蔦重が捨てられた秘密💛べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(41)歌麿筆美人大首絵
蔦重が捨てられた秘密
こんにちは
猫好き父さんです
親子の愛と
歌の愛
どちらも
蔦重には大切ですね
知らぬは蔦重ばかりなり
あらすじ
蔦重(横浜流星)が、処分を受けた須原屋(里見浩太朗)を訪ねると、須原屋は二代目に店を譲り引退すると言う。そして蔦重は、歌麿(染谷将太)と「婦人相学十躰」の売り出し方を思案する。そんな中、つよ(高岡早紀)の身体に異変が起きる。一方、城中では家斉(城桧吏)の嫡男・竹千代が誕生。定信(井上祐貴)は、祝いの場で突然、将軍補佐と奥勤め、勝手掛の辞職を願い出る。家斉や治済(生田斗真)は動揺するが…。
出演
【出演】横浜流星,染谷将太,橋本愛,城桧吏,高岡早紀,井上祐貴,矢島健一,榎木孝明,生田斗真,里見浩太朗,中川翼,島本須美,津田健次郎,福山翔大,園田祥太,久保田武人,三谷昌登,【語り】綾瀬はるか
【作】森下佳子
【音楽】ジョン・グラム
「婦人相学十躰(ふじんそうがくじってい)」は、江戸時代の浮世絵師、**喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)**の代表作の一つである美人画の連作(揃物)です。
このシリーズは、歌麿の「美人大首絵(おおくびえ)」の様式を確立し、彼を一躍人気絵師にした画期的な作品群として知られています。
🎨 婦人相学十躰の概要と特徴
1. 作品の基本情報
| 項目 | 内容 |
| 作者 | 喜多川歌麿 |
| 制作時期 | 寛政4年~5年(1792年~1793年)頃 |
| 様式 | 大判錦絵(多色刷り木版画)の大首絵 |
| テーマ | 人相学(相学)になぞらえて、様々なタイプの女性の気質や個性を描き分ける |
2. 画期的な特徴
① 大首絵(クローズアップ)の採用
「大首絵」とは、人物の上半身を画面いっぱいに大きく描く構図のことです。
それまでの浮世絵の美人画は全身像が主流でしたが、歌麿は女性の顔の表情や上半身の仕草をクローズアップすることで、個人の内面や感情をよりリアルに、ドラマチックに表現しました。
② 「相学」に見立てた表現
タイトルの「相学十躰」は、人の人相を見てその性質や運命を判断する学問である「相学」を、美人画に洒落て取り入れたものです。
歌麿は自ら「相見(そうみ) 歌麿」と落款に記し、単に美しいだけでなく、「浮気の相」「面白キ相」といった副題を付けて、それぞれの女性の性格や傾向を外見から読み解くという、当時の知識人の間で流行していた遊び心を取り入れました。
③ 高度な彫り・摺り技術
作品の美しさを際立たせるため、当時の最高水準の技術が駆使されました。
雲母摺(きらずり): 背景に白雲母の粉を摺ることで、絵全体に上品な光沢と奥行きを与え、女性の肌や着物の色彩を際立たせています。
空摺(からずり): 着物の地模様などを、版木を強く押し付けて凹凸(エンボス加工)で表現する技法が使われ、繊細な質感を演出しています。
3. 代表的な「躰(相)」の例
現存する作品や記録から、以下のような「相」の作品があったことが知られています。
浮気之相(うわきのそう): 手拭を絞る何気ない仕草の中に、浮気しそうな色気や軽やかさが表現された作品。
面白キ相(おもしろきそう): 鏡を見ながらお歯黒を差す、新婚女性のような初々しい化粧の様子が微笑ましく描かれた作品。
ポッピンを吹く娘(ふくむすめ): **「婦女人相十品」**にも同名異版がある有名な図で、ガラス製の玩具「ポッピン(ビードロ)」を吹く娘の無邪気で可愛らしい表情を描いた作品。
「婦人相学十躰」は、同時期に制作された類似の揃物『婦女人相十品(ふじょにんそうじっぽん)』などとともに、歌麿の黄金期を代表し、後世の浮世絵師に大きな影響を与えました。
「三国通覧図説」(さんごくつうらんずせつ)は、江戸時代後期の経世家・兵学者である**林子平(はやし しへい)**によって、国防的な観点から著された地理書・地図集です。
日本に隣接する地域の地理や情勢を解説し、当時の日本が抱える海防上の危機を警告した、非常に重要な著作です。
📚 三国通覧図説の概要
1. 著者と刊行年
著者: 林子平(1738年〜1793年)。仙台藩出身の経世家で、「海国兵談」と並ぶ彼の代表作です。
刊行年: 天明6年(1786年)。
2. 内容と構成
本書は、「図説」(解説書)と「附図」(地図)から構成されています。
図説(解説書): 日本に隣接する**「三国」**の地理、歴史、風俗、物産などについて詳細に解説しています。
附図(地図): 以下の5枚の地図がセットになっています。
総図(日本と周辺地域との里程を示す全体図)
朝鮮八道図
琉球国之図
蝦夷国全図
無人島(主に小笠原諸島を指す)
3. 特徴と目的(国防地理書)
林子平は、鎖国体制下にあった当時の日本に対し、ロシアの南下などによる海外からの脅威を強く認識していました。
国防上の必要性: 諸外国の状況を知り、日本の海岸を防衛する必要性を説くための軍事地理書として書かれました。
蝦夷地への注力: 図説の記述は、特に当時ロシアの勢力が及びつつあった**蝦夷地(えぞち、現在の北海道)**に多くの量が割かれています。蝦夷地を本土並みに開発し、ロシアの侵略に対抗すべきだと主張しました。
地図の進歩: 附図の中でも「蝦夷国全図」は、当時の知識としては先進的なもので、「サガリイン」(サハリン)の名称を伴って紹介するなど、北方の地理認識に貢献しました。
4. 幕府による処分
林子平は、この『三国通覧図説』と、彼のもう一つの主要な国防論である『海国兵談』によって、幕府の政策を批判したと見なされました。
絶版処分: 寛政4年(1792年)、寛政の改革を主導した老中松平定信により、幕政批判や世情を惑わす「奇怪異説」を述べたとして、両書とも発禁(絶版)処分となり、林子平自身も処罰を受けました(寛政の三忠臣として知られるが、林は伊達藩士として処罰された)。
発禁処分となったものの、本書の国防思想と詳細な地理情報は、写本や写図として広まり、幕末の日本の対外政策や地理学に大きな影響を与えました。
「海国兵談」(かいこくへいだん)は、江戸時代後期の経世家・兵学者である林子平(はやし しへい)によって著された、日本の海防(海岸防備)の必要性を説いた代表的な国防論です。
四方を海に囲まれた日本が、対外的な脅威に備える必要性を、当時の人々に向けて具体的に警告した点で、非常に画期的な書物でした。
📘 海国兵談の概要と主題
1. 著者と成立
| 項目 | 内容 |
| 著者 | 林子平(はやし しへい) |
| 成立・刊行 | 天明6年(1786年)に脱稿、寛政3年(1791年)に自費刊行(全16巻) |
| 背景 | 18世紀後半、日本近海にロシア船など外国船の出没が頻繁になり、特に北方のロシア南下政策に対する危機感が高まっていた。 |
2. 主な主張(海国日本の国防論)
林子平は、日本が大陸と地続きでない「海国」であることを強調し、その地理的特性に合った独自の国防体制を築くべきだと主張しました。
海防の重要性: 従来の武士が陸上での戦闘に偏重していたことを批判し、「海国」である日本には**水軍(海軍)と砲術(大砲)**の整備が不可欠だと説きました。
江戸湾の危機: 「江戸の日本橋から唐(中国)・阿蘭陀(オランダ)まで境目のない水路である」と述べ、江戸湾の防備の重要性を具体的に指摘し、当時の日本の国防意識の低さに警鐘を鳴らしました。
対ロシアの警告: 北方への関心を高め、ロシアが千島・蝦夷地(北海道)へ南下しつつある脅威を警告し、軍備を整える緊急性を訴えました。
3. 幕府による絶版処分
本書は林子平のもう一つの著作『三国通覧図説』と並び、幕府によって発禁処分を受けました。
処分の理由: 寛政4年(1792年)、時の老中松平定信は、林子平の国防論が幕府の政策を批判し、世間を騒がせる**「奇怪異説」**を述べたとして危険視しました。
結末: 林子平は蟄居(ちっきょ、自宅謹慎)処分を受け、『海国兵談』の版木は没収され、絶版となりました。
4. 後世への影響
発禁処分となったものの、『海国兵談』は写本として水面下で広く読まれ続けました。
幕府が鎖国政策を維持しようとする中で、林子平の示した海防思想は、幕末の海防論の起点となり、後に勝海舟ら多くの人物に影響を与えました。本書の指摘通り、19世紀に入ると実際に外国船が江戸湾に侵入し(ペリー来航など)、幕府は海防強化に乗り出すことになります。
「オロシャ(をろしや)」は、主に江戸時代後期から明治初期にかけて日本で使われた「ロシア」の旧称です。
これは、当時の日本が外部の世界、特に北方からの脅威として認識していた国を指す言葉でした。
🇷🇺 「オロシャ」の概要
1. 意味と語源
| 項目 | 内容 |
| 意味 | 現在の**「ロシア」**のこと。 |
| 時代 | 江戸時代末期から明治初期にかけて主に用いられた。 |
| 語源 | ロシア語の「Rossiya(ラシーヤ)」やモンゴル語の「Орос(オロス)」に近い音を、当時の日本人が聞き取って表現したものです。中国語の「俄羅斯(ウォーロースー)」の発音の影響も受けています。 |
| 漢字表記 | 魯西亜(ろしあ)または露西亜(ろしあ)が主に使われました。「魯西亜」の「魯」の字は、後に「魯鈍」(愚かなこと)を連想させるとしてロシア側から抗議があり、「露西亜」に改められました。 |
2. 歴史的背景(国防との関連)
「オロシャ」という言葉が一般に広まった背景には、当時の日本の国防上の危機感があります。
北方からの脅威: 18世紀末から19世紀にかけて、ロシア帝国が千島列島や蝦夷地(北海道)への南下政策を進め、鎖国体制を敷いていた日本にとって大きな脅威となりました。
林子平の警告: 経世家の林子平は、その著作『三国通覧図説』や『海国兵談』の中で、北方からの「オロシャ」の脅威を具体的に警告し、海防の強化を強く主張しました。
3. 文学・芸術での使用
この言葉は、当時の世相を反映して文学や芸術作品にも登場しました。
例: 悲劇的な漂流者である大黒屋光太夫(ロシアに漂着し、エカチェリーナ2世に謁見した人物)に関する記録などでも「オロシャ」という表現が使われています。
現代の日本語では「ロシア」という呼称が一般的ですが、「オロシャ」という言葉は、日本の歴史において初めて本格的な対外危機意識が芽生えた時期を象徴する言葉として残っています。
加藤千蔭(かとう ちかげ、1735年 - 1808年)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した国学者、歌人、書家です。江戸町奉行所の与力という公職にありながら、学芸の世界で大きな功績を残し、特に江戸派国学・歌壇の中心人物として知られています。
👨🎓 経歴と学問
1. 公職と国学の道
出自と公職: 江戸町奉行所の与力であった父・加藤枝直(えなお)の後を継ぎ、自身も町奉行組与力、後に吟味役(裁判事務を担当)を務めました。
師事: 幼少の頃から父の知人であった**賀茂真淵(かものまぶち)**に国学と和歌を学び、県門(あがたの門、真淵の門人)の四天王の一人に数えられました。
閉門と学芸専念: 1788年(天明8年)に公職を辞した後、寛政の改革の影響で一時閉門を命じられます。これを機に完全に公務から離れ、学芸に専念しました。
2. 国学の業績:『万葉集略解』
千蔭の国学における最大の業績は、『万葉集略解(まんようしゅうりゃくげ)』です。
師である真淵の業績を受け継ぎ、同じ門人の**本居宣長(もとおりのりなが)**とも書簡で交流しながら、十数年かけて完成させました。
特徴: 難解な『万葉集』の全歌について、学術的な考証に深入りせず、穏当かつ平易な解説に徹した注釈書であり、後世の万葉集普及に大きく貢献しました。
📜 歌人としての活動(江戸派の双璧)
千蔭は、歌人としては同門の**村田春海(むらた はるみ)**と並び称され、「江戸派」の歌壇の双璧となりました。
歌風: 師の真淵が理想とした雄大で力強い万葉調には必ずしも倣わず、**『古今和歌集』や『新古今和歌集』に見られるような高調典雅で優美な「古今調」**を理想としました。繊細で都会的な叙景歌に優れています。
家集: 自撰の家集に『うけらが花』(朮園にちなむ)があります。
狂歌: 狂歌もよくし、「橘八衢(たちばなやちまた)」などの狂号を持ちました。
✍️ 書家としての名声
千蔭は書家としても非常に高い評価を得ており、**和様(仮名書)**に優れていました。
書風: **松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)**の書風を学び、独自の流派である「千蔭流」を確立しました。
影響: その人気は絶大で、仮名の手本帖を数多く出版し、曲亭馬琴など多くの門人を抱えました。彼の書は「千蔭焼」として陶器に焼かれたり、「千蔭緞子(どんす)」として織物に使われたりするなど、好事家の間で珍重されました。
(補足: 浮世絵師の東洲斎写楽の正体を加藤千蔭とする説もかつて存在しましたが、現在では有力な説とは見なされていません。)
賀茂真淵(かもの まぶち、1697年 - 1769年)は、江戸時代中期に活躍した国学者・歌人です。日本の古典を深く研究し、儒教や仏教などの外来思想の影響を受ける前の**「古(いにしえ)の道(古道)」を追求する国学を大成させ、後の本居宣長**へと続く国学の流れを築きました。
👨🏫 賀茂真淵の生涯と国学
1. 経歴
出身: 遠江国(現在の静岡県浜松市)の生まれ。
師事: 京都の国学者、**荷田春満(かだのあずままろ)**に学びます。
江戸での活躍: 師の没後、江戸に出て定住し、田安宗武(たやすむねたけ)(徳川吉宗の次男)に和学御用として仕えながら、国学研究と門人教育に専念しました。
県門(あがたの門): 彼の門人は全国に340名以上にも及び、その学派は「県門(あがたの門)」と呼ばれ、本居宣長、加藤千蔭、村田春海など、後の国学や歌壇を担う多くの人材を育てました。
2. 国学の思想:「古道」の提唱
真淵の学問の中心は、**外来思想(特に儒教・仏教)の影響を受ける前の古代の日本人の精神や社会(古道)**を、古典の中に探ることでした。
外来思想の排斥: 儒教の「理屈」や「偽り」を排し、古代日本人が持っていた**「まこと」(偽りのない自然な心)や、それを表現する「大和言葉」**こそが、正しい人間のあり方を示していると主張しました。
古道の追求: 古代の日本が理想の時代であり、その姿を明らかにすることが、当時の日本社会を良くするための道であると考えました。
📚 主要な業績
1. 『万葉集』研究
真淵の古典研究は『万葉集』に集中しました。
『万葉考(まんようこう)』: 『万葉集』の注釈と研究の集大成であり、難解であった万葉歌の解釈に大きな功績を残しました。
「ますらをぶり」: 万葉歌の歌風を、男性的で雄大・純粋な**「ますらをぶり」**と評価し、歌を詠む上でこの精神を回復することを提唱しました。
2. 語学研究
古代の言葉を復元するために、語学の研究にも多大な貢献をしました。
『冠辞考(かんじこう)』: 万葉集で用いられる枕詞を初めて組織的に研究し、分類・解説しました。
『語意考(ごいこう)』: 古代語の意味を考証し、係り結びの法則などの文法的な構造を明らかにしました。これは後の国語学の基礎となりました。
3. 本居宣長との関係
真淵は、国学の道を追求する上で最も偉大な後継者となる本居宣長との交流でも知られています。
「松坂の一夜」: 1763年(宝暦13年)、真淵が伊勢松坂に滞在した際、宣長と初めて対面し、夜を徹して学問について語り合いました。真淵は宣長の才能を見抜き、『古事記』の研究を勧めてその後の宣長の学問の方向性を決定づけました。この会見は**「松坂の一夜」**として国学史上有名です。
真淵は、単なる歌人や学者にとどまらず、国学を学問として確立し、日本の思想界に大きな転換をもたらした偉大な人物として位置づけられています。
**正親町 公明(おおぎまち きんあき)は、江戸時代後期(18世紀後半から19世紀初頭)の公卿(くぎょう)です。朝廷で重要な役職を歴任しましたが、特に「尊号一件」**という幕府との大きな政治問題に関わったことで知られています。
👨💼 正親町公明の概要
| 項目 | 内容 |
| 生没年 | 延享元年(1744年) - 文化10年(1813年) |
| 家柄 | 正親町家(おぎまちけ)第16代当主。公明の子孫は、後の孝明天皇の曽祖父にあたる。 |
| 主な官職 | 権大納言(ごんだいなごん)、武家伝奏(ぶけてんそう)、院別当など。 |
| 法名 | 竟空(きょうくう) |
1. 武家伝奏としての役割
公明は、朝廷の最高位に近い官職を歴任した後、1791年(寛政3年)に武家伝奏に任命されました。
武家伝奏とは: 朝廷と江戸幕府との連絡・交渉役を務める重要な役職であり、両者の関係を維持する上で非常に重要な役割を果たしました。
2. 「尊号一件」における挫折
公明の経歴の中で最も重要な出来事は、1792年(寛政4年)に起こった**尊号一件(そんごういっけん)**です。
事件の概要:
**光格天皇(こうかくてんのう)**が、実父である閑院宮典仁親王(かんいんのみや すけひとしんのう)に対して、天皇の父としての最高の尊称である「太上天皇(だいじょうてんのう、上皇)」の尊号を贈ろうとしました。
これに対し、当時の幕府老中松平定信は、天皇の実父とはいえ臣下である親王に太上天皇号を贈ることは、幕府の定める朝廷への統制(禁中並公家諸法度)に反し、身分秩序を乱すとして、強く拒否しました。
公明の立場: 公明は、朝廷側の意向を伝える武家伝奏として、中山愛親(なかやま なるちか)と共に江戸へ下り、松平定信と交渉しましたが、幕府の強硬な姿勢を崩すことはできませんでした。
結果: 朝廷側は最終的に幕府の圧力に屈し、公明は「取計(とりはからい)不行届」の責任をとらされ、武家伝奏の職を免じられた上、謹慎(閉門)を命じられるという厳しい処分を受けました。
3. その後
「尊号一件」で政治的な挫折を経験した後、公明は後桜町上皇の院別当などを辞し、1803年(享和3年)に出家して「竟空」と号しました。
彼は、幕府の権威が絶大であった時代に、天皇家の権威回復を目指す動きの中で、幕府との対立の矢面に立たされた公卿の一人として歴史に名を残しています。
**光格天皇(こうかくてんのう)は、江戸時代後期、第119代の天皇(在位:1780年〜1817年)です。皇位継承の危機を救った天皇であり、朝廷の権威回復に尽力しましたが、特に幕府との対立を引き起こした「尊号一件」**で知られています。
また、近現代の皇室典範が制定されるまで、最後に生前退位(譲位)を行った天皇としても歴史に名を残しています。
👑 生涯と即位
1. 異例の即位
光格天皇は、明和8年(1771年)に閑院宮典仁(かんいんのみや すけひと)親王の第六皇子として生まれました。これは、当時の皇室である閑院宮家(東山天皇の皇孫の系統)から出た最初の天皇であり、非常に異例の継承でした。
安永8年(1779年)、先代の後桃園天皇が皇嗣を定めずに急逝したため、閑院宮家から急遽、養子として迎えられ、9歳で即位しました。諱(いみな)は兼仁(ともひと)です。
2. 朝儀の復興と学問
光格天皇は、博学で和歌や音楽、作詩にも優れ、朝廷の権威回復に強い意欲を示しました。
復古の努力: 中世以来絶えていた石清水八幡宮や賀茂社の臨時祭などの朝儀・神事の復興に努め、朝廷の威厳を高めようとしました。この復古主義的な取り組みは、後の幕末の尊王思想にも影響を与えたとされます。
⚔️ 最大の政治事件:「尊号一件」
光格天皇の治世における最大の政治事件は、寛政年間(1789年〜1793年)に起こった**尊号一件(そんごういっけん)**です。
事件の内容
天皇の意向: 光格天皇は、実父である閑院宮典仁親王が天皇の父にもかかわらず、公家よりも下位の席次(座次)に置かれることに心を痛めました。
尊号宣下の試み: 天皇は、典仁親王に**「太上天皇(だいじょうてんのう、上皇)」**の尊号を贈り、公家よりも上位の席次を与えることで、皇室の権威を高めようとしました。
幕府の拒否: 幕府老中松平定信は、この動きを**「君臣の名分を乱す」**ものとして強く反対しました。幕府の祖法である「禁中並公家諸法度」に基づき、天皇の私情で定を破ることは許されないと主張し、朝廷の要求を頑として拒絶しました。
結果: 朝廷側は最終的に幕府の強硬な姿勢に屈し、尊号宣下を断念せざるを得ませんでした。朝廷側で交渉にあたった武家伝奏の正親町公明らは処罰されました。
この事件は、江戸時代における朝廷と幕府の権威が逆転していた現実を浮き彫りにし、朝廷に大きな屈辱を与えましたが、同時に幕府の強圧的な姿勢に対する不満を公家や知識人の間に残し、後の尊王思想の精神的な原点の一つとなりました。
📜 最後の「生前退位」
光格天皇は文化14年(1817年)に仁孝天皇に譲位し、上皇(太上天皇)となりました。
この譲位は、天皇が皇位にありながら、生前に皇子に位を譲るという**「生前退位」であり、以降は明治時代に「一世一元の制」が導入されたこともあり、第125代天皇(明仁上皇)が平成31年(2019年)に譲位するまでの約202年間、歴代最後の事例**となりました。
#高岡早紀 さんはつよの役作りについて、「あくまで自分の解釈ですが、蔦重の前に姿を現さなかった間も、つよはずっと蔦重を見守っていたのではないか、と想像しました」と語っています。
— 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」日曜夜8時 (@berabou_nhk) October 26, 2025
収録終わりに親子で!📷👍
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前回までのべらぼう
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負けるな蔦重!😡べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(4)『雛(ひな)形若菜』の甘い罠(わな)
上手くリードしないとしゃべってくれないかも🌠土スタ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』特集▽ゲスト 横浜流星📺1/25 (土) 13:50 ~ 14:50
先が読めない面白さがある、横浜流星さんも新鮮📚べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(3)千客万来『一目千本』
人間関係がよくわからない📚べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2)吉原細見『嗚呼(ああ)御江戸』
禰󠄀豆子を背負った炭治郎みたいだ👹べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ [新](1)「ありがた山の寒がらす」📚1/5 (日) 20:00 ~ 21:00

















