明るいのか?💛【連続テレビ小説】風、薫る(106)第22週「明るい未来」
明るいのか?
こんにちは
猫好き父さんです
このタイトルは
逆説的なのかなあ
画像は公式からの引用です
あらすじ
小川(甲斐翔真)の軍服のボタンが取れかけるたびに縫い付けなくてはいけないので、裁縫が苦手な直美(上坂樹里)は愚痴をこぼす。体調が悪い直美の様子をりん(見上愛)は気にしていて・・。そんなある日、陸軍予備病院にいる多江(生田絵梨花)から手紙が届き、その内容に二人は激怒する。
出演者
【出演】見上愛,上坂樹里,生田絵梨花,甲斐翔真,相田翔子,多部未華子,水野美紀,【語り】研ナオコ
原作・脚本
【脚本】吉澤智子,【原案】田中ひかる
音楽
【音楽】野見祐二
📺#朝ドラ 【#風薫る】
— 朝ドラ「風、薫る」公式 (@asadora_nhk) August 23, 2026
\ あらすじ公開/
第22週「明るい未来」
多江(生田絵梨花)が広島の病院で軍人の看護に苦戦しているという手紙がりんに届き…
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見上愛 上坂樹里 pic.twitter.com/NjIIHW8E2u
なぜ日清戦争(1894年8月〜1895年4月)は始まったのか?
日清戦争(1894年8月〜1895年4月)は、明治維新を経て近代化を進めた日本と、東アジアの伝統的な主権秩序(冊封体制)を維持しようとする清国が、朝鮮半島の主導権をめぐって激突した大規模な対外戦争です。
1. 戦争が始まった直接のきっかけ(東学党の乱と甲申事変の布石)
直接の開戦要因は、1894年に朝鮮半島で発生した農民の反乱「東学党の乱(甲午農民戦争)」と、それに伴う両国の派兵です。
- 天津条約の存在:1885年の甲申事変(朝鮮の親日派クーデター失敗)後、日清両国は「朝鮮へ派兵する場合は事前に互いに通知する」という天津条約を結んでいました。
- 両国の派兵と撤兵の拒否:農民反乱を自力で鎮圧できない朝鮮政府が清国に救援を依頼して清軍が派兵されると、日本も天津条約に基づいて即座に公使館保護や邦人保護を名目に大規模な軍隊を派遣しました。
- 開戦への波及:その後、朝鮮国内で農民軍と政府の和議が成立し乱が収束したため、清国は相互撤兵を提案しました。しかし、日本は「朝鮮の内政改革を行わない限り根本的解決にならない」として撤兵を拒否。さらに朝鮮の王宮を占領して清国派の政権を倒し、親日政権を樹立させたうえで、1894年7月の豊島沖海戦を経て8月1日に正式に宣戦布告を行いました。
2. 日本から見た戦略的意義
当時の日本政府・陸海軍にとって、この戦争には国家の生き残りをかけた極めて重要な主権的・戦略的意義がありました。
- 「利益線(朝鮮半島)」の確保と安全保障:当時の内閣総理大臣・山県有朋は、日本の主権を守る範囲を「主権線(国境)」とし、その主権線の安全を守るために不可欠な隣接地域を「利益線(朝鮮半島など)」と定義しました。
- 朝鮮が清国に従属し弱体化したままであるか、あるいはロシアなどの欧米列強に占領された場合、「日本を狙う凶器(喉元に突きつけられたドス)」になると恐れられていました。
- したがって、朝鮮を清国の影響下から切り離して「独立国」とし、日本の影響下に置くことで自国の安全保障上の防波堤にすることが最優先課題でした。
- ロシアの南下政策に対する防壁:清国だけでなく、当時シベリア鉄道の建設を進めて東アジアへ伸長しようとしていたロシア帝国の脅威(南下政策)に対抗するため、朝鮮半島の危機管理を自ら主導する必要がありました。
3. 時代背景(当時の内外情勢)
- 東アジアの国際秩序の変容(冊封体制 vs 近代国際法):東アジアでは古くから清国を中心とする「冊封・朝貢体制(清国が頂点に立ち周辺国を属国とする緩やかな主従関係)」が続いていました。一方、欧米化を進めた日本は主権国家どうしが条約で結ばれる「近代国際法(万国公法)」の秩序を導入しようとしており、二つの異なる国際秩序の衝突でもありました。
- 日本の条約改正と欧米列強の思惑:日本は幕末に結ばれた不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃など)を悲願としていました。戦争直前の1894年7月、イギリスとの間で日英通商航海条約が調印され、領事裁判権の撤廃に成功したことで、欧米列強(特にイギリス)の中立ないし日本支持を取り付けることに成功しました。
- 国内政治の統一(藩閥 vs 政党):当時の明治政府内では、藩閥政治家と立憲改進党・自由党などの民党(野党)が予算や政策をめぐって激しく対立(初期議会)していました。しかし、対外戦争の勃発によって国内の世論や政党は一転して政府・軍を強力に支持し、挙国一致の体制が作られました。
このように、日清戦争は「朝鮮半島の支配権」を争う局地的な対立であると同時に、日本にとっては「ロシアの脅威に対抗するための防壁構築」であり、「伝統的な清国中心の東アジア秩序を解体し、自らが近代国家として列強の仲間入りを果たすための挑戦」という決定的な時代転換点でした。
広島陸軍予備病院
明治時代の広島に開設された「広島陸軍予備病院」は、日清戦争(1894〜1895年)および日露戦争(1904〜1905年)において、戦地から後送されてくる膨大な負傷兵・病兵を収容・治療した日本最大級の野戦医療拠点です。
日清戦争時、広島には大本営が置かれ、宇品港が兵員・物資の出撃・帰還のメインポート(拠点港)となったため、広島は「軍都」として急速に発展し、医療の最前線基地としての役割を担うことになりました。
1. 開設の背景と「軍都・広島」
- 大本営と宇品港の存在:日清戦争開戦に伴い、明治27年(1894年)に山陽鉄道が広島まで開通。宇品港(広島港)が大陸への兵員輸送拠点となったため、明治天皇が大本営を広島に移しました。これに伴い、戦地から送り返される膨大な傷病兵を受け入れる施設が緊急に必要となりました。
- 広島陸軍病院の拡充:もともと基町(現在の広島城周辺)にあった「広島陸軍病院」だけでは到底収容しきれなくなったため、市内各所に仮設の病床を増設し、「広島陸軍予備病院」が組織されました。
2. 予備病院の規模と展開
広島陸軍予備病院は単一の建物ではなく、市内に分院・病室が多数設置される巨大な病院ネットワークでした。
- 分院の設置:基町の本院のほか、宇品、江波、吉島などの広大な敷地に木造平屋建ての病舎が急速に建設されました。また、市内のお寺や学校なども臨時病室として徴用されました。
- 日本最大の病床数:日清戦争時には最大で1万人以上、日露戦争時にはさらに規模が拡大し、数万人規模の傷病兵を同時に収容可能な日本最大規模の医療施設となりました。
3. 歴史的功績と医療・看護の転換点
- 赤十字看護婦(日本赤十字社)の活躍:日本赤十字社から派員された救護看護婦たちが大規模に投入されました。当時の日本社会において女性が公の場で救護活動に従事する象徴的な事例となり、近代看護の確立に大きく寄与しました。
- 大関知(ちか)さんの功績:日本最初の看護婦とされる大関知さんも、日清戦争時に広島陸軍予備病院へ救護看護婦長として救護班を率いて救護活動に尽力しました。厳しい環境の中で傷病兵の看護と衛生管理に身を捧げた活動は高く評価されています。
- 国内外からの注目:当時、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)による行啓や慰問が行われたほか、外務省の要請や海外メディア・赤十字関係者も視察に訪れ、日本の近代的な軍陣衛生・医療体制の進歩を世界に示す場ともなりました。
4. その後と現在
日清・日露戦争終結後、予備病院は縮小・統合され、再び「広島陸軍病院」として基町を中心に運用されました。
その後、昭和20年(1945年)8月6日の原子爆弾投下により、基町の陸軍病院本院をはじめとする多くの施設が爆心地近くで壊滅的な被害を受けることとなります。現在、広島城周辺(基町)や江波などの跡地には記念碑や案内板が設置され、軍都・広島の記憶を今に伝えています。


















