令和に打ちこわしが起きてもおかしくない🍙べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(32)新之助の義
令和に打ちこわしが起きてもおかしくない
こんにちは
猫好き父さんです
令和の世の中においても
米騒動はあり
備蓄米という
ある意味
お救い米が出たのに
流通がなんだかんだと
言い訳をして
一向に必要な人に届かない
あげく米の価格はおもったほどに下がらない
一体誰が悪いのか
結局、食うに困らない者が
施政を行っているかぎり
世の中は良くならないということでは
なかろうか
令和の世でも
打ちこわしが起きてもおかしくない
あらすじ
御三家は新たな老中に定信(井上祐貴)を推挙する意見書を出すが、田沼派の水野忠友(小松和重)や松平康福(相島一之)は謹慎を続ける意次(渡辺謙)の復帰に奔走し、意次は再び登城を許される…。そんな中蔦重(横浜流星)は、新之助(井之脇海)を訪ねると、救い米が出たことを知る。蔦重は意次の対策が功を奏したからだと言うが、長屋の住民たちから田沼時代に利を得た自分への怒りや反発の声を浴びせられてしまう。
出演
【出演】横浜流星,橋本愛,桐谷健太,井之脇海,井上祐貴,榎木孝明,生田斗真,原田泰造,高橋英樹,渡辺謙,冨永愛,風間俊介,尾美としのり,安田顕,高岡早紀,中村蒼,岡山天音,【語り】綾瀬はるかほか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
徳川御三家(とくがわごさんけ)
徳川御三家(とくがわごさんけ)とは、江戸時代に徳川将軍家に次ぐ家格を持ち、将軍家に後嗣が絶えた際に、将軍を出す資格を与えられていた尾張・紀州・水戸の三つの家のことを指します。
徳川家康の九男・義直(よしなお)、十男・頼宣(よりのぶ)、十一男・頼房(よりふさ)をそれぞれの家祖として、将軍家を補佐し、安定した政権運営を支える重要な役割を担いました。
尾張徳川家(おわりとくがわけ)
家祖: 徳川義直(家康の九男)
本拠地: 尾張藩(現在の愛知県名古屋市)
特徴:
御三家の中で最も家格が高く、筆頭とされていました。
領地は61万石余りと、御三家の中で最大でした。
将軍を出す機会は実際にはありませんでしたが、その家格ゆえに幕府内での発言力は大きかったとされます。
紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)
家祖: 徳川頼宣(家康の十男)
本拠地: 紀州藩(現在の和歌山県和歌山市)
特徴:
領地は55万石余りでした。
第8代将軍・徳川吉宗や、第14代将軍・徳川家茂を輩出しており、実際に将軍を出したという実績を持ちます。このため、幕末期には特に重要な役割を果たしました。
将軍家との血縁関係がより近かったことが、将軍を輩出できた要因の一つと考えられています。
水戸徳川家(みととくがわけ)
家祖: 徳川頼房(家康の十一男)
本拠地: 水戸藩(現在の茨城県水戸市)
特徴:
領地は35万石と、御三家の中では最も少なかったです。
将軍を出す資格はあったものの、将軍家との血縁が比較的遠かったため、実際に将軍を輩出することはありませんでした。
**「副将軍」**と呼ばれ、江戸に定住して将軍を補佐する役割を担いました。
**第2代藩主・徳川光圀(みつくに)**は、『水戸黄門』のモデルとしても知られ、歴史や儒学を奨励し、文化的な面で大きな影響力を持っていました。
御三家の役割
将軍家の後継者育成: 将軍家に男子がいない場合、御三家から養子を出して跡を継がせる役割がありました。
幕府政治の安定化: 将軍家を補佐し、幕府内の権力バランスを保つ上で重要な存在でした。
また、御三家以外にも、徳川将軍家から分かれた一族として、**御三卿(ごさんきょう)**という家格も存在しました。こちらは田安家、一橋家、清水家の三家を指し、御三家よりもさらに将軍家に近い存在として、やはり後継者問題の解決を担いました。
このように、徳川御三家は、江戸幕府の長期にわたる安定を支える上で欠かせない、特別な存在でした。
救い米(おすくいまい)
「救い米(おすくいまい)」とは、江戸時代に飢饉や災害などで困窮した庶民を救済するために、幕府や各藩が支給した米のことを指します。
現代でいえば「緊急食料支援」にあたりますが、江戸時代は米が経済と生活の基盤であったため、単なる施しではなく、社会秩序を維持するための重要な政策でした。
救い米の仕組みと歴史
非常時の救済措置:
大規模な飢饉や水害、火災などが発生した際に、領民の餓死を防ぎ、社会不安を抑える目的で行われました。
「御救小屋(おすくいごや)」と呼ばれる施設を設置し、炊き出しを行うこともありました。天明の大飢饉の際には、江戸だけで70万人の人々が救い米や炊き出しで命を救われたとされています。
支給の基準:
支給量は、時代や地域によって異なりますが、一般的には男性は1日あたり5合、女性や子どもは3合など、年齢や性別によって量が決められていました。
支給期間も限定的で、10日間などと定められることが多かったようです。
日常的な救済へ:
江戸時代中期以降、貧困層が固定化すると、災害時だけでなく、日々の生活に困窮する人々にも救い米が支給されるようになりました。
特に、寛政4年(1792年)に設立された「江戸町会所」では、火災の被災者や貧しい町人への日常的な救済策として、救い米が制度化されました。
救い米の意義
飢餓の防止:
飢饉の際には、農民が食糧不足から種籾まで食べてしまうため、翌年の収穫にも影響が出ます。救い米は、人々が餓死するのを防ぐだけでなく、翌年以降の生産力を維持するためにも不可欠なものでした。
社会秩序の維持:
大規模な飢餓は、米価の高騰を招き、「打ちこわし」などの民衆暴動の原因となりました。救い米は、庶民の不満を和らげ、社会の安定を図るための安全弁の役割を果たしました。
「救い米」は、当時の厳しい時代において、幕府や藩が民衆の命をつなぎ、社会を持続させるために行われた重要なセーフティネットでした。
打ちこわし
「打ちこわし」とは、江戸時代の都市部で、米価の高騰や物資不足に苦しんだ貧しい人々が、米を買い占めて価格を吊り上げたとされる豪商や米屋、質屋などを集団で襲い、家屋や店を破壊した暴動のことです。
「打ちこわし」は、農村で年貢の減免などを求めて起こった「百姓一揆」とは、目的や起こった場所、参加者が異なります。
打ちこわしの特徴
発生場所:
主に江戸や大坂、京都といった大都市で発生しました。
都市に暮らす、貧しい町人や日雇い労働者、職人などが参加しました。
原因と目的:
主な原因は、飢饉や天候不順による米の不作です。
これにより米価が急騰し、生活が困窮した人々が、米を買い占め、不当に利益を得ていると考えた商人に対して怒りをぶつけました。
彼らの目的は、米を奪うことだけでなく、買い占めによって不正な利益を上げた商人に対する「制裁」でした。
歴史的な背景:
享保18年(1733年)に江戸で始まったのが最初とされます。
特に大規模な打ちこわしが起こったのは、三大飢饉(享保、天明、天保)の時期です。
**天明の打ちこわし(1787年)**は、江戸や大坂をはじめ全国に広がり、当時の老中・田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚する一因となりました。これは、飢饉への対策が不十分であったことに対する人々の不満が爆発した結果です。
幕末の慶応年間(1865年頃)にも再び発生し、幕府の権威失墜を加速させる要因の一つとなりました。
百姓一揆との違い
打ちこわしと百姓一揆は、どちらも民衆が起こした抵抗運動ですが、明確な違いがあります。
打ちこわし | 百姓一揆 | |
発生場所 | 主に都市 | 主に農村 |
参加者 | 貧しい町人、日雇い労働者、職人など | 農民(百姓) |
主な目的 | 米価の引き下げ。米を買い占めた商人に対する「制裁」。 | 年貢の減免。領主や役人の不正に対する訴え。 |
打ちこわしは、農村の百姓一揆とは異なり、支配者である幕府や藩を直接の攻撃対象とはせず、経済的な原因を作ったと見なされた富裕な商人をターゲットとしました。しかし、結果的に、これら一連の民衆蜂起は、江戸幕府の政治を大きく揺るがし、改革や政策転換を促すきっかけとなりました。
鬼押し出し溶岩
浅間山の「鬼押し出し溶岩」は、天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際に流れ出た溶岩が固まってできた、世界でも珍しい景観です。
鬼押し出し溶岩の主な特徴
「鬼が押し出した」という名の由来
当時の人々は、噴火のすさまじい光景を「火口で鬼が暴れ、岩を押し出した」と表現したことから、この名が付けられました。
天明大噴火の産物
1783年7月8日(旧暦)に発生した浅間山の天明大噴火は、歴史上でも非常に大規模な噴火でした。この噴火の最後に流れ出たのが鬼押し出し溶岩です。
この噴火では、鬼押し出し溶岩流以外にも、火砕流や土石流が発生し、特に群馬県側の鎌原村(かんばらむら)に壊滅的な被害をもたらしました。
塊状溶岩(ブロックラバ)
鬼押し出し溶岩は、溶岩の種類の中でも**「塊状溶岩」**と呼ばれるものです。
これは、粘り気が強く、流れの遅い溶岩が、表面から冷え固まる際に、内部から押されて割れ、ゴツゴツとした大小の岩塊の集合体となったものです。
一見するとバラバラの岩のようですが、これらはすべて一つの溶岩流が冷え固まったものです。
世界的にも貴重な地質遺産
長さ約5km、幅1〜2km、厚さ約30mにも及ぶ広大な溶岩流が、当時のままの姿で残されています。
噴火の激しさを今に伝える貴重な景観として、観光地「鬼押出し園」として整備されており、多くの人が訪れます。
溶岩樹型
溶岩が流れた際、溶岩流に巻き込まれた森林の大木が、溶岩に覆われて燃え尽き、幹の形をした空洞が残ったものを**「溶岩樹型」**と呼びます。鬼押出し溶岩地帯には、この溶岩樹型が多数見られ、国の特別天然記念物に指定されています。
鬼押し出し溶岩は、浅間山の火山活動の歴史を今に伝える貴重な自然の芸術作品であり、見る者を圧倒する迫力と、厳しい自然の中で生きる植物たちの生命力、そして災害の恐ろしさを同時に感じさせてくれます。
杉田玄白の著書『後見草(のちみぐさ)』
杉田玄白の著書『後見草(のちみぐさ)』には、天明3年(1783年)に発生した浅間山の大噴火とその後の天変地異について、当時の江戸の様子を克明に記録した記述が含まれています。
『後見草』における天明の災害の記述
天明の大飢饉と浅間山噴火の記録:
『後見草』は、杉田玄白が宝暦10年(1760年)から天明7年(1787年)までの社会の変化や天変地異をまとめた書物です。この中で、天明3年の浅間山噴火について、以下のような記述が残されています。
噴火の際には、江戸でも雷のような音と激しい振動を感じたこと。
空が暗くなり、庭に細かい灰が降ったこと。
噴火後、川の水に毒が混入したというデマ(流言)が広がったこと。
天明泥流と利根川の被害:
浅間山の大噴火によって噴出した溶岩や火砕流は、利根川水系に流れ込み、大規模な土石流「天明泥流」を引き起こしました。この泥流は、多くの集落を飲み込み、吾妻川から利根川を下って、遠く離れた江戸に近い場所でも被害をもたらしました。玄白は、この泥流が死体や岩を巻き込み、川を泥で埋めて干潟にする様子を見聞きし、その恐ろしさを記録しています。
杉田玄白は、当時の災害が天災であると同時に、幕府の不十分な対策によって被害が拡大したという人災の側面にも言及し、支配者層への批判的な視点も示しています。彼の『後見草』は、当時の社会情勢や人々の不安を伝える貴重な歴史資料となっています。
お救い小屋
「お救い小屋」とは、江戸時代に飢饉や災害などで食糧を失った人々を救済するために、幕府や藩が一時的に設けた施設です。現代でいうところの「炊き出し所」や「避難所」のような役割を果たしました。
目的と機能
食糧の配給: 最も重要な機能は、**米や粥などの炊き出し(施米)**を行い、飢餓で苦しむ人々に食事を提供することでした。これにより、餓死を防ぐだけでなく、社会不安の拡大を抑える目的がありました。
医療・宿泊の提供: 深刻な飢饉の際には、病人を収容して治療を施したり、身寄りのない人々に一時的な宿泊場所を提供したりすることもありました。
被災者の保護: 火災や洪水などで住居を失った人々を一時的に保護し、再建までの支援を行いました。
歴史的な背景
お救い小屋は、特に三大飢饉(享保の飢饉、天明の飢饉、天保の飢饉)の際に全国的に設置されました。
**天明の大飢饉(1782年-1788年)**の際には、江戸の各地にお救い小屋が設けられ、毎日多くの人々が食事の配給を受けました。
この時期、江戸の人口は急増し、失業者や貧困層が増えていました。米価の高騰により、食料を確保できなくなった人々を救うため、幕府は積極的にこの施設を設置しました。
社会的意義
お救い小屋は、支配者層が民衆の命を守るという仁政の一環であり、打ちこわしなどの民衆暴動を未然に防ぐためのセーフティネットでもありました。単なる慈善事業ではなく、社会秩序を維持するための重要な政策として機能していました。しかし、その運営には限界があり、全ての飢餓者を救うことは難しかったとされています。
令和コメ騒動
「令和コメ騒動」とは、2020年(令和2年)以降に発生した米の価格変動と需給の混乱を指す言葉です。
2020年のコメ余剰と価格下落
2020年、新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本の米市場は大きな影響を受けました。
外食産業の需要減少: 外出自粛や休業によって、飲食店や宿泊施設での米の消費が激減しました。
家庭内消費の増加: 一方で、自宅で食事をする人が増えたため、家庭での米の消費は一時的に増加しました。しかし、全体的な消費量の減少を補うには至りませんでした。
豊作: 2020年産米は天候に恵まれ、作柄が豊作となりました。
これらの要因が重なり、市場に米が過剰に供給され、価格が大幅に下落しました。この状況は、農家にとって経営を圧迫する深刻な問題となりました。
2023年以降の価格高騰と品薄
しかし、2023年以降は状況が一転し、米の価格は急騰し、品薄状態となりました。これは、以下のような複数の要因が絡み合った結果です。
生産量の減少: 2020年の価格下落を受けて、生産者が米の作付面積を減らしました。
高温障害: 2023年の記録的な猛暑により、稲が十分に育たず、「白未熟粒(しろみじゅくりゅう)」や「胴割れ米」といった品質の低い米が増え、流通できる米の量が減少しました。
病害虫の被害: 斑点米カメムシなどの病害虫の被害も生産量に影響を与えました。
実質的な減反政策: 2018年に「減反政策」は廃止されましたが、現在も政府は「適正生産量」を示し、転作への支援を続けるなど、実質的な生産調整が行われています。これが需要と供給のバランスを不安定にする要因の一つと指摘されています。
この一連の動きは、1993年の記録的な冷夏による「平成コメ騒動」になぞらえられ、「令和コメ騒動」と呼ばれています。この問題は、日本の食料安全保障や農業の持続可能性について改めて議論するきっかけとなりました。
この動画では、岩手県を例に、令和の米騒動の背景にある在庫不足と生産現場の課題について解説しています。
【コメ】結局、何が原因?"令和の米騒動"の背景と今後の課題 岩手 NNNセレクション
回向院
回向院は、東京都墨田区両国にある浄土宗の寺院です。江戸時代から現代に至るまで、数々の歴史的な出来事と深く結びついており、「日本一の無縁寺」としても知られています。
1. 創設の背景:「明暦の大火」の供養
回向院の起源は、江戸時代の歴史上最大の火災である**明暦3年(1657年)の「明暦の大火」**に遡ります。
この大火は、江戸市街の6割以上を焼き尽くし、10万人以上の死者を出しました。その多くは身元不明の無縁仏であり、当時の将軍・徳川家綱は、これらの犠牲者の供養を命じ、両国の地に「万人塚」という集団墓地を設けました。このとき、仏事を執り行うために建てられたお堂が回向院の始まりです。
この創設の経緯から、回向院は「宗派や縁を問わず、あらゆる命を供養する」という理念を掲げてきました。
2. 多様な無縁仏の供養
明暦の大火の後も、回向院は様々な理由で亡くなった無縁仏の供養を続けました。
天災の犠牲者: 安政の大地震や関東大震災など、その後の大災害で亡くなった多くの人々が供養されました。
刑死者や牢死者: 当時の小塚原刑場などで処刑された人々や、牢獄で亡くなった人々も回向院に葬られました。
動物の供養: 人間だけでなく、馬、犬、猫など、あらゆる動物の供養も行われています。境内には「猫塚」や「犬猫供養塔」などが点在しています。
3. 大相撲との深い関係
回向院は、現在の両国国技館がある相撲の街・両国の代名詞的存在でもあります。
勧進相撲: 江戸時代、寺社の建立や修復のための資金を集める「勧進相撲」の興行が、回向院の境内で行われていました。
「回向院相撲」: 天保4年(1833年)以降、回向院が勧進相撲の常設場所となり、明治時代に旧両国国技館が建てられるまで、相撲興行の中心地となりました。このため、当時の相撲は「回向院相撲」と呼ばれていました。
力塚: 境内には、歴代相撲年寄の慰霊のために建立された「力塚」があり、力士たちが力士碑を撫でて力を授かるよう祈願しています。
4. 著名人の墓
回向院には、歴史に名を残した多くの人々の墓があります。
鼠小僧次郎吉: 有名な盗賊でありながら、庶民のヒーローとされた鼠小僧次郎吉の墓があります。その墓石を削って持っていると「運がつく」「勝負に勝つ」というご利益があると信じられ、受験生などに人気です。
吉田松陰: 安政の大獄で処刑された吉田松陰の墓も、この回向院にあります。
その他: 蘭学者・杉田玄白が、ここで処刑された罪人の腑分け(解剖)に立ち会ったことが、後に『解体新書』を著すきっかけになったとされています。
天明の災害の供養塔
回向院にある「天明の災害の供養塔」には、天明3年(1783年)の浅間山大噴火で亡くなった人々の霊を弔うための碑文が刻まれています。
以下にその碑文の主要な部分を現代語訳とともに示します。
正面の碑文
原文: 「時維天明三年癸卯七月七日八日〈信州/上州〉地変横死之諸霊魂等」
現代語訳: 時に天明三年癸卯(みずのとう)の七月七日と八日に、信州・上州で地変により非業の死を遂げたすべての霊魂たち。
側面の碑文
原文: 「毎日詰朝、有信道俗輩、来詣此砌者、各擲一銭錙銖、漸積建基、塔婆而成矣。願以斯福、広及有情、永離生死、成無上道矣。」
現代語訳: 毎朝、信仰心のある僧侶や人々がこの石段に参詣し、一銭ずつを積み立てていき、次第に基礎を築き、この塔婆を完成させました。願わくは、この功徳が広く生きとし生けるものすべてに及び、永遠に生死の輪廻から離れ、この上ない悟りの境地に達しますように。
この碑文は、浅間山噴火の犠牲者が身寄りのない人々だったため、信仰深い人々が少しずつ浄財を寄せ合い、建立した経緯を伝えています。
蔦重、俺はおふくと坊は世に殺されたと思うのだ。
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) August 24, 2025
皆己の金のことしか考えぬ。然様(さよう)な田沼の作ったこの世に殺されたのだ!
配信は👉https://t.co/sENZFBZBcE#大河べらぼう#井之脇海 #横浜流星 pic.twitter.com/g17lmTYbx8
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負けるな蔦重!😡べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(4)『雛(ひな)形若菜』の甘い罠(わな)
上手くリードしないとしゃべってくれないかも🌠土スタ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』特集▽ゲスト 横浜流星📺1/25 (土) 13:50 ~ 14:50
先が読めない面白さがある、横浜流星さんも新鮮📚べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(3)千客万来『一目千本』
人間関係がよくわからない📚べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2)吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』
禰󠄀豆子を背負った炭治郎みたいだ👹べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ [新](1)「ありがた山の寒がらす」📚1/5 (日) 20:00 ~ 21:00