本格的なフランス料理を提供する格式高い店🌸【連続テレビ小説】ブラッサム(24)第5週「狂騒で、東京」
本格的なフランス料理を提供する格式高い店
こんにちは
猫好き父さんです
酷評でしたけど
なんか
脈がありそうな
反応でしたね
画像は公式からの引用です
あらすじ
珠(石橋静河)は家事と仕事の合間に小説を書き続けていた。あるとき、珠は黒崎(遠藤憲一)に自分の書いた小説を読んでほしいと思い、仕事中に直接、黒崎に短編小説を渡すことに。黒崎は珠の突然の行動に驚くが…。一方、珠と一緒に暮らしている保(金子大地)は、下宿先の大家・三好辰五郎(赤堀雅秋)とその娘・マキ(中村優子)から、「珠との関係が、恋仲に発展したのか」と問いただされて…。
出演者
【出演】石橋静河,金子大地,高良健吾,赤堀雅秋,中村優子,瀬戸さおり,北野秀気,斎藤司,愛,誠,井浦新,遠藤憲一
原作・脚本
【作】櫻井剛
音楽
【音楽】fox capture plan
#ブラッサム 第24回🌸NHK ONEで配信中! 📱放送から1週間何度でもご視聴いただけます https://t.co/TDGJpb4mQh 【あらすじ】 珠(石橋静河)は家事と仕事の合間に小説を書き続けていた。あるとき、珠は黒崎(遠藤憲一)に自分の書いた小説を読んでほしいと思い、黒崎に自らの短編小説を渡すが…。
— 朝ドラ「ブラッサム」公式 (@asadora_bk_nhk) October 29, 2026
燕楽軒(えんらくけん)
大正時代、東京の本郷三丁目(現在の東京都文京区本郷4丁目)の交差点角(本郷通りと菊坂通りの分岐点)に実在した西洋料理店(フランス料理店)「燕楽軒(えんらくけん)」は、当時の文壇文化と深く結びついた伝説的なレストランです。
当時の店の特徴やゆかりのあるエピソードを整理してご紹介します。
1. 店舗の背景と本格派の料理
- 一流のシェフと格式開業は1918年(大正7年)5月頃。旧劇場(大和座)を改築したモダンな3階建ての洋館でした。料理長には築地精養軒で料理長を務めた名シェフ・西尾益吉(日本の洋食界の重鎮)を迎え、本格的なフランス料理を提供する格式高い店でした。
- 純粋な「レストラン(給仕女)」としての運営大正から昭和初期にかけて「カフェーの女給(接待を伴う職)」が増加する中、燕楽軒はあくまで純粋な西洋料理店でした。給仕(ウエイトレス)は料理や飲み物を運ぶのみで、お酌などの接待は一切禁じられていた硬派な店でもありました。
2. 「中央公論社」と文士たちのサロン
燕楽軒が文学史において特別な場所となった最大の理由は、電車通りを挟んだ斜め向かいに「中央公論社」があったことです。
名編集長として文壇に絶大な影響力を持っていた滝田樗陰(たきた ちょいん)が連日のように昼食に訪れており、彼を慕う作家や編集者たちがこぞって集まりました。
- 常連だった作家たち:芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、佐藤春夫、宇野浩二、今東光 など
3. 作家・宇野千代と「本郷の女王」伝説
この燕楽軒を語る上で欠かせないのが、後に作家として大成する宇野千代の存在です。
- 給仕として勤めた18日間大正7年(または大正6年説)、上京したての宇野千代(当時20歳前後)は生活費を稼ぐため、燕楽軒で給仕として働いていました。その美しさと文学への関心の高さから、若き文士たちの間で大評判となり、「本郷の女王(クイン)」と呼ばれました。
- 滝田樗陰との出会いと「50銭銀貨」滝田樗陰は千代が担当するテーブルの常連で、食事を終えるといつもテーブルの上に50銭銀貨のチップを1枚置いて去っていったという有名な逸話があります。(※当時のかけそば1杯が2〜3銭、50銭は日雇い労働者の半日〜1日分の給与に相当する大金でした)。生活に困窮していた千代はこのチップで質屋の品を取り戻すことができたと回想しています。
- 文学界への足がかり千代が文章を書くことを知った滝田は小説執筆を勧め、後に千代が投稿した『墓を発く』が『中央公論』に掲載されるきっかけとなりました。また、当時店に通っていた今東光と親しくなり、彼との散歩中の出来事(安売りされていた葱を買った話)が、芥川龍之介の短編小説『葱』のモデルになったとも言われています。
4. その後と現在の跡地
- 営業の終焉昭和8年(1933年)3月に廃業し、店舗建物自体もその後の太平洋戦争による東京大空襲で焼失しました。
- 現在の跡地現在、店舗の跡地は文京区本郷4丁目(本郷三丁目交差点近く、本郷通りと菊坂が交わる角地)にあたり、現在はビルが建ち「ライフ 本郷三丁目駅前店」などが入居する敷地周辺となっています。
大正モダニズムの空気感と、近代日本文学の熱気がそのまま凝縮されていたような伝説の西洋レストランです。
滝田 樗陰(たきた ちょいん)
滝田 樗陰(たきた ちょいん)は、明治末期から大正時代にかけて雑誌『中央公論』の編集長を務め、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎、菊池寛などの文豪を見出し、大正文学の黄金期を陰で築き上げた伝説的な大編集者です。
本名は滝田 哲太郎(てつたろう)(1882年 - 1925年)。秋田県出身で、東京帝国大学(現・東京大学)法科大学を中退後、中央公論社に入社しました。
彼の人物像や果たした役割について、いくつかの重要な側面から解説します。
1. 『中央公論』を総合雑誌へと変革
彼が入社した当時の『中央公論』は、仏教系の機関誌としての色彩が強い雑誌でした。
樗陰は編集長に就任すると、吉野作造らを起用して「民本主義」などの論説を展開させ、政治・社会評論の主壇場としました。それと同時に、文芸面を大幅に強化。政治論壇と文学論壇を二本柱とする「日本初の総合雑誌」へと飛躍的に成長させました。
2. 新人発掘の天才(芥川龍之介・谷崎潤一郎など)
樗陰の最大の功績は、圧倒的な「鑑識眼」と「情熱」で若手作家の才能を見抜き、世に送り出したことです。
- 芥川龍之介の抜擢夏目漱石の門下で無名だった芥川の短編『芋粥』に目を留め、大正5年(1916年)に『中央公論』へ執筆を依頼。これが芥川の文壇デビューの大きな足がかりとなりました。
- 谷崎潤一郎の才能を見出す永井荷風に絶賛されながらも評価が定まりきっていなかった若い谷崎に執筆の場を与え続け、文壇での地位を決定づけました。
- 宇野千代への助言本郷のフランス料理店「燕楽軒」で給仕をしていた宇野千代の才気を見抜き、投稿や執筆を促して女流作家への道を拓きました。
3. 名物編集長としての強烈なキャラクター
樗陰は、その豪快かつ愛すべき人柄でも文士たちから深く愛されました。
- 巨漢と美食家体重100kgを超える巨漢で、大の美食家でした。会社近くの「燕楽軒」などを溜まり場にし、昼間から文士たちを集めてはご馳走し、原稿の相談や世間話に花を咲かせました。
- 強引な「原稿取り」締め切りを守らない作家には容赦なく自宅へ張り付き、原稿が完成するまで絶対にテコでも動かないスタイルで有名でした。しかし、作家側の面倒も非常によく見たため、恨まれるどころか深く信頼されました。
- 古書・手稿のコレクター作家たちから集めた原稿や短冊、古書などを熱心に収集・保管しており、彼のコレクション(滝田文庫)は当時の文学史を知る上で非常に貴重な資料となっています。
4. 早すぎた死
『中央公論』の黄金時代を一人で背負い、昼夜を問わず文士たちと付き合い続けた猛烈な働きぶりが祟り、大正14年(1925年)10月、肝臓癌のため43歳の若さで他界しました。
彼の葬儀には、当時の文壇・論壇の重鎮たちがこぞって参列し、芥川龍之介をはじめとする多くの作家がその死を悼み、彼を偲ぶ文章を寄せました。
まとめ
滝田樗陰は単なる「原稿を集める編集者」にとどまらず、プロデューサーであり、批評家であり、作家たちの最大の理解者でした。「大正文学の歴史は、滝田樗陰という一人の編集者の手によって動かされていた」と言っても過言ではない、近代日本文学史におけるキーパーソンです。
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