明治を生きたヒロイン達が出会う可能性🌸【連続テレビ小説】ブラッサム(20)第4週「岩国と、共に」
明治を生きたヒロインが出会う可能性
こんにちは
猫好き父さんです
珠が東京に出てきたことで
他のヒロインとの
接点ができそうな気がしますが
史実から追っていくと
それは難しいようですね
あらすじ
家族と別れ、東京へとやってきた珠(石橋静河)は、沢山の人が行き交い、珠のことなど一切気にしない都会の様子に安どを覚える。そして、メモ書きを頼りに、ようやく保(金子大地)のいる下宿に到着する。そこで下宿先の大家の娘・三好マキ(中村優子)に案内されるが、どうやらマキは珠のことを「保の妹」と思っている様子。実は、この下宿には、「他人の男女は同居してはいけない」というルールがあって…。
出演者
【出演】石橋静河,金子大地,赤堀雅秋,中村優子,川島潤哉
原作・脚本
【作】櫻井剛
音楽
【音楽】fox capture plan
#ブラッサム 第20回🌸NHK ONEで配信中! 📱放送から1週間何度でもご視聴いただけます https://t.co/06lILDOqqK 【あらすじ】 岩国で家族と別れて、東京へとやってきた珠(石橋静河)。メモ書きを頼りに、ようやく保のいる下宿に到着する珠だったが、その下宿にはあるルールがあって…。
— 朝ドラ「ブラッサム」公式 (@asadora_bk_nhk) October 23, 2026
これは、朝ドラを見ていると気になってくる、面白い歴史上の「すれ違いの可能性」です。
大正5年(1916年)という一点に注目すると、小泉セツ、大関和(おおぜき・ちか)、宇野千代の3人は、年齢も歩んできた道も大きく違います。しかし、同じ時代を生き、後世に朝ドラのヒロインのモデルとなった女性たちです。
まず結論からいうと、小泉セツと大関和が東京で出会う可能性はありました。一方、宇野千代を含む3人が大正5年に出会った可能性は、居住地の違いからかなり低かったと考えられます。少なくとも、3人が実際に会ったことを示す記録は、今回確認した資料からは見つかりませんでした。
1. 大正5年、それぞれどこで何をしていたのか
小泉セツ(1868~1932)
当時48歳
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻で、夫の著述を支えた語り手です。八雲は1904年に亡くなっており、セツはその後も東京で暮らしていました。大正5年には、すでに八雲の妻としてだけでなく、夫の作品や記憶を伝える存在となっていました。
大関和(1858~1932)
当時58歳
近代看護の先駆者で、看護婦の教育や職業的地位の向上に尽力しました。明治29年(1896年)に東京へ戻り、東京看護婦会などで活動。大正5年には看護の専門知識を広める活動を続けていました。
宇野千代(1897~1996)
当時18歳(11月に19歳)
岩国で小学校の代用教員を務めた後、恋愛をきっかけに職を辞し、朝鮮の京城(現在のソウル)へ渡りました。大正5年に帰国し、従兄弟の藤村忠を頼って京都へ移ります。東京へ出るのは翌1917年です。
この年表から、まず見えてくるのは、セツと和は東京、千代は京都にいたという大きな違いです。
2. セツと和は、どこで出会う可能性があったのか
この2人については、同じ東京で活動していたという点から、接点を考える余地があります。
大関和は、看護の専門教育や看護婦の社会的地位の向上に力を注いでいました。大正5年9月には、家庭で病人を看護するための知識をまとめた『家庭看病法』を刊行しています。専門家だけでなく、一般家庭にも看護の知識を広めようとする活動です。
一方、小泉セツは、八雲の著述を支えた経験を持つ女性でした。八雲の文学や日本文化への関心を共有する人々との接点があったとしても不思議ではありません。
ただし、ここで気をつけたいのは、同じ東京に住んでいたことと、実際に交流していたことは別だという点です。
今回確認できた資料には、セツと和が同じ団体に所属していた、共通の集まりに参加した、互いの名前を記した書簡を交わした、といった直接的な証拠はありません。
したがって、セツと和の出会いは「地理的には可能だったが、史実として確認できない」という評価が妥当です。
3. 宇野千代が加わると、なぜ可能性が下がるのか
ここが今回の考察の決め手です。
宇野千代は1916年、朝鮮の京城から帰国し、京都にいた従兄弟の藤村忠を頼りました。千代が東京へ移るのは1917年で、藤村忠の東京帝国大学進学に伴うものでした。これは宇野千代顕彰会の年譜や山口県観光連盟の紹介でも確認できます。
つまり、大正5年の時点では、3人が同じ都市に集まっていたわけではありません。
セツ:東京で生活。
和:東京を拠点に看護の仕事を続ける。
千代:帰国後、京都で新しい生活を始める。
もちろん、当時も京都と東京の間を鉄道で移動することは可能でした。千代が東京を訪れたり、セツや和が京都へ出かけたりした可能性まで否定することはできません。
しかし、そうした移動を裏付ける記録が見つからない以上、「3人が大正5年に出会っていたかもしれない」という仮説を積極的に支持する材料は乏しいのです。
4. むしろ注目したいのは「1917年」という年
私が興味深いと思うのは、宇野千代が上京した大正6年(1917年)です。
この時点でもセツと和は存命で、千代も東京に生活の場を移しています。したがって、3人が同じ都市に居合わせるという条件は、1916年よりも1917年のほうが整っていたといえます。
ただし、3人の接点が生まれるためには、さらに条件が必要です。
セツと和が実際に接触する機会があったこと。
千代が、文学界や文化人の集まりなどを通じて、2人と接点を持ったこと。
それを示す日記、書簡、回想録などが存在すること。
千代は上京後、飲食店で働くなかで芥川龍之介や久米正雄らの文学者と出会っています。しかし、そのことからセツや和との交流まで推定することはできません。
5. 3人を結びつけるのは、実際の出会いよりも「同時代を生きた女性」という視点
3人の人生を比べると、共通点は直接的な人間関係よりも、それぞれの領域で新しい道を切り開いたことにあります。
人物 | 人生の中心となったもの | 当時の社会との関わり |
|---|---|---|
小泉セツ | 物語を語ること、八雲の文学を支えること | 日本の民話や文化を海外へ伝える文学活動を支えた |
大関和 | 看護、看護教育、職業としての看護の確立 | 女性が専門職として社会に貢献する道を切り開いた |
宇野千代 | 文学、恋愛、仕事、自分の生き方 | 女性が自らの経験や感情を表現する文学を切り開いた |
この比較は、3人が互いに影響を与えたという意味ではありません。むしろ、同じ近代日本の中で、異なる方法によって女性の生き方の可能性を広げた人たちとして並べてみると、興味深いのです。
セツは物語を語り伝え、和は看護の技術と知識を伝え、千代は自分自身の人生を文学として表現しました。それぞれの活動は異なりますが、後世の私たちが彼女たちの人生を知ることで、当時の女性たちがどのような制約の中で道を切り開いたのかを考えることができます。
結論――大正5年に3人が出会っていた可能性は?
現時点での私の評価は、次のとおりです。
小泉セツと大関和: 東京を拠点としていたため、出会うことは地理的に可能。ただし、面識を示す記録は確認できない。
宇野千代を含む3人: 1916年は千代が京都にいたため、3人が出会う可能性は相対的に低い。
1917年以降: 千代が上京するため、3人が同じ都市にいる条件は整う。ただし、実際の交流を示す証拠は未確認。
ですから、私は「大正5年に3人が出会っていた」と考えるよりも、出会っていてもおかしくはない時代を生きていたが、今のところ史実としては確認できないと整理するのが、最も誠実な結論だと思います。
もし今後、セツの書簡や和の活動記録、千代の回想録などから新しい接点が見つかれば、朝ドラの3人のモデルを結ぶ、思いがけない歴史の一幕になるかもしれません。
前回までのブラッサム
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