岩国ってそんなに暮らしにくかったのか?🌸【連続テレビ小説】ブラッサム(18)第4週「岩国と、共に」
岩国ってそんなに暮らしにくかったのか?
こんにちは
猫好き父さんです
なんか
閉鎖的で
保守的な
暮らしにくい
岩国という感じがしますねえ
画像は公式からの引用です
あらすじ
珠(石橋静河)は、町でささやかれる噂のせいで、リョウ(国仲涼子)の口利きで働けることになった本家の葉野酒造からも、ついに見放されてしまう。悪い噂がいっこうに消えないことに苦しみ、家にこもりがちになる珠。その影響は家族にもおよび、珠の弟・守(中須翔真)はそのことを同級生にからかわれ、喧嘩に発展する。そんな状況を見かねたリョウは、ある思いを持って、木村照子(山田真歩)のもとを訪ねて…。
出演者
【出演】石橋静河,山田真歩,金子大地,楠見薫,八嶋智人,国仲涼子,渡部篤郎
原作・脚本
【作】櫻井剛
音楽
【音楽】fox capture plan
#ブラッサム 第18回🌸NHK ONEで配信中! 📱放送から1週間何度でもご視聴いただけます https://t.co/z8ikoPHJsd 【あらすじ】 仕事を失った珠(石橋静河)は、一向に消えない悪い噂に苦しみ、家にこもりがちに。リョウ(国仲涼子)は、ある思いを持って、木村照子(山田真歩)のもとを訪ねて…。
— 朝ドラ「ブラッサム」公式 (@asadora_bk_nhk) October 21, 2026
大正5年(1916年)頃の山口県岩国地域
大正5年(1916年)頃の山口県岩国地域(旧岩国藩の城下町および周辺町村)は、現在の岩国市のような広域自治体(市制施行は昭和15年)ではなく、錦川沿いに発展した歴史ある城下町・商港都市としての景観と、近代化の波が差し込み始めた変革期にありました。
当時の町の人口・経済・交通などの規模感や都市としての特徴について詳しく解説します。
1. 人口・行政規模:「町」としての集積と人口
当時の「岩国」は、城下町である岩国町をはじめ、錦帯橋の対岸にあたる錦見(にしみ)町、吉香公園周辺の横山村、港町である今津村・麻里布(まりふ)村などの町村に細かく分かれていました。
- 中心部の人口規模: 大正初期の岩国町・錦見町を中心とした城下町エリア一帯(現在の錦帯橋周辺や岩国中心部)の人口は約2万人〜2万5,000人程度でした(旧岩国市に該当する地域全体でも数万人規模)。
- 都市としての立ち位置: 県庁所在地である山口市や開港地の下関市、萩市などと並ぶ山口県東部(東防)の中心的都市であり、江戸時代からの旧城下町としての賑わいをしっかり保っていました。
2. 交通とインフラ:山陽本線と「岩国電気軌道」の開業
大正5年頃の岩国は、交通インフラが劇的に近代化し、町の構造が広がりつつある時期でした。
- 山陽鉄道(山陽本線)の開通: 明治30年代に山陽鉄道(のちの国鉄山陽本線)が開通しており、港近くの麻里布に岩国駅(現在のJR岩国駅)が設置されていました。
- 岩国電気軌道(路面電車)の登場: 大正5年(1916年)当時の岩国を語る上で欠かせないのが、明治42年に開通した岩国電気軌道(路面電車)です。
- 路線の役割:国鉄岩国駅(麻里布)から、賑やかな城下町中心部・錦帯橋(新岩国)までを結んでいました。
- 影響:それまで城下町(錦帯橋周辺)中心だった町の構造が、鉄道駅のある海岸側(麻里布エリア)へと広がるきっかけとなり、物流や旅人の行き来が飛躍的に盛んになりました。
3. 経済と産業:伝統産業から近代工業への移行期
大正5年頃は、江戸時代からの名産品や地場産業が活発であると同時に、製糸業などの近代産業が起こり始めていた時期です。
- 錦川の舟運と港: 錦川の水運を利用した木材や農産物の集散地であり、今津や麻里布などの港からは瀬戸内海各地へ海産物や醤油・酒などの物資が出荷されていました。
- 名産品と商店街: 吉香公園や錦帯橋周辺には老舗の和菓子店、割烹、酒蔵(岩国は昔から酒造りが盛ん)が軒を連ね、城下町ならではの洗練された商業文化が栄えていました。
- 近代工業の芽生え: 大正期に入ると、水資源が豊富な錦川沿いに製糸工場(のちの帝国人造絹絲=帝人などの前身)が進出を開始し、城下町から「工業都市」へと変貌する助助(助走)期間に入っていました。
4. 文化・教育・街並み:古風な城下町と大正浪漫
街並みの景観は、江戸時代の武家屋敷や町家が多く残りつつも、洋風のハイカラな建築が混ざり始める「大正浪漫」の趣がありました。
- 錦帯橋と吉香公園: 名勝・錦帯橋は当時から全国的に有名な観光名所であり、旧岩国藩主吉川家の邸宅跡である吉香公園は、市民の憩いの場・桜の名所として親しまれていました。
- 教育の拠点: 旧制岩国中学校(現・山口県立岩国高等学校)や高女などの旧制中等教育機関が置かれ、山口県東部における高学歴・優秀な若者が集まる文教地区でもありました。
まとめ
大正5年頃の岩国は、「江戸時代の風情を残す錦帯橋周辺の歴史的な城下町」と、「山陽本線や港を擁する麻里布・今津の近代的な商業・交通エリア」が、路面電車によって繋がれた人口2万〜3万人規模の活気ある中堅都市でした。
大正時代初期の岩国の人々の気質
大正時代初期の岩国の人々の気質については、「吉川(きっかわ)300石の城下町としてのプライド」と、「岩国独特の複雑な立場(長州本藩との微妙な関係)」、そして「地勢的な外向きの気質」が複雑に絡み合った、非常に興味深い地域性を持っていました。
「保守的・閉鎖的」かというと、「内に対しては誇り高く保守的だが、外(新技術や外部の文化)に対しては意外なほど開放的で商売上手」という二面性が当てはまります。具体的には以下のような要素が挙げられます。
1. 吉川家への強い忠誠と「城下町」としての矜持(保守性)
岩国は江戸時代、毛利本藩(萩・山口)の支藩のような扱いを受けつつも、領主であった吉川家が独自に治めた領地(岩国領)でした。
- 吉川家への敬愛と自負岩国の人々は領主である吉川家に対して非常に強い敬愛の念を持っており、大正時代になっても「自分たちは吉川の殿様のまち(城下町)の人間だ」という強い誇り(矜持)がありました。
- 伝統や格式を重んじる気質錦帯橋や吉香公園周辺に住む旧武家層や老舗の町人層を中心に、昔ながらの礼儀作法や家格、血縁・地縁の繋がりを重んじる「内向きで保守的」な面が確実に存在していました。よそ者に対して最初は一定の警戒心を持って接するような慎み深さ(あるいは閉鎖性)は、古い城下町特有のものとして見られました。
2. 「長州(萩・山口)」に対する複雑な対抗心
山口県(旧長州藩)といえば吉田松陰や高杉晋作、伊藤博文らを輩出した「維新の志士」のイメージが強いですが、岩国の人々の気質は、萩や山口、下関などの「長州本藩」エリアとは一線を画していました。
- 「長州とはちょっと違う」という意識関ヶ原の戦い以降、吉川家と毛利本藩との間には歴史的な確執や複雑な関係性がありました。そのため、岩国の人々は「長州閥(明治政府の主流派)」に手放しで乗っかるわけではなく、「自分たちは岩国人である」という独自意識(独立心)が非常に旺盛でした。
- 議論好きだが一歩引くクレバーさ政治的・理論的な議論を好む「長州人」の血を引きつつも、吉川領として本藩から一歩引いて生き抜いてきた歴史から、どこか冷めた客観性や世渡りの上手さを持ち合わせていました。
3. 広島との経済的交流が生んだ「進取の気性」と開放性
岩国は地理的に山口県(長州)の東端にあり、錦川の水運や瀬戸内海の港(麻里布・今津)を通じて、隣の広島(安芸)との経済・文化的な結びつきが非常に強い地域でした。
- 「商人の街」としての商魂とハイカラ好き麻里布や今津などの港町・駅前エリアの町人・商人たちは、非常に商売上手で「新しいもの好き(進取の気性)」でした。明治から大正にかけて、全国に先駆けて民間路面電車(岩国電気軌道)を敷設したり、製糸工場などの近代産業をいち早く受け入れた背景には、こうした「良いものはどんどん取り入れる」開放的な気質がありました。
- 広島文化への親近感方言(岩国弁)も山口県西部より広島弁に近く、気質的にも広島的な明るさや開放性、商人の現実主義が混ざり合っていました。
まとめ:大正時代の岩国人の気質
当時の岩国の人々の気質をひとことで表すなら、「気品高く誇り高い(保守的)が、実利と新しい文化にはきわめて聡明で開放的」と言えます。
- 城下町(旧武家・伝統層):伝統や吉川家の誇りを守り、礼節を重んじる保守的な側面
- 港町・駅前(商人・労働者層):広島や関西との物流のなかで鍛えられた、ハイカラで商売上手な開放的側面
この二つが錦帯橋(旧城下町)と麻里布(新駅前)という地理的対比とともに共存していたのが、大正5年頃の岩国の人々の面白いリアリティだったと言えます。
前回までのブラッサム
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