いきなり朝ドラ名物ダメ親父の登場か?🐎【連続テレビ小説】ブラッサム 🈟(1)第1週「私の父、私の母」
いきなり朝ドラ名物ダメ親父の登場か?
こんにちは
猫好き父さんです
お~
ソニー CF-1980
ではないか
これ持ってたなあ
そして
早くもダメ親父の登場
今後が楽しみ
画像は公式からの引用です
あらすじ
昭和57年、葉野珠(加賀まりこ)は青山の書斎で新聞連載「生きて行く私」を執筆する。側には秘書の藤川優子(松たか子)が寄り添う。そして時代は変わり、明治41年の山口県岩国。葉野家の四人兄弟の長女である葉野珠(村上蘭)は、しつけに厳しい父・清治(渡部篤郎)と、継母・リョウ(国仲涼子)と暮らしている。珠は優しい母が大好きだが、血のつながらない自分をどうしてそんなに愛してくれるのか、少し不安に感じていた。
出演者
【出演】加賀まりこ,松たか子,石橋静河,渡部篤郎,国仲涼子,八嶋智人,楠見薫,村上蘭
原作・脚本
【作】櫻井剛
音楽
【音楽】fox capture plan
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\#石橋静河 pic.twitter.com/sOEnWQrx5m
ソニー CF-1980(愛称:スタジオ1980)
ソニー CF-1980(愛称:スタジオ1980)は、1974年(昭和49年)にソニーから発売されたモノラルラジカセの金字塔と称される名機です。
当時としては異例となる累計70万台以上の大ヒットを記録し、その後の日本のラジカセブームを牽引する存在となりました。
主な特徴とヒットの理由
- ミキシング機能の搭載(クリエイティブな提案)マイク入力とラジオやテープの音声を混ぜ合わせて録音できる「ミキシング機能」を搭載。自分の声やギター演奏をラジオ番組に合わせて重ね録りするなど、単なる「再生機」にとどまらない音作りの楽しさを若者層に提示しました。
- 本格的な音質設計(16cm大口径スピーカー)16cmウーファーと5cmツイーターによる2ウェイ・スピーカーシステムを採用。従来のラジカセにありがちだった薄い音を払拭し、深みのある豊かな重低音を実現しました。
- 洗練されたメカニカルなデザインスピーカー部分のパンチドメタルグリルや、精密機器のようなレベルメーター、操作レバーなど、オーディオ機器としての重厚感とカッコよさを兼ね備えたデザインが特徴です。
- 先進的なテープ対応ノーマルテープに加え、当時としてはハイエンドだった「クロームテープ」に対応するテープセレクターを備えていました。
基本スペック
| 項目 | 仕様 |
| モデル名 | CF-1980(スタジオ1980) |
| 発売年 | 1974年(昭和49年) |
| 当時の価格 | 42,800円 |
| スピーカー | 16cmウーファー+5cmツイーター(2ウェイ) |
| 実用最大出力 | 3.0W |
| ラジオ受信 | FM / AM(2バンド) |
| サイズ / 重量 | 幅376 × 高さ245.5 × 奥行106 mm / 約5.0kg |
後継モデル(スタジオ1980シリーズ)
初代CF-1980の大ヒットを受け、シリーズ化されて進化を続けました。
- CF-1980 Mark II(1976年): 天面パネルをシルバーに変更し高級感をアップ。短波放送(SW)にも対応した3バンドラジオに進化。
- CF-1980 Mark V(1977年): アンプ出力を5.0Wまで高めた最終進化形モデル。
昭和レトロ・ヴィンテージオーディオのアイコンとして、現在でもコレクターや中古市場で非常に高い人気を誇っています。
錦帯橋(きんたいきょう)
錦帯橋(きんたいきょう)は、山口県岩国市の錦川に架かる、5連のアーチ構造が美しい日本三名橋の一つ(国の名勝)です。
1673年(延宝元年)に岩国藩主・吉川広嘉(きっかわひろよし)によって建設されて以来、独自の木造建築技術が現代まで引き継がれています。
主な特徴と見どころ
- 釘を使わない奇跡の組木技術中3層のアーチ橋は、部材同士を精密に組み合わせる「組木技術」で作られています。橋の裏側を見上げると、組まれた木々が描く美しい幾何学模様(アーチ組)を観察できます。
- 流されない橋への挑戦錦川はたびたび氾濫を起こしたため、「流されない橋」を目指してアーチ構造が考案されました。石垣の橋脚に木組みのアーチを乗せることで、流木や水圧を逃す工夫が施されています。
- 四季折々の景観
- 春: 錦川の河川敷沿いに広がる桜並木と橋の共演。
- 夏: 夜間ライトアップや、伝統の「鵜飼(うかい)」の観覧。
- 秋: 背景となる城山(岩国城)周辺の美しい紅葉。
- 冬: うっすらと雪化粧をした幻想的な姿。
基本情報
| 項目 | 詳細 |
| 所在地 | 山口県岩国市岩国 |
| 全長 / 幅 | 約193.3m / 5.0m |
| 構造 | 木造5連アーチ橋(両端は桁橋) |
| 入橋料 | 大人 310円 / 小学生 150円(往復) |
| アクセス | JR岩国駅から路線バスで約20分(錦帯橋バスセンター下車) |
JR新岩国駅(新幹線)からバスで約15分 |
周辺の観光スポット
錦帯橋を渡った先は、岩国藩の歴史を感じられる散策エリアになっています。
- 岩国城: 城山の頂上に立つ城。ロープウエイで登ることができ、天守閣からは錦帯橋と岩国市街を一望できます。
- 吉香公園(きっこうこうえん): 旧岩国藩主吉川家の邸宅跡。四季の花々や歴史的建造物が点在します。
- 岩国シロヘビの館: 国の天然記念物である「岩国のシロヘビ」を観察できる施設。
- 名物名所: 橋のたもと周辺には、数百種類のフレーバーを取り揃えたソフトクリームショップや、名物の「岩国寿司」を味わえるお食事処が並んでいます。
明治41年(1908年)頃の岩国
明治41年(1908年)頃の岩国は、日本全国の文脈において「明治維新後の近代化が著しく進み、旧城下町から近代的な交通・工業の街へと変貌をとげる転換期」にありました。
当時の岩国が日本の中でどのような存在・位置づけだったのか、主な3つの観点から解説します。
1. 地方都市として「中国地方初」の電車を走らせた先進地
明治41年は、岩国の歴史や交通史において決定的な年です。
この年、地元の実業家・藤岡市助(「日本の電気父」と呼ばれる岩国出身のエンジニア)らの尽力により、岩国電気軌道(岩国電車)が開業しました。
- 日本全体の文脈:当時、電車が走っている街は東京・大阪・京都・名古屋などの大都市や一部の先進地域に限られていました。
- 岩国の位置づけ:岩国は中国地方で最も早く路面電車(電車)が開通した街となりました。山陽本線の駅から旧城下町(錦帯橋方面)を繋ぐ交通インフラをいち早く整え、全国的にも先進的な近代都市計画が進んでいた地域です。
2. 工業都市(化学繊維の街)へのステップを踏み出した時期
明治41年前後は、後の岩国を日本有数の「臨海工業都市」へと変身させる下地が作られた時期です。
- 地理的・水資源の優位性:錦川の豊富で良質な清流と、瀬戸内海に面した広い港湾環境を備えていました。
- 産業の転換:明治時代末期から大正時代にかけて、この豊かな水と広い土地に着目した巨大企業(後の帝人=帝国人造絹糸など)の進出が始まりました。江戸時代の静かな旧城下町から、日本を代表する化学繊維・近代工業の拠点へと脱皮していく重要な時期にあたります。
3. 軍事都市・大日本帝国の「要衝」としての台頭前夜
明治41年は、日露戦争(明治37〜38年)が終結して数年が経過し、日本全体が「列強国」として軍備増強と産業振興を進めていた時期です。
- 山陽本線と呉・広島との連携:明治30年代に山陽鉄道(現在の山陽本線)が開通したことで、岩国は軍港都市・呉や陸軍の拠点である広島、九州方面を結ぶ兵站・交通の要所となりました。
- のちの軍事拠点化へ:この時期の交通・インフラの発展が礎となり、昭和初期には海軍航空隊基地(現在の米軍岩国基地・岩国飛行場の前身)が設置されるなど、日本における重要な国防拠点のひとつへと成長していくことになります。
まとめ
明治41年頃の岩国は、江戸時代の「錦帯橋と吉川氏の城下町」という伝統的な顔を残しながらも、「中国地方初の電車」「錦川の水資源を活かした近代工業」など、日本全体の明治維新・近代化の波をいち早く取り込んで進化していた活力ある地方近代都市でした。
同じ明治の朝ドラヒロインの状況
明治41年(1908年)における、朝ドラのモデルとなった大関和(ちか)さん(『風、薫る』モデル)と、小泉セツさん(『ばけばけ』モデル)のそれぞれの状況です。
1. 大関知(和・ちか)さん(当時50歳)
【状況】著書『実地看護法』を刊行し、日本近代看護の牽引者として多忙を極めた時期
- 主著の刊行: この明治41年(1908年)、和さんはこれまでの看護指導や現場経験を結集した著書『実地看護法』を刊行しました。これは当時の看護師(看護婦)にとって重要なテキストとなりました。
- 「大関看護婦会」での活動: 自身で設立した派出看護婦(派遣看護師)の組織「大関看護婦会」を拠点に、優秀な看護師の育成と派遣業務に力を注いでいました。
- 社会運動: 看護仕事だけでなく、キリスト教的価値観に基づき、女性の地位向上や一夫一婦制の啓発、廃娼運動などにも精力的に関わっていた時期です。
2. 小泉セツさん(当時40歳)
【状況】夫・ハーン(八雲)の死から4年、遺族として遺稿の整理や子どもたちの養育に励んだ時期
- 夫の急逝後の生活: 夫の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は明治37年(1904年)に54歳で病死したため、明治41年当時は未亡人となって4年が経過した頃です。
- 東京・大久保での暮らし: 八雲との間に生まれた4名の子どもたち(一雄、巌、清、節子)を育てながら、夫が残した家や遺稿を守り生活していました。
- 八雲の追悼と再評価: 夫の死後、国内外で八雲の文学的功績が改めて評価される中、その執筆を陰で支え「語り部」として怪談などを提供し続けたセツさんの存在も知られるようになっていきました。
まとめ
明治41年当時、大関知さんは50歳でまさに「日本のナイチンゲール」として事業と執筆のピークを迎えており、小泉セツさんは40歳で亡き夫の遺志と家族を守るたくましい母として東京で暮らしていました。


















