴びると「無病息災で過ごせる」という言い伝えがあります。
- お水取り(3月12日深夜/13日未明)「お水取り」の語源となった儀式です。二月堂の下にある「若狭井(わかさい)」という井戸から、観音様にお供えする香水(こうずい)をくみ上げます。この水は若狭国(福井県小浜市)から10日間かけて地下を通って湧き出たという伝説(若狭のお水送りと対になる物語)が伝えられています。
3. 歴史的背景と「不退の行法」
修二会は、戦乱や大火などにより東大寺大仏殿が2度にわたって焼失した際も、一度も中止されることなく毎年欠かさず実施されてきました。このため「不退の行法(ふたいのぎょうほう)」と称されています。
聖武天皇が誓った鎮護国家の理想と、民衆の安寧を祈る古代仏教の精神が、当時のままの厳格な形式で現在まで直接受け継がれている奇跡的な文化遺産です。
鑑真和上(がんじんわじょう)
鑑真和上(がんじんわじょう)は、奈良時代に唐(中国)から日本へ渡航し、日本の仏教界に正しく受戒(僧侶としての戒律を授けること)の仕組みを確立した高僧です(688年〜763年)。
度重なる遭難や失明という凄絶な苦難を乗り越えて来日し、日本の仏教文化と建築・医療・芸術の発展に多大な影響を与えました。
1. 来日の背景:正しい「戒律」を求めた日本
奈良時代の日本(聖武天皇の治世)では、国家の保護を受けるために自称で僧侶になる者が相次ぎ、僧侶の質の低下や社会秩序の混乱が問題となっていました。
- 受戒(じゅかい)制度の必要性正しく僧侶と認めるためには、十人の師(三師七証)の前で戒律を誓う儀式が必要でしたが、当時の日本には伝戒(戒律を授ける資格を持つ)師が存在しませんでした。
- 聖武天皇の要請聖武天皇の意を受けた留学僧の栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)らが唐へ渡り、高僧であった鑑真に日本への渡航を強く要請しました。
2. 5度の渡海失敗と失明
当時の東シナ海の航海は命がけであり、さらに鑑真ほどの高僧が国外へ出ることを渡航を惜しむ弟子たちが阻止しようとしたため、渡海は極めて困難を極めました。
- 5度にわたる失敗:密告による渡航阻止、台風による座礁や漂流が相次ぎ、共に日本を目指した渡唐僧の栄叡ら多くの仲間が病や命を落としました。
- 失明:5回目の渡航失敗後、長年の過酷な旅の疲労と感染症により、鑑真は両目の視力を失ってしまいます。
- 6度目の執念の渡航:753年、遣唐使船に同乗するかたちで6度目の挑戦を行い、失明から数年を経てついに日本の九州(薩摩国)へ到着しました。依頼を受けてから実に12年の歳月が流れていました。
3. 日本での主な業績
来日した鑑真は平城京で熱烈な歓迎を受け、日本の仏教基盤を一変させました。
- 戒壇の設立と受戒東大寺の大仏殿前に「戒壇(かいだん)」を築き、聖武上皇や光明皇太后、孝謙天皇をはじめ、400名以上の僧侶らに戒律を授けました。これにより、日本に初めて正式な「受戒制度」が誕生しました。
- 唐招提寺(とうしょうだいじ)の建立759年、私寺として唐招提寺を開創しました。鑑真がもたらした唐の最先端の建築技術や彫刻技術は、現在も国宝として残る金堂などに息づいており、天平文化の最高峰を形作っています。
- 薬草・医学の伝来失明しながらも嗅覚や触覚で薬草を正確に鑑別できたとされ、優れた漢方医学や調薬の知識を日本に伝えました。日本の生薬・薬学の祖としても敬われています。
鑑真和上の渡来によって、日本の仏教は国家の自律的な制度として完成をみ、その後の日本文化の骨格形成に決定的な役割を果たしました。唐招提寺に安置されている「鑑真和上坐像」(国宝)は、日本最古の肖像彫刻としてその穏やかで尊厳に満ちた姿を今に伝えています。
戒律(かいりつ)
仏教における「戒律(かいりつ)」は、実は「戒(かい)」と「律(りつ)」という性質の異なる2つの言葉が組み合わさった概念です。
両者の役割の違いや、具体的な内容について整理して解説します。
1. 「戒」と「律」の違い
- 戒(かい/シーラ)
- 意味:個人の自発的な「道徳的規律・決意」や「自粛の心」。
- 特徴:罰則はなく、自分の内面的な自律(善を行い悪をなさぬこと)を目指します。在家(一般の信者)から出家者まで広く適用されます。
- 律(りつ/ヴィナヤ)
- 意味:僧伽(さんぎゃ=出家者の集団・コミュニティ)を維持するための「集団行動のルール・法律」。
- 特徴:違反した場合の具体的な罰則(追放や謹慎など)が定められており、厳格な運用がなされます。主に出家者(僧侶・尼僧)に適用されます。
2. 主な戒律の内容と種類
仏教徒の立場(一般信者か、出家者か)によって守るべき基準の段階が分かれています。
① 在家(一般の信徒)が守る基本的な「五戒(ごかい)」
生活の基盤となる5つの倫理規定です。
- 不殺生戒(ふせっしょうかい):生き物を無駄に殺さない。
- 不 steal/不盗戒(ふとうかい):他人のものを盗まない。
- 不邪淫戒(ふじゃいんかい):不適切な性交渉を行わない。
- 不妄語戒(ふもうごかい):嘘や偽りを言わない。
- 不飲酒戒(ふおんじゅかい):心を惑わす酒類を飲まない(理性を保つ)。
② 出家者が守る「具足戒(ぐそくかい)」
正式な僧侶・尼僧となるために「受戒」の儀式で誓う、極めて厳格で包括的な法律(律)です。
- 具足戒の項目数:
- 男性(比丘/びく):250戒
- 女性(比丘尼/びくに):348戒(※生活や安全管理上の規定が多く規定数が増える)
- 主な禁止・規定事項:
- 淫行、盗み、殺人、高慢な嘘の禁止(これらは「波羅夷罪(はらいざい)」と呼ばれ、即座に僧団追放となる最高重罪)
- 私有財産の制限(衣服や鉢以外の所有制限)
- 正午以降の食事(正午〜翌朝の不食=過時食の禁止)
- 歌舞音曲や装飾品の禁止
③ 大乗仏教における「菩薩戒(ぼさつかい)」
日本で広く親しまれている大乗仏教では、個人の解脱(具足戒)以上に「他者を救うこと」を目指す「三聚浄戒(さんじゅじょうかい)」の思想が重視されます。
- 摂律儀戒(しょうりつぎかい):すべての悪を絶つこと。
- 摂善法戒(しょうぜんほうかい):あらゆる善を行うこと。
- 摂衆生戒(しょうしゅじょうかい):すべての人々を救うために尽くすこと(利他行)。
3. 歴史と日本での特色
古代インドや中国では、出家者が250の具足戒を正式に授かること(受戒)が絶対条件であり、鑑真和上が命がけで日本に伝えたのもこの正式な「具足戒」のシステムでした。
しかし、平安時代に最澄(天台宗の開祖)が「大乗の菩薩戒(菩薩戒のみで正式な僧とする)」の独立を主張して以降、日本の仏教は世界的に見ても非常に珍しい「具足戒の厳格な維持を必須としない独自の受戒体系」へと発展していくことになります。
唐招提寺
(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町に所在する律宗の総本山であり、ユネスコの世界文化遺産「古都奈良の文化財」の構成資産の一つです。
唐から5度の難破と全盲の困難を乗り越えて来日した高僧・鑑真和上(がんじんわじょう)が、天平宝字3年(759年)に仏教の戒律を学ぶ私寺(道場)として開創しました。
1. 主な建築と見どころ
奈良時代の天平文化の面影を今に伝える貴重な建築物や彫刻が多数遺されています。
- 金堂(国宝)8世紀後半(奈良時代)に建てられた現存唯一の金堂建築です。正面にずらりと並ぶ8本の円柱(ギリシャのパルテノン神殿を思わせるエンタシスの様式)と緩やかな屋根の傾斜が特徴で、天平建築の最高峰と称えられています。堂内には本尊の盧舎那仏坐像や千手観音立像、薬師如来立像(いずれも国宝)が安置されています。
- 講堂(国宝)平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築・改造したもので、宮殿建築としては唯一現存する極めて貴重な遺構です。
- 御影堂(みえいどう)と鑑真和上坐像(国宝)鑑真和上の徳を偲んで造られた肖像彫刻(日本最古の肖像彫刻)が安置されています。普段は非公開ですが、毎年6月の開山忌の時期に特別公開されます。また、御影堂内には東山魁夷画伯が描いた障壁画「黄山暁雲」「御影堂障壁画」が奉納されています。
2. 見頃と年中行事
- うちわまき(梵網会・5月19日)鑑真和上の弟子・覚盛上人の徳を称え、宝扇(ハート型のうちわ)を楼門の上から参拝者に撒く名物行事です。
- 瓊花(けいか)の開花(4月下旬〜5月上旬)鑑真和上の故郷である中国・揚州市から贈られた、白い可憐な花を咲かせる木「瓊花」が御影堂の近くに植えられており、初夏の季節に見頃を迎えます。
華やかで荘厳な東大寺とは対照的に、境内には緑豊かで落ち着いた苔庭が広がり、古代の静けさと品格を今なお色濃く残している名刹です。
観相窓(かんそうまど/棧唐戸)
東大寺大仏殿の正面2階部分にある観相窓(かんそうまど/棧唐戸)が開き、参道や中門の外側から大仏様(盧舎那仏)のお顔を直接拝むことができる特別なお参りについて解説します。
1. 観相窓が開く「年に2回(計3日間)」の機会
観相窓が開扉(かいひ)されるのは、1年の中で決まった時期に限られています。
- 元日(1月1日 0:00〜8:00頃)新年を迎える瞬間から早朝にかけて開かれます。この時間帯は「初詣」に合わせて大仏殿の観相窓が開かれ、境内(鏡池周辺)から大仏様のお顔を仰ぎ見ることができます。
- お盆・万灯供養会(8月15日 19:00〜22:00頃)お盆の最終日に開催される「万灯供養会(まんとうくようえ)」に合わせて開かれます。大仏殿前の参道に無数の燈籠が並べられ、闇夜に浮き上がる大仏様のお顔を拝むことができます。
2. 観相窓が開くことの宗教的・歴史的意義
観相窓が開くことには、単なるイベント以上の深い宗教的・視覚的意味が込められています。
① 中門(境外)から大仏様と視線が合う設計
大仏殿の設計は、観相窓を開けた際に「中門のあたりに立つ参拝者と、大仏様の視線がちょうど垂直に交わる」ように緻密に計算されています。通常時は大仏殿の中に入らなければ拝顔できませんが、窓が開くことで「屋外にいるすべての人々を大仏様がその慈悲の眼差しで見守り包み込む」という古代建築の仕掛けが体現されます。
② 祖先の供養と天下泰平の祈り(お盆と正月)
- 元日:新年の始まりにあたり、国民の平和と万民の幸福(鎮護国家の精神)を大仏様に祈願する意味合いを持ちます。
- 8月15日(お盆):有縁無縁のすべての霊(戦没者や祖先)を供養する万灯供養会において、灯籠の灯火とともに大仏様の光照(慈悲)を世に満たすという意味が込められています。
③ 聖武天皇の「造立の思想」の体現
大仏(盧舎那仏)は、「宇宙の真理そのもの」であり「あらゆるものをあまねく照らす光」を象徴しています。観相窓を開けてお顔を外に見せる行為は、聖武天皇が『大仏造立の詔』で掲げた「生きとし生けるものすべてが共に栄えるように」という、開かれた包摂的な仏教思想を現代に可視化する儀式であると言えます。
東大寺が現在の奈良(平城京の東方)の地に建立された理由
東大寺が現在の奈良(平城京の東方)の地に建立された理由と、その完成に至る過程には、政治的意図、宗教的意味合い、そして度重なる試行錯誤が深く絡み合っています。
1. なぜ「あの場所(平城京の東方)」だったのか?
大仏殿が立つ現在の場所は、当時の平城京の市街地ではなく、その東側の外れ(外京)にあたる「春日野(かすがの)」の地でした。この立地には明確な理由がありました。
- 災厄を鎮める「若草山麓」の聖地性東大寺の前身は、728年に聖武天皇が幼くして亡くした皇子(基王)の菩提を弔うために建てた「山階寺(または金鍾山寺)」でした。平城京を見下ろす東の山麓(現在の二月堂や法華寺の周辺)は、都の守りであり、異界との境界とも捉えられていた聖なる場所でした。
- 広大な敷地の確保と都市計画大仏殿や七重塔、多数の塔頭(子院)を含む巨大な伽藍を建設するには、すでに市街地として区画整理(条坊制)されていた平城京の内部では狭すぎました。都の東側に隣接する傾斜地を利用することで、都を見守るように聳え立つ壮大な寺院空間を創出できました。
2. 東大寺建立の過程
東大寺の建設は、最初から「東大寺」として一括で計画されたわけではなく、複数の前身寺院や政治的変遷を経て集大成されたプロジェクトでした。
① 前身寺院の誕生(728年〜)
聖武天皇による皇子追善の「金鍾山寺」や、天災・疫病の頻発を受けて741年に出された「国分寺・国分尼寺建立の詔」に基づき、この地が大和国分寺(大和国金光明寺)に指定されました。これが後の東大寺の母体となります。
② 「大仏造立の詔」と場所の転々(743年)
743年、聖武天皇は大仏造立の詔を発します。しかし、当初大仏づくりが開始されたのは奈良ではなく、近江国の紫香楽宮(しがらきのみや・現在の滋賀県甲賀市)でした。
しかし、紫香楽での造営中に山火事や地震が相次いだため、聖武天皇は都を再び平城京に戻し、大仏造立の拠点も大和国分寺(現在の東大寺の地)へと変更されました。
③ 本格的な建設と民間の協力(745年〜)
745年から現在の地で大仏の鋳造が開始されました。
- 技術と労働力の結集:当時の人口(約500万人)の半分近くにあたる延べ260万人以上が建造に関わったとされます。
- 行基の登用:民衆に絶大な影響力を持っていた僧・行基を「大僧正」に迎え、民間の寄付(物資や労働力)を募る勧進を行わせることで、国家プロジェクトと民間のエネルギーを融合させました。
④ 開眼供養会(752年)
8年の歳月をかけて巨像が完成し、752年(天平勝宝4年)にインド出身の僧・菩提 get(ぼだいれんせん)を導師に迎えて、盛大な「大仏開眼供養会」が催されました。この時、大仏殿や周囲の諸堂の建設は依然として進行中であり、実質的な伽藍全体が完成したのは780年代に入ってからでした。
⑤ 「東大寺」という名の定着
全国の国分寺の頂点に立つ総本山(総国分寺)として、平城京の「東にある大きな寺」という意味から「東大寺」と呼ばれるようになりました。
東大寺は、相次ぐ天災や政変に苦しんだ聖武天皇が、都を包み込む東の聖地に「鎮護国家と万民の安寧」を託して築き上げた、奈良時代最高の国家的金字塔と言えます。





















